5
昼の糧を挟んで宵は再び暁と出会う。リュークは首を振った。もしもそれが本当であれば、母や父と一緒に住んでいた樹下の森の辺にある家は破壊されてしまったのだろうか。角虫を戦わせた倒木の上も、フラガリアのジュースを飲んだ店も、ふかふかの寝台と広い部屋のある宿屋も、巨大な根に彫られた階段も、その上に連なる段々畑も。
「魔獣がサーディアナールの根を食らうことは知っているようだが、これは知らぬか」
頷いたリュークの心の内を映したように、エイデルライトの表情が僅かに翳る。
「魔獣達は火の気を持っていて、自らもよく燃える……中には槍で突いた瞬間に膨らんで爆発するものまでいる。そのせいで魔獣討伐に赴いた騎士が何人も犠牲になった。私は魔獣が大樹サーディアナールを食い尽くすのを阻止しなければならない……火の気は危険だからだ。もしも飛び移った火が消えず、そのせいでサーディアナールが焼き尽くされようものなら、上に住んでいる者の命が徒に消えることになる。ここまでは理解出来るね?」
リュークは再び頷いたが、相手が何を伝えたいのかまだわからない。白翼の聖者は、二人の間にある握り飯を包んでいる大きめのサーディアナールの葉を少し裏に向け、そこに見える葉脈をなぞりながら口を開いた。
「故に、私や私の父トリニエライトは、火の気を帯びたものを一切樹上に持ち込ませぬように、対策を取ってきた。武器も、人も、生き物も……せめて命だけは奪わずに、という願いが古くからあったから、それに従って、何もかも樹上から下へ送ってきた。しかし、君のとうさまは……ヴィオは、火の気を帯びたものを樹上へ戻すことを推進しようとしている。既に礎となったヴィオの父シャマルライトも、そうだった」
「……僕の、じいさま?」
「そうだな……だが、シャマルライトは、トリニエライトの謀によって礎になった。私も、あの人の言いつけとはいえ、ヴィオを……君のとうさまを、下へ落とした。私がやった」
「どうして」
握り飯が手から落ちて机の上に転がった。エイデルライトはそれをそっと受け止めて、葉の上に置き直し、勿体ない、と言いながら微笑む――その直後に彼は痛みを堪えるかのように、右頬を押さえて俯き、呻いた。
再び顔を上げた時、その顔は奇妙に歪んでいた。
「私でないと嫌だったからだ」
「……どうして、そんなことをしたの」
リュークは立ち上がった。上手く動かない父の右脚が母に駆け寄っていくのを思い出す。どうして引き摺っているのかずっと疑問に思っていたことだった。
その原因がここにいる。手を伸ばして、白翼の聖者が身に纏っている胴着の胸元の装飾を掴んだ。相手がどうして微笑んでいるのかわからなかった。新しい日の到来を告げる色をした双眸が僅かに歪んで潤いを湛えていても、それがどうしてなのかわからなかった。
「どうしてか? ヴィオはいつも私と一緒にいたからだ。第十五段目だけじゃない、第一段目から、誰も住んでいない第十七段目まで、共に駆け回ったからだ。誰よりも大切な親友だったからだ。誰よりも……竜の巫女よりも、ずっと大切で、ずっと近くにいた」
リュークには何もわからなかった。わかりたくないと思った。だから、自分が掴んだものを揺さぶった。持てる力をめいっぱい使って歪んだ顔をした人の形を揺さぶった。それはよく揺れた。
気が付いたら泣いていた。
「どうして大事にしなかったの」
「……リューク、私は君に言った筈だ、心を鍛えなさいと」
「そんなの、どうだっていい……どうして」
胸を掴んでいた筈の手が、エイデルライトの手でいとも簡単に引き剥がされた。それが悔しくて、リュークの腹の底から何かわけのわからないものが奔流となって、喉の奥で唸り声に変わり、目の奥で次々と涙に変わる。身体中を駆け巡るのは昨日覚えた感覚だ。
「どうして、とうさまを大事にしなかったの、大切だったんでしょう、どうして」
揺らぐ世界に翠の光が走る。握り飯の下に敷かれているサーディアナールの葉が震えた。熱を通して炒られている筈の香辛料の種が、混ざる米の間から新芽を次々と出す。生まれた幼い翠はあっという間に伸びて、もとの植物にはない筈の蔓となり、次々と白い翼に巻き付いていく。そのうちの一本が首を捉えた。
苦しそうな声が喉骨のあたりから絞り出される。
「――君は弱い」
「あなただって弱い、聖者なんかじゃない!」
「如何にも――さもありなん、だが」
リュークのぼやけた視界の中で、エイデルライトは凄まじい笑みを見せた。おおよそ聖者などとは程遠いような、ただの人が狂気の果てに浮かべる笑みだった。崇め奉る対象などではない、リュークや友人達と同じ生き物の成れの果て。
蔓に締め付けられた大人の喉の奥から、息が言葉となって漏れる。
「その力を使って、抵抗をせぬ者を手に掛けようとしている……その心は、ヴィオの――君のとうさまの息子としては、失格ではないかな」
もう少ししたら土の気の使い方を教えよう、という父の言葉が、リュークの耳の奥から蘇った。父に教えて貰う前に土の気を使ってしまった、という罪悪感が襲ってくる。蔓が萎び、枯れていくのはあっという間で、あんなに滾っていた怒りは、我に返った瞬間に後悔を連れてきた。
エイデルライトが激しく咳き込みながら、片手を伸ばしてくる。リュークの髪や頬を撫でてくるのは、まるで全てを赦してくれるかのような優しい温もり。
「案ずるな、君は失敗をしただけで、取り戻せないことではない」
「――ごめんなさい、エイデルライト様」
「エイデル、でいいと言ったろう、リューク……私は大丈夫だ」
次に見た微笑みは至極優しいものだった、それはまごうことなき白翼の聖者らしく。リュークは声を上げて泣いた。抱き締めてくれる腕をとても恐ろしく感じていたが、それでも、母や父とよく似た体温の生き物であることを信じたかった。
濡れた頬に頬を寄せる、という慈しみ溢れる動きをしたエイデルライトは、暫くそのままリュークを撫でていてくれた。それから、徐にこんなことを言う。
「語り部の職に就いている君のとうさま……じいさまもそうだったけれど、二人とも相当なやり手だ。他の語り部を味方につけて、子供から、その家から、全てを変えようとしている……下の者と協力して大樹サーディアナールを守ろう、という気らしい」
リュークは顔を上げた。〈ゆりかご〉に集う子供をどうやって変えるというのだろう。
「……よくわからないけれど、何が駄目なの?」
「駄目というわけではないが、使い方を間違えると危険だ……君の立場で考えてごらん、リューク。語り部が皆、私の言うことを正しいと思って、火はサーディアナールにあったら危ないから火の気を持った生き物は皆殺してしまおう、なんていうことを〈ゆりかご〉で教えたら……それを教えられた子供達が、火の気を持った生き物は殺さなければいけないと思うようになるかもしれない。何年か後に試練を受ける子供達が、皆、君の敵に回ることになる。怖いとは思わないか?」
リュークは、恐怖と共に違和感を覚えた。目の前にいる人は火の気を忌み嫌い、彼にとっては穢れてしまっているらしいシシルスを襲ったのではなかったか。それがどうして、まるでリュークの味方であるかのようなことを言うのだろう。白翼の聖者としてではなく、エイデルライトとしての何かなのだろうか。かの人は返事を待たずに続ける。
「怖いけれど……」
「私も含めて、火の気を嫌っている人はこう思っている。あの竜は礎にならなければならなかったし、君のかあさまも、優秀な騎士と騎獣を礎にするどころか、灰にしてしまった……家族がいるのは君だけではないのだよ――」
白翼の聖者は突如呻き、その顔から笑みが消える。押さえたのはまた右頬だ――手が離れた時、そこには何の表情もなかった。リュークは思った、おかしい、と。
だから、いつか聞いたおまじないの言葉を、宙を彷徨う大きな手に自分の手を重ねて唱えた。
「フェーレス、フェーレス……痛いの、持って行ってあげてください」
その時、二つの暁が震えた。まるで魔獣のように。
夜、どうしてか眠れずに、リュークは木製の窓を開けて第十五段目の夜を眺めていた。
思い出すのは、白翼の聖者が宿していた奇妙な不安定さ。あの後、君を鍛える必要があると言ったのは私だから実行しよう、などと宣言したその人は、リュークに受け身の訓練を施し、ちょうどよい大きさのサーディアナールの枝で剣術の基礎や槍術の基礎を叩き込み、挙句の果てには土の気の使い方まで教えてくれた。自分は使えないが、と断りを入れた上で蔓の操り方などを説明出来るエイデルライトは、何度も何度も繰り返し、力の込め方や集中する方法を解説し、土の術を使わせた。そのせいでリュークはとても疲れていたが、眠気は一向に襲ってこない。
窓の外ではサーディアナールの葉が風を連れて、優しい子守唄を静かに歌っている。時折、夜啼き鳥の声がそこに重なって、リュークは寝台の上で何となくむずむずした。手すりのついた階段や枝の上を平らに削って作られた道の方に目をやれば、夜光花の放つ橙色の光が点々と等間隔に並んでいる。夜にしか咲かないその花は、近くで見るとなかなか愛らしい形をしていて、サーディアナールの乙女達は、幼子も尾白も祭礼の日にそれを髪に挿すのだ。番いを見付けた者は挿してはならない、という決まりも存在している。
ネティレに良く似合うだろうなあ、と、ぼんやりと道を見ながら思った時だ。
羽ばたきのような音がどこかから聞こえた。夜啼き鳥だろうかと思ってリュークは耳を澄ませたが、聞こえてくるものは翼の立てるそれではない。
その音はどんどん近付いてくる。翼ではないと確信した瞬間、目の前に何か白いものが現れて、リュークは身構えた――
「――紙?」
ぼんやりと淡く翠に光るそれは、リュークの胸に当たって、ひらりと寝台の上に落ちる。それを拾い上げて見れば、開かないような形に折られた紙には、妙に懐かしい模様が描いてあった……樹上では見たことがないから、樹下で見たのだろう。
だが、樹下のものが勝手に飛んでくることなどあっただろうか?
折り目を解いた。思ったより大きな紙だ。そこに書かれていたのは大好きな人の文字。
「――かあさま?」
リュークは囁いた。胸元で淡く光っているセザンナの鱗を頼りに、貪るように読んだ。
――ヴィオ、リューク。無事だろうか。私達は大丈夫だ。
気持ちの整理がついたから、幾つか報告をしておこうと思う。
私は今、シシルスの導くまま、砂漠の上にいる。勿論、アリエンも一緒だ。
砂漠の向こうへ行け、とセザンナが言っていたが、何があるのだろう。
何もわからないまま進んでいる。シシルスを信じて行くしかないのだろうか。
だけれど、大樹の傍にいるよりかは安全なのかもしれない、と思う。
信じられない。十四歳の時に一歩踏んだだけで諦めた場所を渡るなんて。
砂漠は砂以外何もないと思っていたけれど、あった。
小さな蜥蜴や虫が、夕方から夜に這い出てくる。生きている。びっくりした。
何かはわからないけれど、柱みたいな石が飛び出ている場所もあった。
見たことのある模様も沢山あった。どうしてだろう、懐かしいと思う。
凄く気になるものも見付けた。魔獣の死体が砂漠に落ちていて、
そこから沢山の新芽が芽吹いている。しかも、その周りが湿って、土になっていた。
悲しい知らせがある。ハヴィルが死んだ。
白翼の聖者と騎士達が襲ってきた時に、私を庇って剣や槍を背中から受けた。
ハヴィルの役に立ちたかったのに、果たせないまま、こんなところに来てしまった。
気を付けて欲しい。私を殺そうとする者がいるのなら、ヴィオもリュークも危ない。
無事なら返事が欲しい。
この紙に描いた符の真ん中を、ヴァグールを表す火の文字に変えること。
後は全部そのまま写せば、終わった瞬間に、私に向かって飛んでいくだろう。
私は、セザンナの鱗と土の気、つまり、リュークをめがけて飛ぶように符を描くから――
リュークは息を吐き出した。何もかも信じられなかった。母と妹と竜がどうして砂漠にいるのかも、ハヴィルが死んだということも、自分達が危ないということも。
そして、母が描いた見事な符が、自分を真っ直ぐに目指して飛んできたということも。複雑で美しい模様が、旋風のように所々くるりくるりと輪を描き、蔓を巻き、水の精霊王セザーニアの文字と魚の形、そして土の精霊王クレリアの文字を組み合わせた豪奢な模様に矢印を向けている。これを描くのは難しいと思った。父が一緒であれば間違いなく写せただろうが、今はいない。
それでも、今この手紙を読んでいる自分が何とかしなければいけなかった。
隣室からヨスティネの寝息が微かに聞こえてくる。リュークは素早く寝台から滑り降りて、〈ゆりかご〉にいつも持って行く背負い袋の中からハルスメリのインクと筆を取り出した。今日の眠気はまだ宵闇の訪れを知らなかった。
次の日も、その次の日も、そのまた次の日も、父は帰ってこなかった。
白翼の聖者は、毎日欠かさずリュークに体術と剣術、槍術、土の術を根気よく教え込んだ。効果的な呼吸の方法、身体の軸を丈夫にする方法、対峙した時に見るべき相手の部位、非力でも相手を下へ引き倒す方法、蔓の使い方、恩寵が消滅する七歳から十五歳までの間の戦い方。
「私はサーディアナールの恩寵を宿していない、故に蔓を使わない戦いについては修練を重ねた……尤も、背中にあるものを便利に使うことの方が多いのだけれどね」
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