篝火

1

 ふわり、と浮いて、沈んでを繰り返す意識の中で、泣き声が聞こえる度に起き上がり、自分がこの世界に産み落とした小さな小さな命に己の血から精製された乳を与え、曖気を出させ、あやし、排便を促し、時々子守歌となった伝説を調子はずれのまま歌う。

 クレリアと竜が互いを守るように絡み合い、それを色とりどりの花が祝福するように周囲で咲き乱れる、まるで絵画のような布。その真ん中に施された種を表す模様に時々手を当てて祈ると、その中心から淡い光が生まれて、布全体が波打つように虹色を帯びる……赤ん坊の中で、何かが呼応するかのように力を受け入れて押し返してくるのを、リェイは手を当てる度に感じるのだ。術の気を帯びたそれに包まれて、娘は少しずつふっくらと丸みを帯びていった。

 樹下の環はここ数ヶ月で人が増えているようだ。何でも、樹下の森に程近い場所にある根の町では、魔獣に齧られた根が再生せず、幾らかの家屋が再建不可能になってしまったらしい。そのせいで行くあてのない者が増え、樹下政府による住居の保証を求めて、環へ引っ越してくる人が多いらしい。新しい住民は様々な物資を必要としていて、特に飾り布や華やかな生地は不足しがちらしい。そんな話を聞きながら、娘と過ごす片手間に機織りをして仕上がった美しい布を売る日々を送り、一月は、あっという間に去っていった。

「アリエン」

 顔を近付けて呼び掛けると、不思議な青い色の目が自分の鼻先あたりに焦点を結ぶ。数年前はこれが宵空色だった。アリエンの双眸と薄い頭髪はリェイのものと同じ色をしているけれど、目と小鼻の造形はヴィオに似ていた。きっと美しくなるだろう。想定の日よりも半月程遅れて腹から出てきたから、リュークが生まれた時よりも随分と重くて、大きかった。乳を吸う力も強い。

「私よりも大きくなるんだぞ、アリエン」

 語り部としてヴィオが多忙を極めていた為、彼とリュークが施術院まで降りてくることは出来なかったが、生まれた時にすぐ連絡が行ったらしく、次の日の夜には手紙が届いた。丈夫な紙の上には、夫の字だけでなく、大小様々で真っ直ぐに揃っていない息子の字も書かれていた。わけもなく色々なものが込み上げてきて、何度も何度もなぞって、声に出して娘に読んでやった。「アリエン、ぼくはきみのおにいちゃんです、いつかあいにいきます」と、習いたての文字で、リュークが妹の名を呼んでいる……その声が聞こえてくるようだ。もしかしたら、全く会わないまま、息子の声は低くなってしまうのかもしれないと思うと、胸と喉のあたりに何かが詰まったような心地になる。

 リェイは毎朝、アリエンを抱いて施術院の屋上に行った。第一段目の枝が視界を覆い尽くし、霞むほど向こうへと伸びている。まるで螺旋階段のように、第二段目がその上に被さっている。第三段目、第四段目、第五段目、と続く巨大なサーディアナールのきざはしは、美しい緑と垂れ下がる蔓に覆われていた。嘴黒鳥や尾白鳥、蝶や花潜りが、葉をつけた細い枝から枝へ、あるいは大樹に根を絡ませる寄生木や蔓に咲く色とりどりの花から花へと羽ばたくのが見える。木漏れ日が翠を弾いて、朝露を輝かせていた。恩寵と呼ばれるサーディアナールの実は見えないが、環がこのまま増築を繰り返せば、それに手が届く日はいずれ訪れるだろう。

 娘の澄んだ目はそれら全てを余すところなく映す。願わくは、この美しい世界を瞼の裏に沢山焼き付けて、忘れないようにして欲しい、とリェイは思うのだ。

「アリエン、いい子ね、もっと泣いてもいいのよ」

 ドーサはそう言う。リュークと比べてアリエンはあまり泣かない。柔らかくて隙間の多い紙を敷いて綿をたっぷり詰めたおしめをつけさせていたが、それが汚れた時も、不快そうな声を呻くように上げるだけで、激しく声を上げることは少なかった。空腹の時は多少泣いたりはしたが、泣き方の違いにリェイがすぐ気付いて対処出来たというのもあって、穏やかな日々を送っている。

「一人目――リュークの時が大変だったから、アリエンは助かる」

「あら、そうなの……この子は落ち着いているのね、だけど、上の子は活発で」

「ああ、リュークは何にでも飛びつく子だ」

 つのむし、つのむし、と自分や夫を幼子とは到底思えないような力で引っ張っていく息子の姿を思い出して、リェイは思わず笑った。今は樹上の〈ゆりかご〉で他の子供達と一緒に好奇心を学びへと向けているのだろうか。狩りの後に家族三人で樹下の森の開けた安全な場所を散策している時や、リェイが機織りをしている時、夫と交代で料理をしている時、いつもリュークはそこらじゅうを駆けて、見えるもの全てを指差しながら、あれは何、これは何と訊いたものだ。そして、虫だろうが動物の糞だろうが料理用の刃物だろうが、何でも触ってみたがった。

「……元気だろうか」

「上にいるんでしょう、リェイの番いと一緒に」

「そうだ、今は四歳で、ヴィオの――ああ、私の夫だけれど――受け持っている〈ゆりかご〉で、勉強をしているらしい。年上の子に可愛がられて、面倒を見て貰っているみたいだ」

 リェイが言えば、ドーサはそれを想像したのだろうか、目元を緩めて喉の奥で笑う。結い上げた褐色のお団子が愉快そうに揺れた。

「何となくわかるわ、リュークがどんな子なのか」

 二ヶ月経った頃には、アリエンの体重も生まれた時の二倍近くなって、大樹の根元にある控えの間まで足を伸ばした。娘の首をしっかり支えられるように、肩から斜め掛けにした幅広の布で抱いて手を添える。そうしてからドーサと一緒に久し振りに長い階段を降りて、扉を守護している退治人と軽く挨拶を交わし、その後はドーサに小声で聖句を唱えて貰った。

 扉が開くと、出てくるのは堂々たる体躯の竜。

「シシルス――」

 呼び掛ければ、リェイの声に反応して、シシルスは一声鳴いた。それがすぐに閉まった扉に反射してあたり一帯に響き渡ったものだから、その場にいた人々が慌てたのは言うまでもない。まずい、と思ってリェイはアリエンを見下ろした――赤ん坊の耳を劈くような泣き声がいつ娘の口から飛び出してもおかしくないと感じたのだ――その不思議な青色をした目が真ん丸に見開かれていて、遥かに巨大な竜を映している。

 シシルスが首を傾げて、金色をした大きな瞳を瞬かせ、鼻先を近付けてくる。するとどうだろう。アリエンは見開いた目を細めたかと思えば、何とも楽しそうな声を上げて、手をばたばたと振り回しながら笑い出したのだ。竜の鼻先が、縛った肉のようにむっちりした腕や、今にも落ちそうな柔い頬の膨らみに触れる度に、声を上げる娘の小さな手が、ぺち、ぺち、と音を立てて硬い鱗を叩いた。

「あれまあ、この子は大物になるねえ」

 ドーサがそう呟くから、リェイも、そうかもしれない、とぼんやり思った――枝のゆりかごに抱かれて育ったその子供はやがて大きく逞しくなり、背の丈はおよそ二メトラム、握ることが出来た枝を片っ端から折り取って武器と成す程の力持ち。その双眸はクレリアの恩寵を受けて翠に優しく輝き、鬨の声が上がれば、その内に秘めた心が燃え上がり、流れるような美しい髪は怒りを帯びて炎のように逆立つ。数多の魔獣を屠り大樹サーディアナールを守護した彼はやがて世界の理に触れ、クレリアの御許に迎えられて礎となった――はしゃぐアリエンを見つめながら、竜と言葉を交わしたという英雄の伝説が夫によって語られるのを思い出していると、何か硬いものにつつかれて、リェイは我に返った。

「シシルス?」

 アリエンの笑い声の上で、竜が不満そうな顔を見せている。一体何を訴えたいのかわからなくて首を傾げると、鼻息が小さな突風となって前髪を捲り上げ、息が詰まった。顔を押さえれば、腕をそっと咥えられたり舐められたりしてから、鼻先がまるで気遣うように優しく擦りつけられてくる。濡れたところを見れば、竜の唾液がおしめの水洗いによって荒れた手を覆っていて、あっという間につるりと美しい肌へと変わっていった。

 甘える声は変わりない高さだ。

「……そうだな、二ヶ月くらい会っていなかったな」

 全くだ、とでも言いたげに、シシルスは一声、控えめに鳴いた。リェイは驚きながら、綺麗になった自分の手を見つめた。竜の唾液がこのような作用をもたらすものだったとは。そうしたら、鱗は、角は、肉は、血液は、どういった効能を持つのだろう、と考える。周囲がどよめいているのがどこか遠く聞こえた……その中に混じった、英雄の再来だ、という言葉だけが、人混みを掻き分けて耳の中に飛び込んでくる。

「英雄だ」

「クレリア様の預言を覆す英雄だ」

 今なお耳の中で響く英雄伝説に、環の広場で聴いた言葉が混じった。人魚の歌姫が伝説の唱和を先導する時、サーディアナールは炎に包まれる――英雄よ栄えあれ、という唱和が次第に揃い始める中で、確かそれを言っていたのはファイスリニーエという名の女で、シシルスの背中にあるものよりも小さいが、よく似た翼を持っていた筈だ、と思った時だ。

 突然シシルスの尾がしなった。棘が何かを掠って、赤い飛沫が散る。キン、という硬い金属音が響き、素早く飛んだ影が一つ着地した。

「――一筋縄ではいかぬか」

 赤子を抱いた自分の前にその者はいて、片足をよろめかせる。十五本の枝が絡み合う美しい大樹の葉に溶け込む碧の羽織は、背中を流れて膝の裏でひらりと一度翻り、すぐに大人しくなった。広場の床についた手の中には、漂白されていない天然の白をした短剣。ブーツの紐と革がすっぱりと切れて、ふくらはぎからは鮮やかな血が滴り落ちている。口元と鼻を布で覆ったその顔を、リェイは知っていた……自ら助けた者を覚えていないわけがない。

「あなたは」

 英雄の相棒が、傷つけられた、捕まえろ――などという声が響く。それは、誰かがその男を床に引き倒す勇気を呼び起こした。一人が大声を上げて飛び掛かると、後に何人も続いた。次々と向かっていく人に埋もれて、樹下の森で助けた男は、顔を覆う布をはぎ取られ、目元や頬、首筋に、擦り傷や痣を次々と増やしていく。リェイは思わず叫んだ。

「やめろ、皆は無事じゃないか! シシルスだって無傷だ、やめろ……」

「我らが英雄よ! それでもこいつは傷付けようとした!」

 腕の中でアリエンがむずがり始める。シシルスはリェイの身体にあっという間に尾を巻き付けて離そうとしない。どうしてこんな気持ちを抱くのかはわからなかったが、本当はすぐにでも駆け寄ってその傷を治したいと思った――樹上に守るべきものを残したまま、短剣の名に誓って、また相見えるだろうと言った人を。

「この人には前に会ったことがある! だからやめろ、皆!」

 リェイは必死で声を張り上げた……否、張り上げることしか出来なかった。やめろと言っておきながらその後に何をどうすればいいかわからないのだ。そしてそれは逆効果だった。

「英雄ともあろうお方が、相棒の竜を傷つけようとする者を庇うなんて!」

「違う……聞いてくれ、私の話を」

 肩の関節が外れた音がして、男が呻き声を漏らす。どうしようもない怒りと悲しみがリェイの腹の底から湧き上がってきた。目の前で傷付けられている人を助けることは出来ない……腕の中には非力な娘がいるし、〈烈火の魔女〉と呼ばれたところで、自身は小柄で細っこくて、大した腕力もない。下手に動けば――

「吊るせ!」

「環の端に縄をかけろ!」

 不意に、空気を打つ音が聞こえた。見れば、怒りに狂ったサルペンが咆哮を上げ、物凄い速度で突っ込んでくる。伏せろ、と誰かが怒鳴った――英雄という名で呼ばれた以上、今ここで己の強さを見せなければ、と、何となく思った。ベルトの衣嚢の中には符が入っていて、手はいつでも突っ込めた。リェイは取り出したそれを掲げる。シシルスの咆哮が轟く中で、〈精霊王の思し召しの下に〉と、口を動かした……火や風の名前を抜かして。

 しなる尾と鋭い牙の下で明滅するのは四柱の実体無き巨大な姿。

「私を英雄だと言うのなら……私が英雄なら、私の話を聞け!」

 叫んで、リェイは聖句の後半を唱えた、〈このものに力を与え給え〉と。

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