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それから三日で、環の施術院に持って行く為の荷物を、リェイは纏め始めた。元から持ち物は少ない方だが、この小屋に人がまた一人増えるのだから、施術院で衣類の整理とリュークが赤子の時に来ていた服を仕立て直さねばならない。普段から、自分や家族の着るものは、糸だけを根の町や環の店で買ってリェイが仕立てていたので、作業には慣れている。四輪の手押し車に糸や針、符の材料だけではなく、環にいた頃から使っていた組立式の機織り機も分解した後に畳んで入れた。自分の服も擦り切れているものが多くなってきているので、繕ったり、新しいものを何着か仕立てたりしたい。その為に環へ行く途中で布のもととなる糸を買い足したかったので、いつも貨幣を入れている衣嚢に金子を補充する。これで、森に入れずに退屈な毎日を送らなくても済む筈だ。
糸を選別している時、小屋の入り口の扉からシシルスが大きくなった頭を突っ込んで金色の目を瞬かせたところで、リェイは懸念事項が一つあったことに気付いた。軽量化の符を貼った手押し車に自分の荷物を積んでゆっくりと歩いていくつもりだったが、自分が環にいる間、竜はどうすればいいのか、と。既に自分が罠で得ているだけでは足りない量の肉を一日に消費するようになった竜は一日に何度も森へ赴いては何かを食べていたようで、身体に傷を負ったり、鋭い牙の間にほんの少しの肉片や骨の欠片を付着させたりして戻ってくるようになった。おかげで罠の数を減らすことが出来て森の散策の際の負担が減ったのは嬉しいが、一体何を食べているのだろう、と疑問に思うことも少なくない。
「森にいてくれるか、シシルス?」
そんな風に訊けば、シシルスは口を閉じたままもぐもぐと動かし、眉間に皺を寄せ、目を細める。感情の発露に関しては大分人間臭くなっているようで、リェイが狩りや家事で何かちょっとした失敗をした時に思わずやるような渋い表情を、竜は見事に再現していた。
「不満か? でも、あなたは自分だけで食べ物は調達出来るだろう」
そういう問題ではない、と言いたげに、竜はぷすぷすと鼻を鳴らす。次いで、その喉から低い警告音が発せられる。反射的にリェイは身構え、囁いた。
「――何かいるのか」
そのまま音を立てずに小屋の外へ出ると、シシルスの背に一列になって並んでいる棘は寝たままだ。興奮した時にはそれが一斉に逆立つからすぐわかるのだが、どうやら今は穏やかな気持ちらしい。
「何もいないじゃないか、なら、どうしたんだ?」
グルル、シュー、クルルル、と、不思議な抑揚のついた唸り声を出しながら、大きな頭は背にそっと触れ、鼻先や鱗が優しく擦り付けられる。言葉による意思疎通が出来ないのは何ともやりにくくて残念だとリェイは思うけれど、この優しい竜が寂しいと感じているわけではなく、自分を案じているということが、何となく伝わってきた。金色の瞳が、手押し車と纏められた荷物を見ている。
「大丈夫だ、シシルス、ちょっと行って帰ってくるだけだから」
そう言って鼻先や額、角の生え際を宥めるように撫でてやれば、シシルスは心地良さそうに目を細め、その日はそれで終わりとなった。しかし、ちょっと、と言っても、リェイは身重である。二月の末に環へ家族で赴いた時よりも時間は掛かるだろう。少なく見積もっても五日、長ければ十日を費やしてもおかしくはない。おまけに、環に滞在する期間がどれくらいになるかもわからなかった。ひょっとしたら自分の身体の回復にかなり時間が掛かるかもしれないし、万が一のことだってある。
「あなたは樹下の森にいて欲しい。きっと環に来たら大騒ぎになるし、あなたが安全である保証は出来ないから……この間、狙われただろう? 大騒ぎになると、狙う人も増えるかもしれない、そうしたら危ないから」
だから、次の日になって荷物を載せた手押し車の底に重さを軽減する風の符を貼り終えてから、巻き付くように守っていた小屋からするりと離れたシシルスに向かって、リェイはそう言ったのだ。
しかし、竜の答えは思っていたものと違った。その首がぬっとリェイの後ろに回り、沢山の荷物を詰めた手押し車の取っ手を、あっという間に咥えて遠ざけてしまったのだ。
「こら、返しなさい、シシルス」
フェーレスの思し召しとはよく言ったもので、リェイが慌てて窘め、手押し車を引っ張っても、自分はこれが正しいと言わんばかりのシシルスは噛んだ取っ手を離そうとしない。それどころか、四本の脚を全て折り曲げて猫のように大地に伏せ、その巨体を低くして、梯子のように翼を伸ばすのだ――まるで、乗れと催促しているかのようだ。
「……まさか、環に行くつもりなのか?」
思わず呟けば、竜は翼の先の鉤爪でリェイの足をそっとつついた。
たった半日という短い間で、リェイは小屋から宿泊予定の宿屋まで難なく辿り着いた。二日か三日掛かると想定していたから、順調と言って間違いないだろう。ただ、人に似た種族しか行き来することのない狭い街道を、目立つことこの上ない巨大な生き物が歩いているのは、根の町の人々にとっては前代未聞の大事件である。背の棘と棘の間に人を乗せ、手押し車を口で咥えて押しながら四足歩行をする、鱗に覆われていて翼のある大きなトカゲ。噂はあっという間に広まり、大樹サーディアナールを取り囲む樹下の森の内側に住む人々の中ですぐに動ける者は、リェイとシシルスが行く街道沿いにこぞって押し掛けた。
「伝説の再来じゃないか」
「乗っているのは退治人だ、あの顔は知っている、烈火の魔女だ」
「女なのはわかるが、あれは妊婦じゃないか?」
既に一日目の時点でそういった声を幾つも聞き、行き先を何度も何度も尋ねられたので、リェイは疲労困憊していた。二月末にも来た大きな裂け目にある小綺麗な宿の主人とは顔見知りになっていたが、まさか知り合いが見たこともないような大きな生き物を伴って来るなどとは想像の範疇外であろう。その背にリェイが乗っているだけでも驚愕と困惑の表情を見せていた主人は、臭いを嗅ぐ為にシシルスが鼻を近付けただけで、腰を抜かしてしまった。ひとしきり宿屋の主人を鼻先で弄んだ竜は満足して大欠伸を漏らしていたが、人の方は終始大慌てであった。
その日、翼を持つ巨大なトカゲと烈火の魔女を訪ねてくる人は後を絶たなかった。太陽が沈んで何刻も経った深夜に、裂け目の中に入れなくて拗ねたシシルスが宿屋の扉から首を突っ込んで、質問攻めにしてくる壮年の男性の帯を牙に引っ掛けて外へずるずると引き摺っていくまで、リェイはずっと喋りっ放しだった。夕方に宿の主人が冷たい茶を入れて出してくれた金属の水差しは、汗をかくのをやめてぬるくなっていた。
「昨日はありがとう、シシルス」
翌朝、盛りのついた木漏れ日が躍る頃に起きたリェイは、巨大な根の上に伏せて宿屋の軒先に頭を垂らしている竜に向かって、礼を言った。
長い尾をその取っ手に巻き付けて手押し車を引き摺る、という方法を試そうとするシシルスの背に乗ったところから、二日目は始まった。奇怪な生き物を一目見ようと根のあちこちから街道に集まった人々に対応するのは専らリェイだ。中には、リェイの住んでいる小屋と大樹サーディアナールを挟んで反対側の根の方からわざわざ来た、などという人間もいた。そんなに短期間でどうやってここまで来たのかと問えば、旅人は言うのだ。
「私は樹下の火使いだけど、一段目の騎士様なら割と気さくだから、頼めば騎獣で飛ばしてくれるよ……人を選べばいいのさ、烈火の魔女様」
片目を瞑りながら親し気にそう言った彼女はとても美しくて、大きな胸に透き通った灰色の目、艶のある金色の髪、きめの細かい肌をしていた。シシルスの棘にやっと捕まっていられるくらい小柄で細っこくてつり目のリェイはしみじみと思うのだ、美人は得だなあ、と。夫も子も竜も、自分にとって過分だと思った存在が自分の人生にはあるけれど、自分にないものはいつだって羨ましい。
竜は押し寄せる人に殆ど構わず、迷いなく歩を進めていった。その勢いと堂々たる体躯のおかげで、進行方向に飛び出す人は殆どおらず、道の真ん中であっけにとられた子供は竜の腕があっという間に浚って、屋根や根の上に避難させられた。シシルスの歩調は速く、その後を見届けることが出来なかったので、リェイは子供が二階建ての屋根より高い根の上からどうやって救出されたのかは知らない。その代わりに、太い首すじを叩いてこう言っておいた。
「根の上ではなく、せめて道の端っこにしてやってくれ、シシルス」
すると、竜は首だけをくるりと後ろに回し、了解した、とでも言いたげに、喉の奥から柔らかい唸り声を出すのだ。
道中、糸を山のように買った後、食肉用の牛を育てている牧場に寄った。森の物資と牛一頭を交換することに成功したので、昼のシシルスは哀れな巨体を骨も残さず丸ごと平らげ、とても上機嫌であった。良質な昼食が端緒となったのだろう、四人で環に向かって旅をした時よりもずっと早く、二日目の宿をとることもなく、大きな種の子はその日の夜更けに環の階段へ足を掛けた。手押し車を尾で引き摺ったまま階段を行く気か、と思ったリェイは慌てて止めようとしたが、それを見越していたのか、竜はリェイの身体と手押し車をそれぞれ左と右の前腕にそっと抱え、なんと後脚だけで立ち上がり、歩いてみせたのだ。
「驚いた、いつの間に二足歩行が出来るようになったんだ、シシルス?」
森へ出ている間に色々と自分で覚えたのだろうか。そういえば、食事から戻ってきた時に傷を負っていたこともあったが、シシルスの鱗についていた傷はどれも刃物によるそれではないように見受けられた。立ち上がったのだろうか、飛ぶ練習をしたのだろうか。竜の傷は翌朝には全て完治して消えてしまったので、今となっては確かめようもない。どこか得意げに唸りながら階段を上がっていく巨躯のせいで、環は一定の間隔で揺れ続けた。
ヴィオが手配をしたという施術院は環の中腹に存在している。シシルスは入ることが出来ないので、人と手押し車を下ろして今晩は外で待機、ということになった。施術院で専属となった女性は、名をドーサといったが、夜更けに到着したリェイを温かく迎え、ふかふかの一人掛けの座椅子と花柄の透かし彫りが美しい丸い机がある部屋へいざない、湯気の出るスープとパンでもてなしてくれた。四十代の彼女は、褐色の長い癖毛を後頭部で括って垂らし、朗らかな声は心地よくて、丸っこい頬と身体がとても健康的に見える。
「……ところで、リェイは、あの大きなサルペンをどうするつもり?」
スープとパンを平らげた後に食後のロウゼル茶を振る舞って貰い、それを飲んでいると、ドーサがそんなことを訊いてくる。リェイも、シシルスをどうするかについては悩みどころだった――主に食事についてだが。
「……ヴィオが言っていたけれど、あれはサルペンではないらしい」
「……確かに、サルペンにしては、見るからに大きすぎるものね」
「ドーサは、サルペンを見たことがあるのか?」
リェイがそう訊けば、ドーサは頷いた。環のすぐ上にある一段目の枝に、サルペンと共に飛ぶ騎士隊があるらしい。一段目だけでなく十五段ある全ての枝に存在する騎士達は、空を飛ぶ魔獣を狩る任務に就いているが、その時に仕留めて落とした獲物は樹上には持って上がることが出来ないので、縄で括って下へよく持ってくるそうだ。その獲物を下げるのも一段目の騎士の役割だということだ。
「サルペンはもっとずっと小柄ね、せいぜい二人乗りが限界だ、って、騎士様も言っていたわ……リェイが連れてきた――というより、連れてこられたのかしら? あの子はサルペンの四倍くらいあるわ」
「そうなんだ、とにかく大きくて。あと、脚も四本あるし……いや、あの大きさが居座っても邪魔じゃないところを、環の樹下政府あたりに問い合わせないといけないな」
施術院でゆっくりしている場合ではなさそうだ、とリェイは思うのだ。こればかりはヴィオに任せるわけにはいかない。樹上の生き物は樹下で生きていてはいけない、などと言う輩も上にいて、シシルスの命を狙っていることが分かった今、夫に連絡を取って手配をさせるのはあまり宜しくないだろう。竜を保護する樹下の人が危険に晒される可能性もあったので、出来れば大樹サーディアナールを取り囲んでいる広い樹下の森に身を隠していて欲しかったが、シシルスは今のところ自分から離れる気はないらしい。
それを説明すると、ドーサはにっこり笑って、こんなことを言うのだ。
「そうだ、大きくても環に入れるわよ……とっておきの場所があるの」
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