6
そんなことを言いながら穏やかに微笑んだかと思えば、同じ日に、蔑むような視線を寄越してきたり、火の気を持つ生き物に対する呪詛を思いつく限り吐いたり、一切の表情をなくしてしまったりするのだ。エイデルライトは不安定だった。態度が変わる時は、決まって右頬の傷が痛むようだった。その度にリュークがおまじないを唱えると、頼りなげに震えるのだ――夜明けに昇ってきた太陽を出迎える色の双眸が、まるで魔獣のように。
「フェーレス、フェーレス。痛いの、持って行ってあげてください」
母の教えてくれたこの言葉が彼に正気を取り戻させているのもおかしな話だと思った。
不安定といえば、リュークは人生で初めて、不安定ながらも符を描いた。母が手紙を飛ばしてきてから三日経った夜、返事を風に乗せた。自分でも上手く描けたと思った符は、少しよろよろと揺れながらも、何とか飛んで行った。それを見届けたのは、普段なら寝台に入って三刻程経った頃だったから、当然その翌日は寝坊をした。ヨスティネに急き立てられながら急いで支度をし、オデルの背に乗って〈ゆりかご〉まで飛んだのだ。
白翼を羽ばたかせて〈ゆりかご〉の前に着地したエイデルライトと視線が合ったのは、フテロミス種の柔らかい毛皮から滑り降りた時だった。女騎士が眉を顰めたのも見えてしまった。
「あの白翼の聖者殿だが……ヴィオライト殿の方針とは逆のことを、どうも〈ゆりかご〉の子供達に教え込んでいるという話を聞いた。大丈夫なのか、リューク?」
その夜のことだった、ヨスティネがどこか不満そうな顔でリュークに尋ねてきたのは。
慣れぬ他人の家の炊事場のつくりにようやっと理解が追い付いてきた、という様子の女騎士の手伝いをするべく、食料の保管箱から珊瑚樹や釣鐘樹の実、米などを取り出していた時だった。家の中を通る大樹寄生植物であるサンタラームの巨大な茎の中程に突っ込まれた栓を抜いて、たっぷり貯め込んだ水を鍋の中に出し、ヨスティネはリュークを見つめてくる。
「……そうかなあ」
リュークにはわからなくて、首を傾げることしか出来なかった。
「何でも、火の気を持つ者は全て葬られるべきだとか……」
「確かに、エイデルさまはそういうことは言っているけれど……僕には、優しい」
ヨスティネはじっとリュークを見つめる。サンタラームの茎の穴から水が流れ出て鍋の中に注ぎ込む音だけが暫く響いていた。ややあって彼女は口を開く。
「本当か? あなたは……あなたは、ヴィオライトの息子だ。白翼の聖者殿にとっては敵対者も同然だと私は思うが……火の気を持っている者を下からこっちに戻そうと考えている者の息子だ、普通に考えたら、邪魔だと思う筈だが」
どうしてか、火の気、という言葉で、リュークはハヴィルのことを思い出すのだ。
この女騎士が一度オデルの背に乗せただけで彼を好きになってしまったことは何となく理解出来ていた。母からの手紙に書かれていたことを、リュークはこの優しい女騎士にまだ伝えることが出来ないでいた。自分に実感がなかった、というのも大きいだろう。それに、怖かったのだ。それを伝えた時、彼女がどんな反応をするのかを想像すると。
ころころと変わるのはエイデルライトの表情だけでたくさんだった。
「エイデルさまは……エイデルさまは、僕に色々なことを教えてくれる。身体の動かし方も、武器の使い方も、土の気を上手く操る方法も……どうしてだろう」
「……もしかしたら、あなたがまだ、サーディアナールの加護を受けている子供だからかもしれないな。七歳になって、加護が消えた日から変わるのかもしれない」
それは違うだろう、という確信があった。敷板を調理台の上に置いてから料理用の短剣を取り出し、ヨスティネに差し出して、リュークは首を傾げる。
「じゃあどうして、今のうちに僕に色々なことを教えてくれるんだろう。僕が何も知らない方が、僕が七歳になった時に、やっつけやすいと思うけれど」
「……ますます、あの聖者殿が何をしたいのかわからないな。出来もしない竜の討伐で怪我をして、おかしくなってしまったのではないか?」
女騎士は眉を顰めてから、気を取り直したように、今日は炊き込み飯にしようと言った。リュークはエイデルライトの様子がおかしいのは頬の傷のせいだけではないのかもしれない、ということを言おうかと思ったが、やめた。それは秘密にしておかなければいけないような気がした。
母から三通目の手紙が来たのはそれから四日後の夜のことだった。
前の手紙にどういう返事をしたのか、リュークは思い出す。自分と父は元気だが、母からの手紙が尾白鳥の脚に括りつけられて届いた時に使いが来て、サルペンに乗ってどこかへ行ってしまって帰ってきていないということ。父の〈ゆりかご〉に白翼の聖者エイデルライトが来て、皆に色々なことを教えた、ということ。後、ハヴィルが死んだのは本当なのか、と書いたような気もする。
母の手紙には前回と同じように、美しい模様が描かれていた。見慣れた字は走り書きではなく、大分落ち着いていた。
――全て本当のことだ。信じられないかもしれないが。
すると、リューク、この手紙は、あなたしか読んでいないようだね。
少し書き方を変えた方がいいかもしれない。このままで大丈夫だろうか?
私は信じられないような光景を見ている。今もその上に立っている。
シシルスが砂漠を抜けた。私も実感がない。
竜という種族は凄い、昼も夜も、砂漠の上をずっとずっと飛び続けた。
リューク、あなたは見たことがない筈だけれど、砂漠の向こうに一体何があるか知っているか?
私は知った。誰も見たことのなかった光景かもしれない。私は今草原の上にいる。
森でも砂でも、大樹でもない。草が沢山生えていて、それがどこまでも続いている。
巨大な水の塊が広がっている景色も見た。そのすぐ近くに降りて、歩いてみた。
花畑があった。アリエンが凄くはしゃいでいた。
花を摘んで冠を作ったけれど、樹下では見ない種類だったから、不思議な感じがする。
近くに、根ではなくて、石で出来た柱と土台が沢山残っていた。
砂漠で見たものよりも綺麗に残っていたように思う。知らないと思うから説明しておこう。
環の根元にある祭祀の控えの間の奥には扉があって、その向こうに部屋がある。
そこに、一つの石碑がある。沢山の模様が刻まれている……あれは文字なのだけれど。
あの石碑に刻まれているのと同じ文字があった。
水場の傍に落ちていた屋根らしきものの、正面の方に。
ところで、とうさまがどこに行ってしまったのか、わかったら教えて欲しい。
ハヴィルのことは本当だ……私も信じられないけれど……私は……私は……
あの時どうしたらよかったのだろう。でも、とにかく、生きている今を大事にして欲しい。
二人とも、無事でいて欲しい。エイデルライトに気を付けて。
親切そうに見えても、その心の中はわからないから――
「かあさま……」
月の下、砂の上。夜の砂漠を越えていく竜の姿がはっきりと脳裏に映し出される。大きく成長した立派な角は王の冠のような影を落とし、寒さも暑さも感じさせない鋼の鱗は月光を受けて夢のような虹色に輝き、映える。咆哮は夜空と砂に吸い込まれていく。巨大な翼が何度も空気を打つ音を聴く人は二人しかいなかったのだろう。
やがて辿り着くのは見たこともない場所。森でもなく、砂でもなく、草が沢山生えていて、それがどこまでも続いているというのは、一体どんな景色なのだろう。想像するのだ、そこに存在する大きな水の塊、傍にある沢山の大きな石の柱。落ちてしまった屋根に刻まれた模様を。
花畑で、花冠を頭に乗せた、まだ見ぬ妹の姿。
騎獣を手に入れられたのなら、共に行くことが出来るのだろうか。リュークは思った。それともシシルスくらい大きくないと駄目なのだろうか。竜族は、サーディアナールの天辺近くに巣を作っているという。そこまで行けば、卵を一つ持ち帰らせてくれれば。
母の見ているものを自分も見たいと思った。妹を羨ましいと思った。
リュークは、すぐに返事を書かなかった。読み終わった後は、何だか身体の中がよくわからないもので一杯になってしまって、そのまま寝台に横になって、眠ったのだ。
そうして夢を見た。炎の渦巻く砂の世界を越えた先に、綺麗な花畑があった。
リュークが七歳の誕生日を迎えた日、傍には父も母も妹もシシルスもいなかった。
エイデルライトが何かしてくるのではないかと思っていたけれど、そんなことは一切なかった。寧ろ、サーディアナールの加護を失ったリュークを一層強く鍛えるべく、今までよりも熱心に指導した。
家族が誰もいない代わりに、ヨスティネがいた。女騎士は、献身的で、己の心における理性と感情のつりあいを取ることが非常に上手く、エイデルライトと比べるととても安定している。いつの間にか色々と話すような間柄になっていた。姉がいたらこんな感じなのだろうか……だが、完全に家族だとは思うことが出来なかった。
「全く、樹上政府は何をやっているのだろうな……樹上と樹下の交易路や自分達の安全を守るので精一杯で、ヴィオライト殿の味方は、仲間を増やすのに手が回っていない。私も第十五段目から下の枝にいる友人に色々と話したりはするけれど、どこか他人事だ」
彼女が政治的な話をすることが増えた。リュークは、それを聞く度に疲れが増すような気がした。でも、仕方がないとも思うのだ。
七歳になったら、と約束していた手袋と靴が、父の名前で、配達人から届いた。沢山の芽と花に囲まれた美しい竜の刺繍が、全てに施されていた。父の手から直接受け取りたかったが、それでも見た瞬間からとても嬉しくて、その日はそれを枕元に置いて眠った。
父は帰ってこない。時々、配達人が手紙を届けてくれた。
――第十五段目の中央に宿泊している、
樹上と樹下との間に拓かれた交易路を守る為だ。それを妨害しようとしているのは、
白翼の聖者派の騎士達だが、竜の巫女ファイスリニーエはこの事態を憂いている。
巫女自らが武器の使い方を会得し、身体を張って、
実力行使に出ようとする者を止めるようになった、それを手伝っている――
――とのことだった。ぼんやりとしかわからなかったが、大変なことになっているのはわかった。竜の巫女は大樹サーディアナールの樹上政府の中で最も権威ある存在だ。それが、火の気を忌み嫌う者達に反対することになっているのではないか。
母からの手紙は十日に一回くらいの頻度で届いていた。手紙を読む度に、リュークは自分の心がサーディアナールから離れて、まるで一緒に旅をしているような気持ちになった。返事の度に写していた複雑な符も、とても綺麗に描けるようになって、もう何も見なくてもよくなった。覚えてしまったのだ。父から時折手紙が来る、ということを母への手紙で報告しながら、今まで誰も知らなかったことを、リュークは文字で知って、あれこれと想像するのが楽しかった。
――元気だろうか。とうさまから何か連絡はあっただろうか。
なくてもいい。リューク、あなたならきっと、
何かあったらすぐに連絡を寄越してくれる筈だ。信頼している。
符を描くのもとても上手になった。私がいなくても立派に過ごしているようだ。
今日は樹下の森に似たような森を見付けた。
だが、生えている木の種類が、見たことのないものだ。ここはどこだろう――
「どこへ向かっているのかな、かあさま」
それをそのまま文字にして返せば、届いたのはこんな返事だ。
――太陽の沈む方向へずっと向かっている。おかげで、夕方はとても眩しい。
今日は、水が流れている場所を見付けた。
それはずうっと長くて、太陽の昇る方向から、沈む方向へ流れているようだった。
この流れに沿って行こう、と、シシルスが決めていたみたいだ。
暫くその傍を歩いてみたけれど、とてもゆっくりとした流れだ。幅はわからないくらい広かった。
ヴァグールとクレリアの祭祀の日に、ゴルドが考えた模様の布があっただろう。
あの布よりもずっとずっと幅が広い。怖くなった。私だって怖いと思うことが沢山あると思ったら、
急にとうさまとリュークに会いたくなったよ。どうか元気でいて欲しい。
このままシシルスはどこへ行くのだろう。知っているのだろうか。
セザンナは、砂漠の向こうへ、と言っただけで、その後はわからない。
シシルスが知っているのだろうか。言葉を交わせたら訊けるのに。
竜の言葉を知っている人がいたらよかったのだが、私にはわからない――
「竜の巫女様なら何かわかるかなあ」
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