7

 脳裏に浮かぶのは竜翼を背に抱いたファイスリニーエ。だが、父の敵が沢山いるであろう場所にいる竜の巫女に会いに行くのは難しいを通り越して不可能だろう。今、リュークにサーディアナールの加護はない。危険を冒して自分が礎になったら、父や母、妹に会えなくなってしまうのだ。それは何としてでも避けたかった。

 母から手紙が来ることは、誰にも言っていなかった。その代わりに、母からの手紙の内容を理解して噛み砕き、父に向けて文章を書くことが増えた。

 それを配達人にお願いするのが躊躇われて、リュークは考えた。父への手紙を折り畳んで、母の符を改造して父宛にしてしまえばよいのではないか、と。中央に描くのはセザーニアの模様と魚の模様だが、そこに父の手袋にある模様を付け足した――確か、一人一人違う模様をしている筈だ。そして、手紙の終わりに、リューク自身の元に必ず届く模様を添えて、符の中心をこれに変えたら自分のところに飛んでいく、ということも文字で残した。

 そして、ハヴィルの死をそこに書き記して、知らせた。

 果たして、数日後に父から届いた手紙から、リュークは驚愕と戸惑いを読み取った。

  ――配達人をどうして通さなかったのかは訊くまでもなくわかる。

  かあさまの符をどうにかしたこともわかる。危険だと言いたいが、なしにする。

  リューク、よくやった。どうやら、配達人が手紙を開けて見ているらしい。

  そのせいで、私は皆が知っている以上のことを書けなかったが、これで私は色々なことを書ける。

  ここに書いていることはヨスティネに伝えても大丈夫なことだから、安心しなさい。

  何ならこの手紙をそのまま見せてくれても構わない。

  取り急ぎ……ハヴィルについては、また今度、私から直接話そう。

  だけれど、ヨスティネにはハヴィルのことを伝えておいて欲しい。

  かあさまを庇った、ということも。まだ私も実感がなくて、どう対処していいかわからないが。

  今は別の者と交代してしまったけれど、

  交易路の為にハヴィルと連絡を取っていたのは彼女だからね――

「……ヨスティネ、何て言うかなあ」

 知っているのだ、ハヴィルの名を出した時のヨスティネの表情を。

 リュークはその後も数ヶ月間、心の中で凄まじい抵抗感と戦った。知らせなくてもいいのではないか、毎日誰かが傷付いている疲労困憊の報告を彼女から受けている身で、これ以上女騎士の心を痛めつけることなどしてはいけないのではないか、と思った。

 だが、いつか知らせなければいけないことだった。

 八歳の誕生日の朝も、リュークはヨスティネと一緒に迎えた。いつもと同じように〈ゆりかご〉へ向かい、いつもと同じように不安定なエイデルライトの授業を受ける。午後には、白翼の聖者の手から、枝ではなく骨を研いで磨かれた鋭い武器を贈られた。

「ありがとうございます、エイデルさま」

「君は筋がいい、これからも励みなさい……もしかしたら、君は何とも思っていないかもしれないが、ここまで続けられたことが一番素晴らしい。私も君を誇りに思う、リューク」

 そう言って微笑み、エイデルライトはリュークの頭を撫でてくれた。打たれたところはいつも痛んだし、何もかもやめてしまいたいと思った日だってあったが、リュークは強くならなければいけないのだ――サーディアナールが知らない外の世界を、竜と共に飛びたい、それだけがリュークの夢だった。自分の努力が認められたことも、とても嬉しかった。しかし、その嬉しさを糧にしてどんどん大きくなる心の中の黒いものも、同時にリュークに向かって嗤い、まだ報告していないことがあるね、と囁いてくるのだ。それに対して罪悪感と恐ろしさを覚え、リュークは思わず目の前の人に抱き着いた。自分の身体を抱き締め返してくれるくらい、その日のエイデルライトは穏やかで優しかった。頬の傷を押さえて痛がることも、突然豹変することもなかった。

 いつの間にかリュークの身長は家の前の幹にある竜の形の瘤よりも上にあって、ちょうど視線が合うようになって、頭の天辺は大柄なヨスティネの胸の頂の高さを超えていた。リュークが湯浴みを終えて水場から出てきた時、それに気付いた時の彼女は愉快そうな笑みを口の端に浮かべ、リュークを捕まえて撫で回しながらぎゅっと抱き締めるのだ。

「可愛かったけれど大きくなったなあ」

 そんなことを言われながら顔に胸を押し付けられると、どうしたらいいかわからなくなるから勘弁して欲しい。出来ればいつも冷静でいて、強くなりたかったのだ。

 だから、言わなければいけないと思った。

 絡み付いてくるヨスティネの腕から何とか逃れて、リュークは彼女と向き合った。

「ヨスティネ、あなたに言わなきゃいけないことがあるんだ、僕」

 心と身体を正しく鍛える必要がある、と、エイデルライトはかつてリュークに向かって言った。身体は成長しているけれど、心は大丈夫なのだろうか。

 強くならなければいけなかった。だから、しっかりと視線を合わせた。女騎士の美しい翠の双眸は期待に満ちている――心の中から湧き上がった魔獣のような罪悪感は、エイデルライトから貰った短剣と槍を想像しながら、めっためたに刺して、殺した。

「何だろう、改まって、どうかしたのか?」

「……今までずっと誰にも言わなかったけれど、ヨスティネさんなら」

 リュークは自分の寝ている部屋へ行った。寝台の下に全ては隠してあった。そこからシンター紙の束を引っ張り出し、母からのものと父からのものに分けて、順番を整えて、しっかり揃えてから、ヨスティネのいる部屋へ戻る。

 彼女は不思議そうに首を傾げた。

「何だい、その束は?」

「……かあさまと、とうさまから届いた手紙です」

 女騎士が息を呑んで、目を見開く。リュークは紙の束を差し出した。

「とうさまが言っていたから……ヨスティネさんなら、大丈夫だ、って」

 手紙の束の向こうにある、戦う女の手が震えている。リュークは、心の中で殺した筈の罪悪感と再び対峙した。ヨスティネがそれを受け取ってその場で読み始めても、冷たい雫が自分の髪から滴り落ちて床を濡らしても、ひたすらそこに立っていた。

 やがて、紙を数枚捲った所で、ヨスティネの唇がわなないた。

「――ハヴィル」

 彼女が、落としていた視線を上げる。それは恐ろしい光を湛えてリュークを見据えた。次いで放たれるのは不気味な程に冷めた声。

「リューク、これはいつ受け取ったものだ?」

 リュークはぎゅっと目を瞑った。強くなりたかった。すぐに目を開けた。女の手が止まっているのは、母の美しい字が書かれている紙のところだった。

「……それは、僕が、七歳になる四ヵ月前に届いた」

「――一年以上前じゃないか!」

 ヨスティネが絶叫した。

「どうして……どうして言ってくれなかった!」

 彼女はその場に蹲って、ただ慟哭した。リュークはそれを見ていることしか出来なかった。何かを言ったら全てがおしまいになってしまうような気がして、立ち尽くしていた。はらりはらりと木の葉のように散ったシンター紙は、沢山の言の葉を乗せて、僅かな音を立てて床の上にそっと積もる。

「どうして知らせてくれなかった――リューク」

 力強い腕が肩に触れてくる。がっちりと掴まれて、揺さ振られた。この人の力はとても強い、と思った。だけど、自分が立っているのか座っているのか、膝が床に触れているのか、もうわからなかった。

「リューク」

 その日、そこから後のことを、リュークは覚えていない。


 目覚めたら、家の中には誰の気配もなかった。

 リュークはちゃんと寝台の上で寝ていたらしい。いつもなら、ヨスティネが起きて何か食事を作っている刻だ。しかし、何の音も聞こえてこない。おかしい、と思いながら身を起こすと、胸元から折り畳まれた紙が二枚、寝台の隅に丸まったままの掛け布の上に滑り落ちた――一枚を拾い上げて開いてみれば、そこに並んでいるのは母の字だ。かなり細かくて小さい。

 いつもよりずっと大きい紙の上には、こんなことが書かれていた。

  ――リュークは〈海〉というものを知っているだろうか。水が沢山ある。水しか見えない世界だ。

  信じられない。そして、人もいた。私達ととても似ている。耳が尖っている。

  その人達は、私とアリエンを見て、それからシシルスを見て、歓迎してくれた。

  吃驚した。その人達には、言葉が通じたから。

  だって、大樹の下には、通じない言葉を使う人もいただろう。

  リュークは覚えているか? 環の祭祀の日に、一緒に屋台を見て回った時のこと。

  よくわからないことを、猫に似た種族が言っていたのを、私は覚えている。

  ところで、ここはどこか、と訊いたら、エルフィネレリアだ、と言われた。

  バルキーズ大陸の西の端へようこそ、と言われた。何のことだか分らなかった。

  分からないと言ったら、その人達は、大きな紙を見せてくれた。

  地図だとは分かったけれど、それは根の町がどこにあるか、どころじゃなくて、

  もっともっと大きな世界のものだった。これがバルキーズ大陸だ、と、その人達は言った。

  その人達は、我々はイェーリュフ族だ、と言った。

  大きな島の上に、サーディアナールが小さく丸で描かれていた。

  私は、この丸から来た、と言った。そうすると、イェーリュフ達が驚いた。

  一人が怒っていた。とても短い茶色の髪の男だ。

  その人は「まだクレリアを解放していないのか」と怒っていた――

「クレリアを解放していない……?」

 リュークはそこで顔を上げた。土の精霊王は何かに囚われているのだろうか。そう思った時に気付くのだ、母の長い手紙は、とんでもないことを伝えようとしているのかもしれない、と。続きを読まなければいけない、再び目を落とす。

  ――私は、どういうことだ、と訊いた。

  魔獣が大樹の根を齧るから、人々が根の町に住めなくなって困っている、と言った。

  だから私は、樹上の掟に従って下ろされた樹下で、魔獣を退治してきた、と言った。

  そしたら、怒っていた髪の短い男が、私に掴みかかって、怒鳴ってきた。

  それは殺してはいけないものだ、竜と共に在りながらなぜ気付かない、と。

  私はそうされてやっと気付いた。シシルスは、魔獣を狩るのを嫌がっていた。

  どうして殺してはいけないのかを訊いた。すると、クレイオスと名乗った彼はこんなことを言った。

  サーディアナールは荒れ果てた大地を再生する為のクレリアの檻だ、

  魔獣は根を食らってやがて砂漠へ向かっていき、そこで死んで苗床になる生き物だ、

  本当なら、人はもう再生された森に住んでいる筈で、

  大樹は百年前に燃えていなければならなかった、

  もう、サーディアナールを燃やさなければいけない、

  そうしないと、やがて全てが枯れて、砂漠になってしまうから、

  人が住める所も、徐々に砂に飲み込まれて消えてしまう。

  私は、もしかしたらと思って、石碑の文章を見せた。

  そうしたら、これはサーディアナールを滅ぼす為の文章だ、と言うのだ。

  信じられない。私は一体何を聞いてしまったんだろう? 一体どうすればいいのだろう?

  そう言ったら、協力して欲しい、と、言われた。

  ちょっと、この文章が何なのか、詳しく訊いてみることにする。

  これについてはとうさまと話をしたいから、すぐに手紙を書いて欲しい――

「サーディアナールを、燃やさなきゃいけない……?」

 母の細かい字は、今までと様子が違っている。小さくて丁寧ではあるけれど、所々が震えていた。父に今すぐ手紙を書いて飛ばした方がいいということはわかっていたが、母の文章にはまだ続きが存在している。リュークはそこから目が離せなかった。

  ――沢山悩んだけれど、あなたに本当のことを言っておこうと思う、リューク。

  どうしてかというと、アリエンはもう安全な所にいるけれど、

  私はきっと、サーディアナールに戻って、危ないことをするだろうから。

  ハヴィルのことだ。私が庇ってもらった時に、直接聞いた。

  ハヴィルは、ヴィオライト……とうさまのことがずっと好きだった。

  どうしてだろう。知らないままでいた方が幸せだったのかもしれない。

  だけど、どうしても、どうしても、私は、どうしても、

  好きでいることで苦しい想いをしただろう、そんなハヴィルのことを忘れたくない。

  私がとうさまと番いになっていなければハヴィルは幸せだったのかもしれない。

  そういう人がいたことを、リュークには知っていて欲しい――

「何を読んでいる?」

 あっ、と思った時には、遅かった。

 自分よりも強い手がさっと伸びてきて、持っていた紙が奪われる。慌てて取り返そうとして腕を伸ばし、見上げれば、そこには無表情のヨスティネ。その腰には短剣が二本。リュークは、親しげに笑ってくれる筈の彼女を、初めて恐ろしいと思った。

「ヨスティネ――」

「あなたのかあさまか、はたまた、とうさまか――」

 左手ひとつで腕を捕らえられたかと思えば、視界が反転して、リュークは床の上に転がった。起き上がろうとした瞬間、腹の上に衝撃が走る。痛みに呻きながら見れば、乗っているのは白い骨から削りだされた装甲を装備した脚。起きた時から何も食べていなくてよかった、などと妙に冷静なことを思う。こんなことをする人だったのか、という悲しみが、涙と一緒に溢れてくる。

 次の瞬間、ヨスティネが絶叫した。

「エイデルライトもヴィオライトも〈烈火の魔女〉も纏めてぶち殺してやる!」

 父の手紙を取らなければ、などとぼんやり思った時には、何もかも遅かった。外からフテロミス種の断末魔が響く。それと同時に、大勢の靴音がなだれ込んできた。

 突然、腹が軽くなった。身を起こした瞬間、目の前に女の顔が鈍い音を立てて落ちてきて、転がり、リュークは悲鳴を上げて後ずさった。

 それは驚いた表情のヨスティネだった。

「前からよからぬことを企んでいたのは知っていたけれどね。ヨスティネ・ホーント、反逆罪で死刑だ……火よりも穢れてしまった、残念だ」

 腹が痛くて朦朧とする意識の中、響くのは父に似た美しい声。双眸の色に相応しく、純白の翼を返り血に染め、エイデルライトが狂った笑みを浮かべて、そこに立っていた。

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