烈火

1

 翠の木の葉に囲まれた世界である大樹サーディアナールの第十五段目は、樹下の喧騒など一切届かぬ高い場所に存在していた。父は元々この第十五段目の出身で、大樹の実を口にし身体に種を宿して恩寵を得ている。其れとは育ち方が異なるからか、そこの空気の薄さに慣れるまでに二ヶ月程かかった、ということを、リュークはぼんやりと覚えている。

 樹上での生活が始まったのはそれからだった。

 父であるヴィオライト・シルダは右足がうまく動かず、走ることが出来ない。リュークが物心ついた時からそうだ。太い枝の上をゆっくり歩くことしか出来ない父ではあるが、樹上での移動方法については膨大な知識を持っている。細い枝の走り方、枝から枝へ飛び移る方法、恩寵を持つ他の人が呼んだ大樹の蔓を利用した移動方法。〈語り部〉である父は、恩寵を宿していない子供でも出来るようなありとあらゆる素早い移動方法をリュークに教えてくれた。それは決まって、〈ゆりかご〉で沢山の子供達にありとあらゆる樹上のことを教える学びの時間の後だ。

「自分の身体の左上に、ちょっと出ている太くて短めの枝があるだろう? そう、それだ、それを左手で掴む……そうそう、上手だ、リューク。それから、右足を上げて、少し小さめの瘤に掛ける……足の指のあたりを使わずに、土踏まずにはまるようにするといい」

 父の言う通りに四肢を動かすと、本当に枝を苦労なく昇ることが出来たり、移動がとても楽になったりするのが面白かった。最初は、落ちるかもしれない、という恐怖を抱きながら、一歩一歩踏んだ場所の堅さを確かめて移動していた。第十五段目に来て三年近く経った今では、枝の上は父の受け持つ〈ゆりかご〉で出会った年上の友人達と共に駆け回る遊び場になった。

 年上の友人達は皆、性別に関係なく、滑り止めのついた革の手袋や革の靴を身に着けて、枝や幹の上を自由に跳ね回っていた。リュークはそれが羨ましくて仕方がなかった。何でも、七歳の誕生日に、〈ゆりかご〉の主である〈語り部〉――ということは父だ――から与えられたらしい。とても羨ましくて、家へ帰る道すがらねだったことがある。

「とうさま、僕も手袋と靴が欲しい、滑り止めがあるやつ」

「お前にはまだ早いよ、リューク」

 リュークと手を繋いでゆっくりと歩きながら、父は首を振った。

「どうして? ねえ、何で、皆持っているのに、僕は駄目なの?」

「七歳になるまで、それを身に付けてはいけないことになっているからね」

「……僕も、皆と一緒に、一杯走りたいのに」

 そう漏らせば、父は笑い声を漏らしてから、そうだなあ、と前置きをして説明を始める。

「お前は、ちょっと前に〈ゆりかご〉で皆と一緒にいる時に教えたことを覚えているかな。サーディアナールは、リュークみたいな七歳までの子供がいい子にしていないと、蔓を伸ばして浚っていく、ってね……実は、あれにはちゃんとした理由がある」

「ちゃんとした理由?」

 首を傾げて問うと、父は厳しい顔で振り返った。それは、ちょうど第十四段目の美しい広場を見下ろすことが出来る場所にある自宅の前だった、とリュークは覚えている。

「そうだ。サーディアナールは、病気の子や痩せすぎている子なんかを、蔓で浚って礎にしようとする。七歳になっていない子だ。とうさまはいつもリュークに向かって言っているだろう、ご飯を残さず食べなさい、と。あれはそういう理由があるからだ」

 リュークは、同じくらいの年齢の子供と比べると小柄で、食も細い。筋骨隆々とまではいかないがしなやかな筋肉を纏った背の高い父親よりも、小柄で華奢な母親に似たのだろうか。枝の上に設えられた階段で他の子供と行違う時があるが、皆、自分よりも体格がよかったり、丸々と肥えていたりした。それを見る度に、強そうで羨ましい、と思ったりするのだ。

「……ちゃんと食べるよ」

 二人で家の中に入り、白い羽織を脱ぎながらそう言えば、父は満足そうに頷く。

「いい心掛けだ。ともかく、七歳までの元気な子は、木の上から落ちて死なないように、サーディアナールが蔓を伸ばして助けてくれる。一緒に上に来た頃、落ちかけたことがあっただろう?」

「うん」

 四歳の誕生日を迎えた後、母に会う為に樹下に赴く日のことだった。逸る気持ちを抑えられず、枝の上を走り、足を滑らせ、危うく落ちるところだったのだ。その時、自分の脚に長い蔓が巻き付いてきてあっという間に宙吊りになったことは、思い出す度に恐ろしい記憶だ。

 臓腑が一瞬浮き上がり、頭が逆さまになった時の感覚は、今反芻しても胸や局部のあたりが縮み上がるような心地になる。

「……怖かった」

「とうさまも怖かった。お前が七歳になっていなくて、恩寵を受けられてよかったと思ったよ……かあさまにはまだ報告出来ていないけれど、言わなくていいからね」

 大きな羽織と小さな羽織を壁から突き出した外套用の杭に引っ掛けながら、父はまた首を振った。それから、手袋を脱いで小机の上に置き、瓶の中の水に浸してあった薄い布を手に取る。父はいつも、じっとりと汗をかいたリュークの肌を拭いてくれるのだ。サーディアナールの葉の抽出物が入っているという水は肌に触れるとすうっと染みていき、爽やかな香りもして、とても気持ちがいい。

 リュークの身体を拭き終わって、慣れた手つきで瓶を持って傾けながら布に水を含ませた父は、自分の顔や身体も同じように拭きながらこう続けた。

「七歳を過ぎると、サーディアナールの蔓に襲われたり、うっかり落ちた時に蔓が助けてくれたりすることはない。七歳から十五歳になるまでに、サーディアナールから落ちて礎になる子が多くてね。そうならないように、と、とうさまや他の語り部は、皆に手袋と靴をあげているのだよ」

 ちょうど一年程前だろうか。幼い頃から通っている父の〈ゆりかご〉で、ある日を境に姿が見えなくなった年上の子供がいたことを、リュークは思い出した。父が何日も翳った表情をしていたことも、朧げに覚えている。誰かが言っていた、寝過ごしてうっかり手袋を着けないまま家を飛び出し、〈ゆりかご〉に通う近道の途中で手を滑らせて落ちた、と。

「あの子達にあげた手袋と靴の為に使っている革はね、サーディアナールの葉から採れる油を使って柔らかくしているんだよ。手袋を貰った子は、どこの枝でもいいからサーディアナールの葉っぱを取って、他の人のやり方を真似して、自分で手入れをするんだ……葉っぱの裏で滑り止めを拭いてあげると、ぺたぺたするようになるからね」

 家の柱となっている幹から突き出た枝についている葉を何枚か毟った父は、こんな風にね、と言いながら、外していた自身の手袋を葉の裏で強く擦った。触ってご覧、と言いながら差し出された手袋の滑り止め部分に触れてみれば、成程確かに、指にぺたぺたとした粘着力のある何かが付着した。右手の親指と人差し指をくっつけて離そうとしてみれば、それはゆっくりと別たれていった。

「ほんとうだ、面白い」

「だろう。とにかく、健康な子が五歳とか六歳で手袋を持つ必要はない……もしも持っていることがあったのなら、それは何か理由があって礎にさせたくないと願われている、健康でない子だ」

「……例えば、どんな人?」

 リュークがそう尋ねると、父の表情は僅かに苦みを帯びる。

「例えば……もしもの話で、こんなことを言うのは、本当は駄目だけれど。白翼の聖者様にあんまり健康じゃない子供が生まれたら、その子は、歩き出した時くらいから手袋や靴を貰っているだろうね。この手袋を着けている人は、絶対にサーディアナールに浚われたりはしないから……覚えておきなさい、そして、下手に口にすることのないようにね、リューク」

「ふうん……わかった」

 父は一回だけ頷いて、家の中を通っている枝から流れ落ちている綺麗な水で身体を拭いた布を洗い、それを水滴が出なくなるまでしっかりと絞った。

「今日はアロカナ鶏の肉を菜種油で揚げてみようか……ああそうだ、後、手袋や靴を見せて貰うことがあったらよく観察してごらん、鳥や蜘蛛の模様があったりするからね。あれは、下へ落ちないように、っていう意味があったりする。同じ模様のものを持っている人はいないから、面白いよ」

 そう言った父がしまおうとしている手袋には、竜の模様がとても丈夫な糸で描かれていた……母の家で見た黒い鱗を持つあの蜥蜴の如き生き物のような。陽の光を浴びて生まれる虹色の光沢がとても美しい黒い鱗、好奇心と知性を宿した金色の双眸、しなやかな長い尾は色々な動き方をして感情を表す。幼い棘の生えた背中、とても硬い小さな角。小さな翠の希望を堅い種皮の中に秘めた、シシルスという名。どれだけ大きくなっただろう。

 絞った布を拡げて吊るし、身に着けていた装備を片付けたら、次は食事の準備だ。炊事場に向かいながら喋る父の後ろを、リュークはついていく。夜の料理は必ず手伝いをするのだ。

 ふと、母と、生まれている筈の妹はどうしているだろうか、と、リュークは気になった。

 

 第十五段目の丈夫な枝の上の中程に、リュークは父と共に住んでいる。拵えられた自宅の扉のすぐ傍――おおよそ父の胸元くらいの高さだろうか――には竜の頭のような形の瘤があるのだが、住み始めた頃はそこに手が届かなかった。その小さな竜に向かって話し掛けるのが日課だったのだが、月日を経る毎に、挙げた手が小さな竜に近付いていった。七歳の誕生日がだんだん近付いてきた今は、手が届くばかりか、ぎゅっと握ることが出来るようになった。

 手袋と靴を貰える日が近付いてきている。母と妹と竜に知らせたいと思った。

 手にぴったり収まる大きさをした天然の木製の竜を見上げ、ぐっと握って話し掛けると、時々何かの脈動が伝わってくるのがわかるのだ。それを言えば、がっしりとした男の割に綺麗な顔をした父は普段見せている凛とした真面目な表情を崩し、ふわりと優しく笑う。

「お前には土の気が宿っているからね、リューク。だから、サーディアナールの中を巡っている土の気がきっと感じられるのだと思うよ……とうさまは違うけれど、かあさまが火の気を宿した人だから、生まれてくる子は火の気を使えるかもしれない、と思っていたんだ。それが、とうさまの受けた恩寵のせいで土の気に変わったのだろうね」

 それから、もう少ししたら土の気の使い方を教えて貰えるようにしよう、と父は言った。

 その日はいつもと同じように過ぎていった。乾燥させた果実と穀物をサルディア牛の乳に浸してふやかした朝食を取り、前の日の夕食の残りが入った軽食用の箱を抱えた父と一緒に、〈ゆりかご〉へ赴く。それから、年上の友人達に交じって、大樹の歴史や伝説、伝わっている歌や色々な模様の意味、騎獣の種類や育て方、樹下の様子や生活、樹上と樹下の結びつきと展望まで、様々なことを学ぶ。剣の稽古は、リュークの身体が小さいので、まだ見学だけだ。

 そういった学びの時間は午前で終わる。父が入れてくれた昼食を〈ゆりかご〉で食べる時が、リュークの一番の楽しみだ。樹下でも、家の中のことを引き受けてそれを一心にこなしていた父は、とても料理が上手い。今日は、麦餅を薄く伸ばしたものの上に大きな翠球の葉を敷き、とびきり広い第五段目の枝の上で育てた甘辛く煮たサルディア牛の肉を乗せて巻いたものだ。大きな口を開けてかぶりつくと、爽やかな翠球の葉と肉のうまみが口いっぱいに広がって、幸せな気持ちになる。しかし、こんなに美味しいものを食べている途中なのに、今日の父は、リェイのスープが食べたいなあ、なんてことを零した。

「何でかというと、かあさまの作るスープは、とうさまが樹下で初めて食べて、とても美味しいと思った料理だからね」

 訊けば、父はどこか得意げな表情をしてそう言った。

 昼からは、父の目が届く〈ゆりかご〉の近くで友人達と一緒に遊ぶ。枝を剣のように構えてちょっとだけ戦ってみたり、サーディアナールの葉で笛を作ったり、度胸試しに飛び跳ねて枝を揺らしてみたり、誰が一番速く決められた枝の上を走っていけるか競争もした。

 子供達が〈ゆりかご〉に通い始めるのは、手袋と靴の扱いにすっかり慣れた九歳からだ。彼らは、遊ぶ時はいつも、リュークがまだ小さいからと手加減をしてくれた。でも、リュークは戦いごっこではいつも負けていたし、速く走るのも苦手だったし、枝は上手く揺らせない。だけれど、大きな音の出る笛を作るのは一番上手くなった。凄い、教えて、と年上の子供達から言われるのは今までにない経験で、身体の中からむずむずとした嬉しさが湧き上がってくる。

「上手だねえ、凄い! これ、手袋に擦るより面白い!」

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