3
寝物語に聞いた母の話を思い出す。子守歌を歌ってくれていた父がリュークよりも先に眠ってしまって、家のことをしていてくれたから疲れていたのだろう、と言いながら微笑んで寝台の端に腰掛け、頭を撫でてくれたことをはっきりと覚えていた。まだ十四歳だった頃――それでも今の自分よりもずっと年上で立派なのだろうとリュークは感じる――樹下の森を抜けてその外へ出ようとしたが、砂漠を一歩踏んだだけで怖くなってやめてしまった、と、リュークをそっと抱き締めて寝転びながら、母は「怖かった」と語ったのだ。
その砂漠へ行ったというのだろうか。リュークはもう一度文字に目を落とし、最後まで読んで、それがどうやら事実らしいということを確認してから、そこに立ち尽くした。手に握ったままの紙には水滴が落ちたような痕跡が残っている。それをぼんやりと見ながら思うのだ、父が「どうかしている」と言ったのは、このせいだったのか。
――砂漠の向こうへ行くことにした、シシルスとアリエンも一緒だ。
白翼の聖者が騎士を連れて私達を襲った。
色々と追い付いていないから、また状況を整理してから連絡をする。
これから、セザンナの鱗のお守りに向かって、符にした手紙を飛ばすつもりだ――
「こんばんは」
突然聞こえた声に、リュークは飛び上がって、慌てて手紙を机の上に放置されていたシンター紙の束の間に滑り込ませた。
「誰?」
声の聞こえた方を見れば、夕闇の迫りくる中で〈ゆりかご〉の入り口の所に大柄な女が立っている。瞳の色は翠、顎の下あたりで揃えられた真っ直ぐな髪は珍しい黒だ。肘までを覆う手袋と膝丈の靴は丈夫そうな鞣革で、縁には美しい蔦の刺繍が施されている。靴の下には、太腿の半ばまでを覆う分厚い布の覆いを装着していて、それは表皮を剥いだ白木色のズボンの上でベルトに繋がれていた……サーディアナールの棘が刺さるのを防止する為のものだ、これにも鳥や蜘蛛を象った刺繍がある。胴着は鮮やかな夕日色、純白の羽織は第十五段目の騎士の証。
彼女は凛とした顔立ちに気さくな笑みを浮かべてこう言った。
「あなたがリューク・シルダ殿か。私は十五段目の騎士ヨスティネ・ホーントと申す、ティネとでも呼んで欲しい……語り部ヴィオライト・シルダ殿の要請で、君を保護する為に参った。宜しく頼む」
「ティネさん……保護する、って?」
「あなたを危ないものから守る為に」
何からだろう、とリュークは思ったが、何だか訊いてはいけないような気がして、それは黙っていた。その代わりに、既に決まっていることを口にする。
「うちに来るの?」
「そうだ……いつもはどうしているのかを、私に教えてくれるだろうか」
そうしたら君に合わせて私も行動しよう、と、ヨスティネは言った。
樹上の〈ゆりかご〉は紅の光に染まり始めていた。宵闇がサーディアナールを覆い尽くすまでに家へ帰って、この女騎士を案内しなければならない。〈ゆりかご〉の入口の向こうには美しい毛並みのフテロミスが佇んでいて、知性を宿した瞳がこちらを見つめている。
「……ええっと、これから、家に帰るんだけど」
「そうか。ならば、我が相棒のオデルと行こう……オデルには私から頼んでみよう」
家路を歩かずに行くのは初めてだった。
女騎士の相棒であるフテロミスの名はオデル。夕焼けを受ける滑らかな毛皮には金色の光沢があって、触れると何とも表現し難い心地よさが掌から伝わってきた。リュークはあっという間にオデルを撫でることが大好きになったし、オデルの方も撫でられるのは好きなようだった。その背中にある鞍まで何とか自分の力だけでよじ登った時もこのフテロミスは大人しかったし、軽く喉の奥で不思議そうな唸り声を出す程度だった。だから、それほど抵抗なく背中に騎乗させてくれるものなのだろう、とリュークは思った。
しかし、ヨスティネは驚いた表情をしていたし、家に辿り着くまでの滑空中に、こんなことは決してなかった、と女騎士は断言したのだ。
「……フテロミスは忠実で誇り高き種族だ、己が相棒と決めた者以外を自分の背に乗せることはない……相棒の誼で頼み込めば聞き入れてくれるのだが」
家の前でオデルから降り、柔らかな背から鞍を取り外しながら、ヨスティネは言うのだ。臓腑が浮く感覚が身体に纏わりついて離れない。大樹の枝の上から落ちそうになったことを思い出し、柱に寄りかかって震えながら、リュークは女騎士に向かって訊いた。
「……どうして僕は乗せて貰えたの?」
「さあ、私にもわからない、そこは……オデルの機嫌がとてもいいことはわかるが。樹上の人間も樹下の人間も乗せたことがあるけれど、その時は不機嫌だった」
「僕以外にも、オデルに乗った人がいたの?」
リュークはそれを意外に思いながら、家の扉を開けてヨスティネを招き入れた。女騎士は他人の家に上がる時には必ず言う決まりになっている〈クレリアよりこの塒に授けられし恩寵を分かち合うことを赦し給え〉という言葉を唱えてから、続けてこんなことを言う。
「騎士仲間をちょっと送っていくことすら嫌がるからな……樹下の人間を乗せた時もそうだ。あの時は例外で、その者が火の気を持っていたからかもしれないが」
自分の母はフテロミスには乗れないのか、とリュークは残念に思った。母にはシシルスがいるからいいじゃないか、と心のどこかで誰かが元気づけてくれたけれど、それとはまた別だ。しかし、そうであれば尚のこと、火の気を持つ母の子である自分がこの高貴な騎獣に受け入れて貰えたことが不思議でならない。
「……皆、火が嫌いなのかなあ」
「私は嫌いではないぞ、リューク殿」
見上げた女騎士は複雑な笑みをその顔に浮かべている。色々あるが言葉の通りなのだろう、嫌いであれば、無理を通して自分の騎獣に火の気を抱いた者を乗せたりはしない。そして、その光栄に預かることの出来た樹下の者が一体誰だったのか、とても気になった。
「騎獣に乗せたっていう火の気を持った人って、どんな人だった?」
訊けば、ヨスティネの顔は、面白いぐらいに変化する。切れ長の目を見開いたかと思えば、その頬が赤く染まり、リュークに注がれていた視線はあちこちを彷徨うのだ。さっぱりとした言葉遣いも乱れて、彼女は何か言葉にならないことを幾つも漏らした。
「ああ、ええと、リューク殿が知っているかどうかはわからないが……とても力強くて、親切な殿方だった。訊いたところ、退治人組合の中でもかなり地位のある者だったように思う……今は親友を遠くから手伝っていて、補佐だとかなんとか言っていたが。いずれは退治人組合長の代理人を務めるかもしれない、とも言われたな」
一年くらい前だったか、と、女騎士は付け足した。
「下へ赴くことがあったのだ……ヴィオライト殿が下へ送った使節団の随伴を務めた時に、な。まあ、あれから会ってはいないのだが……」
「また会いたいの?」
ヨスティネは今度こそ真っ赤になってしまった。凛とした格好いい女騎士にもこんな一面があるのだ。まだ彼女と会って間もない時点でそれを知ることが出来たのだと思うと、リュークは何だか愉快な気持ちになって、思わずにやっとした。
「いい人なんだね、なんていう名前?」
問えば、ヨスティネは顔を真っ赤にしたまま、明後日の方向を見ながらこう言ったのだ。
「……ハヴィル・エイルミンという」
ハヴィル・エイルミンという。その一言はあっという間にリュークの頭の中を一杯にして、全て上の空にしてしまった。〈ゆりかご〉に向かって滑空するオデルの背にヨスティネと乗っている今もそうだ。
昨晩の記憶は曖昧だ。そのことしか考えていなかったから、というのが大きいだろう……女性の客人の為に手袋と靴の保管場所を教え、初めて家族以外の人が作った料理を食べ、湯浴みをして寝台に横になった、ということは、ぼんやりと覚えている。しかし、家名がエイルミンであるというのは初めて知ったが、母や父と親しくしていたハヴィルで間違いないだろうと思った。
彼はどうしているだろう、リュークは親しんだ者に思いを馳せる。母の横に立つととても大柄で力強そうに見えたハヴィル。かなり大きい方らしい父の横に立ってもまだ強そうだと感じたハヴィル。魔獣化した牡鹿を軽々と背に担いだ腕の太さは、四歳になる前だったリュークの胴まわりぐらいあったかもしれない。懐かしくて、一緒に旅をした根の町のことを思い出した。舌の上に蘇ってくるのは赤くて甘酸っぱいフラガリアと蜂蜜が入った冷たいジュースの味だ。〈ゆりかご〉に到着して、年上の友人達と「おはよう」と挨拶を交わしながら、とてつもなく角虫採りがしたい、と思った。
教室の隅で、アルディールがどこか気落ちしたような表情をしている。樹下の森で、強そうな角虫の雄を何匹か見繕って、向かい合わせにして戦わせる……そうしたら、彼も元気になるかもしれない。樹上では触れないようなものが樹下には沢山ある。サーディアナールの上は、四つ足で大地を駆ける獣達は存在しなかった。その毛皮を纏うことも、家を彩る品々に使うこともないのだ。
行きたいと思った、樹下の森へ。自分の生まれ育った場所へ。
だから、〈ゆりかご〉に集った友人達が口々に何かを言っているのも、リュークの耳には入ってこなかったのだ。教室の中に染み渡っていく違和感に気付いたのは、よく通る声が響き渡った時だった。
「皆、静粛に。今日からは私が、この〈ゆりかご〉の〈語り部〉の代理人としてここに立つ」
父の声によく似ているが、違う。そう思って顔を上げれば、騒めきの正体がそこにいた。
白翼の聖者様、と囁いたのはアルディールだ。抱いている二つ名の通りに、その背に畳まれているのは巨大な美しい純白の翼だ。背の中程まで伸ばされた細くて真っ直ぐな髪は眩しい金色、均整の取れた身体つき。ただ、影になっているからか、目の色だけがはっきりと見えない。エルフィマーレン族淡水氏の歌姫セザンナの方がまだ親しみやすいような気がした。
あまりにも人らしくないその人は、リュークが息を呑んだ音に気付いたらしく、片方の眉をぴくりと上げて一瞥を寄越してきた――その時初めて目の色が見えた、薄い暁の空のようだ。
「エイデルライト・シルダという。私の言葉は語り部よりも強い、心に留めておくように」
白翼の聖者エイデルライト。竜の巫女ファイスリニーエとの婚姻の儀が近々予定されているのではないかと噂されており、大樹サーディアナールの上に住む人々を事実上統べていると言われているその人がどうしてこんなところにいるのか、と、教室にいる誰もが思っただろう。友人達が幼いながらもその心に疑問を覚えているのは、顔を窺えば明らかだった。素晴らしい人に教えを乞う喜びよりも、樹上政府の中核を担う者が本来の仕事を蔑ろにしてここにいる戸惑いの方が大きかった。
一人が手を挙げた。アルディールだ。
「そこの、質問を許可する」
「アルディール・レイと申します……ヴィオライトさんはどこへ行ったのですか?」
白翼の聖者は、丁寧な言葉遣いで質問をしたアルディールではなく、憐れみと軽蔑を宿したような目でリュークをちらりと見た。その視線は母が放つ火の矢のようだ。
「ヴィオライトには私が別の仕事を与えた、以上だ」
エイデルライトの態度が、これ以上は質問を受け付けない、と表明している。あ、はい、わかりました、を言う間に、アルディールの声はだんだん小さくなっていった。
だが、予想に反して、白翼の聖者はリュークから視線を外し、こんなことを言った。
「ああ、レイの家の者か……アルディール、君にはきょうだいがいたか?」
「……姉貴がいます、イーレっていう名前で……お許しを貰って、昨日のうちに上がってくる予定だったんですけれど、まだ」
連絡がなくて、と言って、アルディールは俯いた。エイデルライトの口の端が僅かに上がる――象られるのは笑みだが、瞳は何も映していないように、リュークには見えた。
白翼の聖者は口を開いた。
「そうだったか……一昨日かな、君の姉を見たよ、樹下で」
「……本当ですか?」
友人の顔が弾かれたように上がった。
「会ったんですか? イーレは元気でしたか? 何をしていましたか?」
「その前に言っておこう、君は勘違いをしている」
エイデルライトが顔の右側に垂れ落ちる美しい髪を後ろに払った。その冷たい暁の双眸がアルディールを見据える。リュークは思わず唾をごくりと飲み込んだ。何故なら、朝の陽光が照らした白翼の聖者の美しい右頬に、痛々しい裂傷の痕が走っていたからだ。
「樹下の連中は穢れだ」
母の炎がリュークの臓腑を内側から焼いたような気がした。
「君達が〈ゆりかご〉で何をするべきなのか、今一度私から言い聞かせておかねばなるまい。大樹を守る騎士になる為の知識と訓練を受けるのが、君達に課された使命だ」
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