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「そうだと言ったら?」

「樹上から来たなら、知っているだろう、ヴィオのこと……ヴィオは私の番いで、私にシシルスとアリエンという二つの名前を預けて、私はそのうちの一つをあの子に贈った」

 これを言ったらどうなるかなんて、わからない。だが、何もわからずに出したヴィオの名は、少なくとも相手を躊躇わせるには効果的だったようだ。もしかしたらこれが自分達を救うかもしれない、リェイはそう感じて、更に畳みかける。

「ヴィオはこの子を見ても、生かしておくな、なんて言わなかった」

 自分の腕を地面に縫い留めている大きな手に触れる。成長しきった男のごつごつとしたそれは、ヴィオが達成することの叶わなかった二つの試練を潜り抜けて、樹上で家族を守る為に武器を持ち騎獣と共に枝葉の間を自由自在に舞う、勇猛果敢な騎士の、守る者の手なのだろう。番いや子がいてもおかしくない、とリェイは思うのだ。

「あなたが守る人なら、わかるだろう……竜の鳴き声が十六段目を揺らした、というのを、私はヴィオの傍で聞いた。これは竜の巫女が言ったことだ。それに、私は今、ヴィオの子を宿している」

 樹上と自分が全く関係のない存在だ、と相手が思ってしまえば終わりだ、ということは、何とはなしに察していた。持っている情報をこの男に与えることが、自分と腹の子を同時に守る最善の手なのだ。符に手を伸ばしたり、シシルスが動いたりするのはよくない。

「何か関係があるのか? 教えて欲しい……私のことは十分喋った」

「……語り部が余計なことを」

 苦々しく顔を歪め、男は舌打ちをして手の力を緩める。竜の巫女やヴィオ本人から聞く限り、語り部というのは年少者や若者に色々なことを教える立場らしいが、自由に口出しが出来ないということもあるのだろうか、とリェイは考えた。男の筋肉の重みが消え去ったので身体を起こして見上げれば、立ち上がった相手の昏い双眸がじっと自分を見つめている――そこに宿っている感情を窺うことは出来ない。

 シシルスが低く唸りながらリェイの身体に長い尾を絡めてきた。

「だめだ、シシルス、私から離れて、尾を巻いて伏せるんだ……私の言うことがわかるだろう」

 リェイは男から目を離さずに、しっかりと声が響くように言った。男は目の前で焼け焦げて垂れ下がった胴着を破り捨て、魔獣ではない生き物の短い毛が美しかったであろう複雑な模様の焼け焦げた皮の羽織を脱ぎ、捨てる。疲れた溜め息は一つ。

 見つめ合って暫し、ぶっきらぼうに口を開いたのは男の方だった。

「そう恐れるな……お前の言葉はお前を救った」

 リェイは長く息を吐き出した。途端に安堵が全身を包んで力が抜け、何も考えずにシシルスの身体に凭れる。首を振れば、男は鼻をフンと鳴らして後退り、不思議な抑揚をつけて口笛を奏でた。澄んだ音色が木々の騒めきの間に紛れて消えた時、聞こえてくるのは何か大きな布が空気を打つような音。

 見上げると、大樹と樹下の森、二つの緑に挟まれて飛ぶのは、深い青の鱗を持つ蜥蜴に似た姿。

「……サルペン?」

 リェイは思わず呟いた。同じように空を見上げたシシルスが首を傾げている。竜とよく似た顔に金色の瞳、双角のある額、棘のある尾。脚は二本のみで、前腕は翼と一体化しているようだった。

「知っているか」

「ヴィオから聞いた、他にも、エイルーダとか、フィリとか、フテロミスとか」

 森の中に降りてきたサルペンは、翼を畳むことなく、警戒するようにシューッと鋭い音を出す。男はそれを宥めるように撫でるのだ。時折掻いたり叩いたりするように鱗を撫でるその手つきに籠っているのが確かな愛情であることにリェイは気付いた……誰かを殺すのと魔獣を殺すことの間に大した変わりはなくて、騎獣に乗る樹上の騎士達は命を懸けて、ただ彼らの命にとって危険かもしれないものを排除し、自分達にとって大切な樹上の人々を守ろうとしているのだ。

「……一人、殺してしまって、すまなかった……戻るのか?」

「まだ仔とはいえ竜だろう、覚悟は済んでいる、もとよりその手筈だ……樹上の生き物は樹下にいてはいけない、火の穢れを持ち込んではならないからだ」

 まるで慈しむかのようにサルペンの首に腕を回しながら、男は平たい声で言った。

「……戻って、あなたが穢れで殺されたりすることはないのか?」

「私は一度下された任務を最後まで遂行するだけだ」

 居丈高に鎌首をもたげるシシルスの翼に、リェイはそっと腕を伸ばして触れた。

「……なら、また、会うだろうか」

「必ずや相見えるだろう、我が短剣の名に誓って――」

 ふと、男の表情が和らいだ。眉間に寄った皺が消えている。その双眸が、少しせり出してきた自分の腹に向けられているのに気付いて、リェイは思うのだ……樹上の人は与えられた自分の名前を何かの約束の時に掲げるのが好きなのだろうか、と。

「聞こえる、女子だ」

 そう言ったが早いか、男は空よりも深い色をしたサルペンにさっと跨り、空中へ飛び上がらせ、あっという間に見えなくなった。

 女子とは何のことか、と、リェイが訊き返す前に。


 少し変化した風と共に十月が樹下の森と小屋を訪問した時、リェイは何ともしがたい息苦しさを抱えながら寝台の上でごろごろしていた。リュークの時も同じような状態だったことを思い出しながら、経験がある分だけまだ大丈夫だと自分を勇気づけることが増えた。とはいえ、まだ不安であることに変わりはない。朝、昼、晩と三回摂っていた食事だが、それまで一度で食べていた量を苦しいと感じることが増えたので、量を減らして一日に五回食べることにすると、少し楽になった。

 ある程度の運動が必要であることは知っていたので、いよいよ動くのが億劫になってきた今こそ少しだけ頑張る時だ、とリェイは思って、森の散策を欠かすことはなかった。少し開けた場所を幾つか回って罠を確認する、という作業は以前と変わらず自分でこなしたが、そこにかかっていた獲物を運ぶのはついてきていたシシルスの役目だ。魔獣であっても、渋々ではあるが運んでくれた。

「助かる、ありがとう」

 リェイが声を掛けてやれば、月を経るごとに成長していく美しい竜は、随分と低くなった声で誇らしそうに愛を込めて唸る。

 大きくなりすぎて、九月になってから小屋の中に入ることが出来なくなってしまったシシルスは、今では小屋を守るようにして眠っている。宵闇に溶け込む美しい黒の鱗は、翠まじりの木漏れ日を受けると、境目の朧な虹色の光をその曲線の上に描いた。時々安否を確認するかのように扉の中へ突っ込んでくる頭は、薄い胸にはもう収まらなくなってしまった。額の双角はぐっと伸び、人の腕の長さを悠々と超えた。欠伸をした時に見えた喉の広さを鑑みるに、大きな男一人くらいなら丸呑みにしてしまってもおかしくはないだろう。時々広げられる翼なんて、大きいなあという感想しかもう出てこない。三月の環の祭りの時に見たあの布を想起させたけれど、流石にあそこまでは大きくならないだろう、そうであって欲しい、と、リェイは感じている。

 そして、この竜はまだ成長を続けている。サルペンと呼ばれていた騎獣とは比較にならない程に巨大だ。自分の腕一本で抱え上げていた三月は夢だったのだろうか、とリェイはぼんやり思うのだ。

「随分と大きくなったなあ、シシルス……森を歩くのも一苦労だろう」

 竜はまるで人が苦笑いをするかのように短く声を上げて、その金色の双眸を細める。本当なら人と一緒に生活する生物ではなかっただろうに、何とも表現し難い佇まいとは裏腹に、随分と人染みてしまったように感じた。幼さは鳴りを潜め、視線や首、尾の微かな動きだけで森の生き物や魔獣達と意思疎通を図ろうとすることが増えている。地面をほじくり返して何かを見付けてくるのは日課となっているらしく、保管箱の横は山盛りで、ろくに観察もしないままの小さな土塊のついた石や岩が大も小も一緒くたになって絶妙な具合に積まれていた。

 施術院からの連絡が手紙として来たのは十月の一日目で、リェイはその時、符を描いていた。辺鄙な場所まで誰の手回しを届けに来たのだろうと思ったが、恐れ多さと困惑と小屋に絡みついて来客を睨みつけている竜への恐怖が入り混じった配達人の哀れな表情を見て、リェイは思わず器の水にレヴァンダから抽出した汁を一滴入れて差し出した。配達人の男は相当急いで駆けて来たらしく、上半身は羽織を脱いだ胴着一枚で、流れる汗は滝のようだ。器の水を、喉を鳴らして一気にぐいとあおったから、水分補給も碌にしていなかったらしい。四月や五月にヴィオからの連絡を持ってくる時はもっと余裕のある様子だったのに、この場所まで急いで来るということは、何か火急の要件だろうか。

「落ち着いた、有難い……リェイどの、これを」

「クレリアの加護を……わざわざここまで有難う。私こそすまない、これだと近付きたくても難しいだろうし」

 器とは別の手で差し出されたのは、美しい白い紙の封書だ。リェイの知っているシンターの繊維を絡めて作った丈夫な紙とは違って、繊細で柔らかい。

「おれからも、クレリアの加護を。ヴィオライト・シルダ様からだ」

「……ヴィオから?」

 ヴィオはこんな紙に書いて手紙を送ってきたことがあっただろうか、と、リェイはそれを受け取ってから気付いた。よくわからないままに正方形の封筒をひっくり返せば、封入口は十五段目の紋章のついた封蝋で閉じられている。繊細な紋章を指の腹で撫でれば、何かつるりとした素材で固めているようだった。さっと開けて中に入っている紙を取り出して内容を読めば、〈十月のちょうど真ん中の十五日から環の施術院に入れるように手配をしておいたから、入りなさい〉という文言が、繊細な夫の筆致で書かれている。

「可能な限り早く、と仰せになられた」

「ヴィオから受け取ったのか?」

「ああ、おれが環の昇降機のあたりで休憩を取っていた時に預かった。薄い色の長い髪を一本に編んだ、大層綺麗な御仁だった……ちょっと右足を引き摺っていたけれどな。男だよな? そう、受け取ったのがリェイどのだとわかるものを一つ、何でもいいから貰って来るように、と……何かないか?」

 配達人はそう言うから、間違いなく本人だろう。環の施術院ならば、いざ生まれるとなった時に夫や息子も降りてきやすいし、何よりも樹下で最も安心出来る。その前に託す物が必要だ。リェイが一番に思い付いたのは、いつも自分が付けているセザンナの鱗の首飾りだった。今も胸元で揺れているそれに触れると、不思議な光沢のある深い色をした鱗は、石ころの首飾りに当たって澄んだ音を立てる……見下ろすと、石ころに刻まれた不思議な模様が視界に飛び込んでくる。

 どこかで見たことがある、と思った。

「ああ、首飾りとか、大切なものは預けてくれるなよ、なくなった時に大変だ」

「……確かに、そうだな」

 リェイは、何となく腰の衣嚢に手を伸ばして、中を探った。手に当たったのはシンターの紙の束――符だ。手に触れて初めて気が付いた、自分以外にこれを作って使っている人など見たことがないから、ちょうどいいかもしれない。

「少し待ってくれ」

 そのまま渡すのは気が引けたので、リェイは取り出した小さい紙の端を処理して、手紙に見えるように折り畳み、配達人に差し出した。中には、その辺の縄なら簡単に切れるような風の刃を発動する紋が、ハルスメリのインクで書いてある。

「特別な紙だ、これを知っているのは、ヴィオと、私の息子と、環のハヴィルしかいない」

「これなら大丈夫そうだ、配慮に感謝する」

「クレリアの加護を……道中、魔獣に気を付けてくれ。あなたも火使いか?」

 配達人は親しみのある笑顔を見せて頷く。彼は汗だくのまま、炎の精霊王ヴァグールに捧げる聖句を唱え、掌に生み出した炎で〈心配はいらない〉という意味を持つ退治人のしるしを作る。紅や橙、金の火の粉がぽん、と音を立てて弾けた時には、その姿はもうずっと遠くの道を走っていた。

「ではまた!」

 飛んできた声に、リェイは手を上げて見送った。そのずっと向こうには、大樹サーディアナールの壮麗なる緑の裾が、大気を隔てて霞んで見える。その頂は空に溶けてしまって目では見えなかったが、穏やかな晴れの日だった。

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