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 年始にあたる一の月は、樹下だけでなく樹上の支配者層も何かと忙しいらしい。だから、こんな言葉を夫の口から聞いた時、リェイは仕方がない、と思った。

「すまないけれど、一の月はこっちに戻れそうになくてね、その代わりに、君の為に色々と手配をしよう……樹上と樹下、相互の交易路の開通も兼ねてね」

 大樹サーディアナールで現在最も裕福な者が住んでいる第十五段目において、ヴィオもリュークもそれなりの地位を得ている、ということは、小屋から離れたところで野営をしていた護衛の数が十数人であったことからも窺えた。ヴィオは騎獣に乗って樹下から上がってきたり樹上へ飛んできたりする魔獣を退治する騎士ではなく、言い伝えや学問を子供達や大人達に教える〈語り部〉という名が付いた立場にあるが、それと同時に第十六段目の開拓指導も担っているというから、大変な話だ。その上リュークの面倒も一緒に見ているのだから、リェイはもう頭が上がらない。今の自分が出来ることの少なさにがっかりしていると、元気づけるように髪を撫でてくれるのが夫だ。

「そんなことを気にしていないで、君は身重なのだから、早く施術院に行って、ゆっくりしていなさい。折を見て君にまた手紙を書くよ……私のことは心配しなくていいからね。ちょっと早いけれど、リュークも〈ゆりかご〉で子供達や〈尾白〉達と一緒に勉強をさせてもいい、と許可が出たから、他人に預ける手間と危険もないし、助かっているよ」

 普段から、ヴィオは第十五段目に一つある〈ゆりかご〉と呼ばれる場所で、七歳から上の子供達や、第一の試練を終えて伝令役を仰せつかった〈尾白〉と呼ばれる若者達を教育しているとのことだった。更に詳しく訊けば、その子供達や若者達が、教室に出入りを許されたリュークを沢山可愛がってくれるらしい。息子が様々なものに対して抱く疑問は、口から飛び出した次の瞬間には答えを連れて帰ってくるようになっているとのことだった。もしも森へ逃げずに環に住んでいたら、きっと自分の力で同じような環境を用意してやることができたのかもしれない、と思って、リェイは胸が痛くなるのだ。

 子が生まれてくるのであれば、環に移った方がいいのではないか。一泊した夫と息子が沢山の護衛を引き連れて再び樹上に帰った後、リェイはそんなことを何度も何度も考えた。

 そんな調子で小屋の中にずっといると鬱々としてくるので、罠の確認や、シンターとハルスメリの採集がてら、気分転換に森の中を歩くのが日課になった。シシルスも一緒だ。

 森への興味を言い訳にしてここへ逃げてきてしまったのではないか、という意識がはびこり始めたリェイの心も、緑の光を浴びると癒されていく。さらさらと通り過ぎていく柔らかな風、木々や草花の濃い香り、ぶうん、という羽音を立てて叢から顔をのぞかせる蜂、樹液や蜜に集まる角虫や花潜りなどの甲虫。鳥達は恋や正義、怒りをありとあらゆる旋律で歌い、踊っていた。時折、魔獣の姿も見掛けたが、リェイは掟を無視してそれを狩らず、木の陰からそっと見守るだけに留めた。万が一の時の為に護身用の符は持っていたが、向かってこられて、身体に差し障りがあったらたまったものではない。竜の仔が供についてはいるが、シシルスは手ずから肉を与えられて育っているから、狩りの仕方などはまだ知らなかった。そこで、リェイは肉食動物の縄張りへ連れて行き、狩りの方法を観察させて、肉の獲得方法を教えた。

 六月が終わり、七月を緑の中で過ごし、八月に入ると、強烈な眠気は次第に消えていった。それとは逆に、竜の仔の食欲は増進し、その身体は凄まじい速度で成長していく。罠の数を更に増やし、リェイは今までの三倍の量の肉を獲るようになった。だが、森を歩いている時に魔獣が罠にかかっているのを見れば、この雄竜は毎回悲しそうな声を上げるし、罠にかかった鹿や猪、豹、熊などの魔獣の肉を差し出した時も、何故か首を逸らして抵抗する。仕方がないので、魔獣の肉は加工して、リェイ自ら食べたり、草花から抽出した液と一緒に油を固めて石鹸にしたり、内臓を使ってまた別の獲物を呼び寄せたり、骨を砥石で加工して刃物を作成したりした。竜の仔はそれを熱心に眺めることはあったが、決して触れようとはしなかった。

 シシルスは血走った眼をしていない普通の動物しか食べない。伝説の中では、竜は英雄と共に魔獣を倒した存在である筈だが、シシルスは魔獣を倒すべきものとは考えておらず、興味深げな視線を向けるのみで、時には友好的な声を上げながら近付いていこうとする程であった。

 反対に、警戒するような声を上げる時もあった。八月も半ばを過ぎた頃、森を歩いて罠の確認をしている時に、リェイは初めてシシルスの低く凄みのある唸り声を聞いたのだ。金色の視線が窄められているのに只ならぬ何かを感じ取り、振り向けば、その先で生きているものが木の葉を揺らすのが見えた。

「……魔獣?」

 リェイは思わず呟いたが、この竜の仔が魔獣に向かってこんな唸り声を上げたことなど一回もない、ということに、すぐに気付いた。森の獣を相手取った時などは、寧ろ興奮して声が高くなる。どちらでもないとすると、その相手は自然と人という結論になる。

「……ハヴィルとかだったら、こんな風には唸らないだろうしなあ」

 小屋に帰って、寝台よりも大きくなったその背に伸び始めた突起を撫でてやりながらふと零せば、シシルスはふと顔を持ち上げて、首を傾げてみせた。火魔石のランプの光を受けて、金色の双眸が不思議な色合いに染まって揺れている。親愛と知性を宿し、それはいやに静かな美しさを湛えて、全て知っているとでも言いたげに真っ直ぐにリェイを見つめていた。

 懸念が人の形となって目の前に現れたのは、その十日後のことだった。

 今まで聞いたこともないくらいのシシルスの大きな唸り声に、万が一の時の為にと携帯していた符を構え、リェイは躊躇わずに火を宿した風の矢を放った。耳にすぐさま届くのは、ぎゃっ、という悲鳴と、何かが倒れる音。樹下の森に生える木々へ喜んで燃え移ろうとする火を消化しなければならない、そう思ってリェイが水の符を構えた時だ。

 竜の仔が、屋根よりも大きくなった翼を拡げた。

 この生き物がどこまで大きくなるのかはわからないが、シシルスの身体は以前目にした騎獣の大きさを超え、最早子供と言ってもいいのかどうかわからない大きさになってきている――その皮膜に刺さったのは、火を宿した鋭い鏃。

 次の瞬間、鞭のようにしなる尾が、何かを弾き飛ばした。樹下の森にこだまするのは違う悲鳴と何かが折れる音。

「水精霊の思し召しの下に――」

 リェイは驚きのあまり囁くことしかできなかった。しかし、それだけでも符は水を精製し、それは螺旋を描き、手の中で周囲の水気を取り込みながらあっという間に大きくなっていく。目の前で火が樹木を一本飲み込んで倒した。確かめたいことは沢山あったが、迷っている場合ではない。

「――このものに力を与えたまえ」

 水の渦が燃え盛る木々の熱を奪い去る。リェイは新たな矢の符と、治癒の符や縄の代わりの蔓の符を幾つも取り出した。竜翼に突き刺さった火の矢は皮膜に穴をあけてその周囲を焦がすのみに留まり、流血はない。じきに癒えるだろう。問題は、煙を上げる木々と共に横たわっているものだ。皮膜の傷に構うことなく唸り続けて周囲の警戒をし続けているシシルスの尾がせわしなく動いている。燻された虫達が慌てて飛んだり逃げて転がり落ちたりしているのに一切興味を示さない強者の金の視線が、そこで弱々しく動くものを凝視していた。

 波打つ脚の筋肉に触れて、今にも飛び掛かろうとしたシシルスを制し、リェイはそれに近付いた。獲物を仕留める時に誤って丸焼きにしてしまったことは何度もあったが、それとは訳が違う。今しがた自身が焼き焦がしたのは魔獣や森の獣などではなかった。黒く焼け焦げても尚動いているものを見るだけで、吐き気を催した。

 何の理由があって自分とシシルスを狙ったのだろう、それがなければ酷い仕打ちをすることもなかったし、何よりも腹の子に差し障ったらどうしてくれよう。リェイはそう思いながらごくりと喉を鳴らし、込み上げてきていた色々なものを飲み込んでから、言った。

「……聞こえているか、どこから来た」

 火を纏った風の矢を直接受けた黒焦げの片方がの腕が崩れ落ちた。息絶えたそれは、着ていた服すらどんなものかも分からない。せめて果実や樹木の刺繍でも残っていたのなら、環や根のどこの区画から来た者なのかは断定出来るのだが、人の命を狙うように仕向けられた輩が身元の割れる格好をしているわけがないし、偽装の可能性もある、と思い直した。

「……言えるわけがないか」

 荒い息を続けている方はまだ命があった。リェイが治癒の符を焼け爛れた喉に翳せば、火傷よりも凄まじい痕が形容し難い酷い音を立てて再生していく。強力な火の符で焼かれてはいたが、まだ致命傷にはなっていないようだった。露出した胸板に貼りついてしまっている布切れや何かの破片を手早く取り除いた時に、リェイはふと思った。

 果たして命を狙ってきたこの生き物を救う必要はあるのだろうか。

「やめろ……もう持たん、お前の力を、無駄にするな」

 と、再生された喉が動いて、苦しそうな声が漏れる。はっとして、リェイはそれに反駁した。

「いいや、これは殆ど私の力ではない……それに、傷付いた者を見殺しにしないのが樹下の退治人の掟だ、どこから来たかはどうでもいい」

 リェイは自分の言葉を心の中で反芻した。掟なのだ。弱々しい男の声は、そうか、と一言。土と光の模様が入った符はしっかりと効果を発揮しているから、大丈夫だろう。

「何を狙っていた、言えるか?」

 肉体が再生する時には激痛が走るようだったが、その合間に零れてくる呻き声は次第に和らぎ、荒い息は落ち着いてきた。己の命が救われたことに対してはどうも不服らしく、火傷が消えてようやっと人相がわかってきた顔はしかめられていて、眉間の皺は深い。リェイはそれを見ながら色々と考え直した……色々と情報を得るまでは、死んでもらっては困る。

「礼は言えない……いつかお前は、助けたことを後悔するだろう」

 立ち上がった男を見上げて、目つきが鋭い、と、リェイは思った。服の半分以上が焼けてしまったせいで脚や腕、胸元が露出してしまっている。太く浮き出た筋肉が逞しい。火の術を封印された状態で取っ組み合ったら到底勝てる相手ではない、この場にシシルスがいて絶えず唸り声を上げているのが救いといったところだろうか。

 腰のあたりに引っかかっている焦げた布切れの隙間に飛び出している金糸を認めながら、リェイは慎重に口を開いた。

「そうか……でも、助けなくても、私は後悔していただろう」

「……樹下の掟とやらか」

「そういう風に育ってきたから――」

 はっと息を呑むのがあまり自分にとって有利ではないということをその動作の後に気付くくらいには、リェイは駆け引きも隠しごとも苦手だ。耳の奥から、夫と親友の声で二人分聴こえてくるのは、下手くそ、という言葉だ。わかっている、と思いながらも、口に出さずにはいられない。

「……樹上から来たのか」

 すると、男の頬の肉が一度だけぴくりと震えた。次の瞬間にはリェイの視界が反転し、緑の葉が重なっている世界が激しく点滅すると共に、後頭部に衝撃が走る。リェイは呻いて腕を動かそうとしたが、地面に縫い留められた。

「――動くな」

 男の低い声はその場を制す。シシルスがシューッと抗議の声を上げた。

「十六段目のもの、竜を、火の気の多い樹下で生かしておくわけにはいかん」

「……どういうことだ」

 一瞬だけ、男は視線を外した。その先にいたのは、幼子の季節を越えて、この森にはまるで似合わない生き物となった竜だ。十六段目、という言葉がリェイの頭の片隅に引っ掛かった。

「……気付いただろう、これは樹上の掟だ」

「なら、私を狙わなくても――」

「お前を無力化するのが一番手っ取り早いから、後悔するだろう、と、おれは言った」

 いつか、という言葉は何も遠い未来のことだけを言っているわけではないのだ。リェイは歯噛みした。せめてハヴィルだけでもいてくれたらどんなに心強かっただろう? 竜が英雄と言葉を交わしたのは伝説の中だけで、今のシシルスはリェイ達が話す言葉を理解はしているだろうが、鳴き声の代わりにそれを発したことはない。そう考えた瞬間、鳴き声、という概念が心のどこかをざわつかせた。

「……あなたが、何をどこまで知っているのか、聴かせてくれないか」

「その前にあの生き物を無力化しろ」

 男はリェイを押し倒したまま顎をしゃくった。背中に擦れている木の根や草の茎の感触が苛立ちを煽る。今の自分の身体は既に己一人のものではないから、余計な衝撃をこれ以上与えたくない。リェイは早く起き上がって、兎に角落ち着く場所へ行きたかった。

「……すまない、やり方がわからない」

「お前が命令するだけでいい、あれがお前の言うことを聴いているのは把握している」

 その言葉に、リェイの心の中で微かな火花が散った。相手の昏い双眸を見つめると、そこに映っているのは自分の眉間に寄った皺だ。

「……私がそうした瞬間に、あの子を殺すのか?」

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