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アルディールの表情が凍り付いているのが見える。リュークは、自分の身体の内側で心臓がいつもよりも激しく鼓動しているのを感じた。目の前に立つ白翼の聖者は背の翼を大きく拡げる――右翼の先の羽根が何枚か存在していない、抜けたのだろうか。
「一昨日私が樹下へ赴いたのは、サーディアナールから落ちた穢れた竜を討伐する為だ」
白翼の聖者は右腕を伸ばした。まるで失った羽根を撫でるように右手を動かし、眉を寄せる。そして、間違いなく怒りを湛えているその双眸が再びアルディールを捕らえた。
「君の姉の名前はイーレというのか?」
訪れた居心地の悪い静寂の中で響くのは、そよ風に揺れる木の葉が立てる小さい音によく似た、はい、という声。リュークは年上の友人をそっと盗み見た。大きくて優しくて頼もしいと思っていたアルディールが、小さく縮こまって震えている。
「そうか……君の姉は、あろうことか穢れた竜を庇って死んだ」
残念だ、と、ちっとも残念だと思っていない顔でエイデルライトは吐き捨てるように言った。いつも陽気に笑っているアルディールの唇がわなないて、声にならない悲鳴がそこから漏れる。姉貴、イーレ、という単語だけが辛うじて聞き取れた。
「君の姉は昨日のうちに上がってくる予定だと言ったね、アルディール。サーディアナールにおいて、火が禁忌とされることは、しっかり学んでいる筈だ。であるのに、下へ送った筈の火使いがここに戻ってくるということには疑問を覚えなかったというのか。全てはこの大樹サーディアナールを守る為に存在する樹上の掟だ。火を日常のものとし、樹上に持ち込もうとする樹下の人間は全て絶やされるべきだ。例え……例え、私の友であろうと、君の姉であろうと、誰かの母であろうと、全て」
吐き出された溜め息は、嘆かわしい、と言外に意志を表明していた。竜を庇ったということは、それがシシルスだったのだろうか。そこにはきっと母と妹もいた筈だ。そのことに気付いた時、リュークは知らず知らずのうちに椅子を蹴って、立ち上がっていた。
「本当にそう思っているのですか、白翼の聖者……エイデルライトさま」
「――君は、そうか……君がヴィオの息子か」
暁と宵が対峙した。交錯した視線は〈ゆりかご〉に抱かれ、白き光の昼に出会う。教室の中にある全ての視線が自分達に注がれていた。
「僕のとうさま――〈語り部〉ヴィオライトは、そのようなことは言いませんでした」
「……なるほど。理由を訊いてもいいかな?」
暁の双眸が俄かに光を帯びた。全ての感情をあっという間に覆い隠した夜明けの空の色が、右と左、二つの世界に別たれて、夜更けを迎えたひとつの世界を圧倒しようとしている。リュークは飲み込まれそうになって、思わず首を振った。
「とうさま……〈語り部〉ヴィオライトは、樹下と協力して大樹サーディアナールを守っていかなければいけない、と言っていました。かあさまが……リェイが、サーディアナールの根を齧る魔獣を倒す退治人だから、一緒に頑張ったらいいのに、って」
だけど、目は逸らさなかった。逸らしてしまったら負けるような気がしたからだ。
白翼の聖者は大きく拡げていた翼を畳み、腕を組んで目を閉じ、頷いた。
「一理ある」
教室の空気が騒めいた。自ら言ったことを覆すようなエイデルライトの返答に皆が驚いて息を呑んだり囁いたりしたのだ。そんなことには構わず、彼はリュークを見据える。
「だが、こちらはこちらで、樹下は樹下でやればよいとは思わないかな? 上にまで火の穢れを持ち込んでサーディアナールを危険に晒すことになるのは間違いだ……そうなる前に、樹下が脅威となる前に、私達は抑えなければならない」
「……だから、落ちた竜なんかを殺そうとするんですか。シシルスは攻める気なんてないのに」
「侮ってはならない!」
雷鳴のような声が轟き、リュークの身体は鼓膜の奥からびりびりと震える。苛烈な暁の光に射すくめられたが、負けてなるものかと背を伸ばし、誰よりも幼い身体で胸を張った。
「あの竜は優秀な騎士と騎獣を何百人も屠った!」
「それは、あなたがシシルスを傷付けようとしたからだ、エイデルライトさま!」
「人や騎獣など簡単に捻り潰せるような種族がだ――わかるか、リューク・シルダ――傷付けられることを気にして、恐れて、立ち向かってくると思うか? 竜だ……竜だぞ! たった一度、英雄にしか傅かなかった種族だ……それが、樹下の、火の気を持つ者……それも、穢れた女の傍にいるなど、到底有り得ない!」
強大な生き物は傷付けられることを恐れないというのだろうか。本当に?
そう思った時には、リュークの身体の中を不思議な熱が駆け巡っていた。
「僕のかあさまは穢れてなんかいない……汚くなんてない」
机や椅子を倒す音が遠くで聞こえる。胸元で何か強力な力を秘めたものが共鳴していた。
誰かが自分の名前を呼んでいる。熱い涙が頬を濡らしていくのがわかった。それと同時に、生命の温もりが全身を覆っていくのもわかった。
途方もなく巨大な生き物が足の下で蠢く気配。
「かあさまは……かあさまは、とうさまを助けたんだ」
滲んだ視界の向こうで、エイデルライトの表情が大きく動いたのが辛うじてわかった――まるで、驚きと悲しみと憧れが全て混じったような。絡まるサーディアナールの枝が〈ゆりかご〉から外れて自分の身体を取り囲んでいく感触に懐かしさと温もりを感じながら、リュークは手を掲げていた――無意識に。
凄まじい速さで移動を始めた枝についている葉の擦れ合う音が樹下の記憶を呼び覚ます。森から出てくる母、それを抱き締める父、獲物の毛皮の手触り。角虫の集まるごつごつした木の幹、鳥達の喋り声。母の描く符、父の作る料理、小さいけれど温かくて安心する家は森の辺、優しい声が紡ぐ子守歌。まだ見ぬ妹。
ただ、会いたいと思った。だから、絡み付く枝の中でリュークは子守歌を口遊んだ。
――枝に抱かれ眠る我が大樹のいとけなし子
あなたはその内に小さな炎を秘めて夢に遊び
やがて荒れた大地を滅びの御手から救うでしょう
つよくおなりなさい――
「わかったから、落ち着きなさい」
父によく似た声が聞こえた。すぐ近くに、赤と金を混ぜたような色の瞳が見える。強くなりたいとリュークは思った……そうしたら、自分の母を貶めるようなことを口に出すような人間を黙らせられるのに。
擽ったい感触に目を開ければ、柔らかな金糸が垂れて頬に掛かってきているようだ。ぎこちなく自分に触れているのは腕だと気付いた……力強い、男の。
「ヴィオライトはきちんと報告していなかったのか、君が相当な土の気を持っていると」
焦点が合った。結ばれたその先にあったのは、戸惑いと後悔が綯交ぜになった何とも人らしいエイデルライトの表情。頬に触れてきた指の感触が思いの外優しくて、リュークは思わず瞬きを何度も繰り返した。
「噂よりも強力だったな……気は確かか」
「……エイデルライトさま」
「大丈夫そうだな、よかった」
首を傾げたリュークの身体を、白翼の聖者はそっと抱き締める。生きている中で何か大切なものを初めて見付けた、俯いた顔にはそんな表情が浮かんでいた。友人達が心配そうな顔をして自分達を取り囲んでいるのに、リュークはそこで気付くのだ。
ややあって上げられた視線は、決意を孕んで燃えていた。
「リューク・シルダ。君は、心と力を正しく鍛える必要がある」
翌日の〈ゆりかご〉でも、白翼の聖者エイデルライトが語り部として中央に立った。しかし、新たに何かを教えるというわけではなく、彼は子供達に穢れと掟について語り、長きその歴史を披露し、何故今に至るまで掟が存在するかを考えさせた。
「おれは、火使いだから下へ行かなければいけない、というのがよくわかりません。燃えて困るなら、サーディアナールが燃えないような工夫をすればいいと思います」
真っ赤な目をしたアルディールは今日も〈ゆりかご〉に来て、勇敢にもそう言った。姉が死んでしまったというのに、この強さはどこから来るのだろう、と考えて、リュークは彼を眩しく感じる。自分は母について少し言われただけであの体たらくだ。彼みたいになりたいと思った。
白翼の聖者はその姿を射るような目で見ながら、こう返すのだ。
「どのような工夫をするつもりかな」
「……水の力を借りるとか」
「誰にだ」
それを聞きながら、リュークはセザンナのことを思い出すのだ。彼女なら何か知っているのではないか。胸元に揺れるエルフィマーレン族淡水氏の美しい青の鱗が、木漏れ日を受けて鈍く輝く。
「伝説にありますよね、陸と出会いし海の一族、っていうのが、いたと思います」
そこで手を挙げたのはネティレだ。彼女はそれに繋げて、一説を諳んじた。
――かの願いを抱いて生まれし数多の命を抱くはサーディアナール
古の名の継承者たる追憶の都よ いのちのゆりかごたる大樹となりて
滅びの跡に芽吹きし大樹に託した子らに遺す 愛の祝詞を
陸と出会いし海の一族の導きを受けて
迎えん 今 結願の時――
「なるほど、その種族が何かに心当たりはある。だが、協力を頼むとして、火を防いでサーディアナールを守る具体的な方法は?」
誰も上手く答えられないまま、昼餉の時間になった。各々帰宅してから誰とでも話し合って何か良い案を考えてくるように、と白翼の聖者が言い、その日の〈ゆりかご〉の授業はおしまいになった。
「白翼の聖者様、今はこれで」
「気を付けて帰りなさい、フェーレス様とクレリア様の加護があらんことを」
「また明日」
そんな言葉が飛び交う中、リュークは一人自分の席に座ったまま、ヨスティネが作ってくれた昼食を机の上に広げた。色々な具と一緒に炒めた米を、手だけで食べられるように丸く握ったものだ、まだほのかに温かい。それを一つ手に取りながらちらりと〈ゆりかご〉の入り口から外を窺えば、皆はいつものようにその辺で駄弁ったりはしないらしい。真っ直ぐ帰るのが見えた。
「いつもここで食べているのか」
話し掛けられて顔を上げれば、語り部の机の上を片付けた――といっても動かした本を積み直すといった程度だ――エイデルライトが、こちらを見つめていた。その手元にある本の間に母からの手紙が挟まっているということを思い出したリュークは、白翼の聖者にばれないように出来るだけ早く回収しなければいけない、ということに気付く。
リュークはその本から視線を引き剥がして、返事をした。
「エイデルライト様」
「……エイデル、と呼んでくれて構わない」
彼が数歩移動するだけであっという間に距離は縮まった。そして、どこか遠慮がちにリュークの隣にある席の椅子を引き出し、エイデルライトはそこに腰掛ける。椅子は小さすぎて、長い服の裾や純白の翼が〈ゆりかご〉の床に敷かれた絨毯と触れ合い、擦れた。汚れてしまうのではないかと気になったが、本人はそれほど頓着しないようだ。
「……君のかあさまは元気そうだった、通り名のままの〈烈火の魔女〉だ」
その視線はあらぬ世界を見据えている。いや、何も見ていないのかもしれない。リュークは、相手がどういう状況にいたのかを敢えて訊かなかった。
「……妹は、アリエンはいましたか?」
「……泣いていたな、あれで二歳ぐらいか」
かあさま、と呼んでいた。エイデルライトは何かを探るようにそう呟く。妹と同じように、自分も母をそう呼んでいたことを思い出しながら、リュークは握った飯を頬張った。口の中に広がるのは香辛料と肉のうまみ、米の甘さ。美味しかったけれど、父の作る食事を食べたいと思った。
白翼の聖者と呼ばれている人は、それをちらりと見てから、天気の話でもするかのような調子で、こんな言葉を続ける。
「私は、生まれてすぐに、家族から離された。教育をしてくれたのは父だが、君の言うことは理解出来ない……私にとってそれが正しいとは考えられない。それは君にとっては不幸なことかもしれないが、私は違う」
「……どうして?」
リュークは口の中のものをごくりと飲み込んでから問うた。エイデルライトは顔を上げる、その暁色の瞳に宿っているのは、確固たる意志。
「私は白翼の聖者……大樹サーディアナールの守護を担う盾であり、魔獣を屠る剣……大樹を守り、大樹に害を及ぼすものを全て遠ざけなければならない。君はこんな噂を聞いているか? 樹下の根の町が魔獣によって次々と破壊されていることを」
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