7
四十代の女性というものはこんなに頼りになるのか、とリェイが身をもって知ったのは、翌朝、何故かドーサの後ろに退治人組合の長であるゲリックが一歩後ろに控えているのを見た時だ。白に近い短い髪をしたゲリックの名と顔は、リェイも退治人になる時に直接会って任ぜられたので知っているが、組織の一番上の者と会う機会などはそうそうないのでそれきりである。その上、用がある時は必ず事前に申請をして二日か三日後に面会をする、という流れを辿るのが普通だ。だから、樹下政府の偉い人を昨日の今日で引っ張ってくるなんて、一体どういった術を使ったのだろう、とリェイは恐ろしく思った。
それから三人はシシルスに乗り、大樹サーディアナールの根本に向かって、ゆっくりと進んでいった。環の階段をずっと降りて根まで到達した。そこはとても広く、向こう側が霞んで見える。リェイ達が降り立った場所には精霊殿が存在していて、その奥には更に地下へ向かう大きな穴が掘られていた。そこをずっと下っていくと、シシルスが何頭も飛んで回れそうなくらい高い天井に列柱が立ち並ぶ空間へと出る。その向こうには、根よりも巨大な門が存在するのだ。祭りの時に飾られた、ゴルドが意匠を担当した布の大きさにも匹敵するだろう。
「ここは……来たことがなかったな」
「クレリアの御足、と言われる場所なのよ、暗いからあんまり人が来ることはない」
話しをしている側で、怖いもの知らずのシシルスは巨大な門を熱心に眺めている。見上げると、女に近い姿で沢山の枝葉や花をその身に宿した土の精霊王クレリアが左の門に彫られている。右側には、鱗と思しきものに全身を覆われ、四つ足を持ち、皮膜のついた翼を拡げた生き物。
目の前で長い尾を動かしている竜に、とてもよく似ている。
「この門の向こうか?」
「そうよ……ゲリック、リェイが好きな時に入れるようにしてあげて」
「承知した、ドーサ殿」
ゲリックは微笑んで、丁寧に固められた土の床を踏みしめた。
「炎の精霊王ヴァグールの思し召しの下に」
御年三十二歳を迎えた豊かな男の声は、そのしっかりした体躯から朗々と響き渡る。
「土の精霊王クレリアの御代に力を与えたまえ」
地面に炎が走った。
リェイは聖句など知らなかったが、紅色の光が描いた軌跡を知っていた。それは複雑な線を描いているように見えたが、わかるのだ。何故なら、ハルスメリのインクでシンター紙に似たような線を沢山描いてきたから。
魔獣達の背や腹に浮き出ていたのと同じ模様が炎となって迸る。それはリェイの描いたものよりももっと複雑に絡み合って、不思議な幾何学模様を描きながら動いていく。樹下の退治人達が狩りをする時に生み出すような単なる火の玉のようにはならずに、扉に描かれた木々の彫刻を伝って上がっていった。火の粉は巨大な扉の彫刻をなぞって芽吹き、まるで水のように流れ、花を咲かせ、美しく散った。そうしてそれが上まで達した時、重い音を立てて、巨大な扉はゆっくりと滑り出したのだ。
「あの扉が気になるか? だが、ここは三月の初めに行われる年始の祭祀に、控えの間として使っている場所だ。リェイ、今言った聖句は口外無用だ、気を付けるように……まあ、その様子を見るに、大丈夫だとは思うが」
「……わかった」
リェイは開いた口を閉じることが出来なかった。それと同時に、中に隠されているものがあるということに気が付いて、敢えて「控えの間として使っている」とだけ言ったゲリックの忠告が耳ではなく胸にそっと刻まれる。
目が合ったドーサは、肩を竦めてにやっと笑った。
「まあ、開いたところで、中にあるのは石碑だけれどね……読める人は殆どいないわ」
「石碑? 大樹の中に、か? いや、この場所だって、大樹の中にあるのはわかるけれど」
「クレリア様の中にあるなんて、って、来た人はみんな驚くのよ。大地の精霊王様だから、よく考えなくてもあり得るけど……ほら、扉も壁も床も、すごく硬い石になっているでしょう。広場も中も、どれだけ踏んでも枝みたいに折れやしないわ、とっても丈夫なのよ」
奥に進んでいくと、言われた通り、中には石碑が一つ存在しているだけだった。ドーサが言ったことを反芻しながら近くの床に手を触れると、成程、柔らかい土に覆われた森の地面に慣れた身としては硬すぎる上に広すぎて、何だか落ち着かない気分になってくる。
それと同時に、この硬い感触をどこかで味わったことがある、と、リェイは思った。
いくら広いとはいえ、閉じ込められることに難色を示したシシルスをどうにか説得して、ゲリックの管理下に置くような形で扉の中に保護――と、リェイは思っている――してから、時が過ぎるのは早かった。食事となる森の生き物の肉の収集を退治人から広く募集し、それが集まり始める頃には、美しい竜の存在を樹下の誰もが知っていて、祭祀の時期でもないのに沢山の人が訪れるようになった。中には、伝説の生き物だから、と、供物と称して直接森の生き物を献上しに来る者も存在した程だ。シシルスが樹上の騎士から命を狙われているということを把握したゲリックがそのように仕向けて、扉の外に報奨金つきで退治人の中から護衛を雇い、参拝客と献上物を受け付け、絶えず人の目が存在する状態にしたのだ。組合長のやり方には少し疑問を覚えたが、この大きさになっていた時点で、一人でどうこう出来る問題ではなくなっていた、と、リェイも思うのだ。
しかし、気に掛けることが減ったおかげで、施術院に持ち込んだ大量の糸と機織り機は大活躍だった。リェイは胴着となる布を沢山織って、ドーサを通してそれを売って生まれてくる子の為の資金に変えた。勿論、産着や肌着も沢山仕立てた。赤子が健やかであるように、という願いを込めて、夫から預かった名前に相応しいように、樹下の美しい花や芽吹く種などの図案を、隅から織り込んでいく。緑色の糸を使う植物の葉や茎は、符に描く紋を組み合わせた。地下の巨大な扉に描かれていた土の精霊王クレリアの姿が忘れられなくて、それも中央に織り込んだ。シシルスの姿を織り込んだ布も織った。リュークの時も機織りはしていたが、今よりももっと簡素な意匠だった。
機織りに飽きたら刺繍をした。幾何学模様を施すのは重労働だったが、無心になれるのはいいことだ。二日程経って刺繍にも飽きたら、シシルスに会いに行った。沢山の人が巨大な生き物を一目見ようとごった返す中、竜は躊躇うことなくリェイに近付いてきて、親愛のしるしに鼻先で額に触れてくるのだ。その息遣いは突風のようで、リェイが機織り、刺繍、面会、と繰り返している二ヶ月のうちに、種の子はまた二回り大きくなった。
それが崩れたのは、一月一日の昼頃だった。
脚の付け根が痛くて、楽な姿勢で座り直す為に、ずっしりとした腹を抱えて機織り機から立ち上がった時だ。自分の身体の中から、ぷつん、という音が聞こえた。その後すぐに行った厠で下着が濡れているのに気付いて、雑な布で何とかしながら、ドーサを呼んだ。自らが経産婦でもある彼女は、即座に状況を把握して、施術院の女を何人も連れてきて、リェイを木の寝台に寝かせた。
そこからはあっという間だった。
リュークの時に比べたらかなり早かった、というのが、最初に抱いた感想だ。だんだん回数が増して時間が長くなっていく腹の痛みを抱えながら数刻、寝台についている肘掛けを掴んで力を入れ始めて半刻。太陽が沈んで、空がヴィオの目の色になる頃、元気な産声と共に小さな花が咲いたのだ。
「リェイ、女の子だよ!」
暦の始まりを告げる日に、アリエンは生まれてきた。
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