3

 しなやかな身体を捻ってするりと離れ、ヴィオは一歩前に進み出た。リェイは我に返って、リュークをそっと下ろす。

「ああ、私がやろう、あなたやリュークだと危ないかもしれない」

「……それは賢明だ、サルペンは数が少ないぶん、親子の結びつきが強くて、特に気性が荒いから……騎獣として卵を得たら、育てた人にしか心を許さない……君がつけた名前に反応するくらいだから、信用はあるだろうし。リューク、とうさまと一緒にいなさい、危ないかもしれないからね」

「はあい、とうさま」

 リェイはクルル、グルル、と甘い声をずっと出してもぞもぞと動いている布の塊に近付いた。どうやらどこかが引っ掛かってしまって抜け出せないらしい。見れば、鋭い爪が繊維を貫通して、描かれている花は赤い花弁を一枚散らしていた。

「シシルス」

 名を呼べば、頭らしき箇所が持ち上がって、機嫌のよい声がカカカ、カカカカ、と聞こえてきた。どうやらこのまま触れても大丈夫そうだ。自分の力加減を熟知しているらしく、この生き物はリェイの傍にいる時に爪や腕を向けてきたことが一切ないので、あまり心配はしていなかった。

「ここ、あなたの爪が引っ掛かっているから、外すぞ」

 リェイは開いてしまった穴から爪を引き抜き、その勢いでさっと布を取り去ってやった。まだ潜って遊んでいたかった、とでも言いたげな甘え声とともに、少し大きくなった顎が自分の薄い胸にぶつかってくる。それを受け止めた瞬間、入り口から聞こえてくるのは、息を呑む声。

「――嘘だろう、リェイ」

「どうかしたのか?」

 振り返れば、驚愕と畏怖に頬を殴られたような顔をして、ヴィオがリュークに半ば凭れ掛かるように膝をついていた。吐き出すそばから、その言葉は震えている。

「君は、なんてものを……それは、サルペンじゃない」

 リェイは胸の中に埋められている頭を思わず見つめた……それはもう既に、人間と同じくらいの大きさだ。保護した時よりも伸びて手首から中指の先までの長さになった双角、牙などは人の手の親指と並べて同じくらい。前脚も後脚も、トカゲよりも優雅にすらりと伸びて、しっかりした筋肉を備えつつある。強張りをほぐそうと伸ばされた翼は、片方だけでも、ヴィオの踵から腰までの高さに匹敵していて、折れた箇所は綺麗に治っていた。

「……サルペンは鱗じゃなかったのか?」

「いいや、サルペンは……サルペンは鱗に覆われているけれど、一対の翼と、二本の脚だけしかない」

 シシルスは四本脚だ。リェイの目がおかしくなったわけではない。リュークだってこう言った。

「あんよ、よっつあるねえ」

 竜の仔だと最初に思った自分は間違っていなかったのかもしれない、だとしても、どうしてこんなに深刻な空気になってしまったのだろう、何か問題でもあるのだろうか……そんなことをぼんやりと思って、リェイは険しい顔のヴィオを振り返った。

「……じゃあ、あなたなら、シシルスをなんていう風に言う、ヴィオ?」

「……竜、英雄の相棒となった竜だ……間違いないだろうけれど」

 ヴィオはそこで顔を上げた。厳しい表情のままだ。

「リェイ、このことを他に知っているのは? 義理も口もしっかり堅くしている君のことだから、その辺の他人にぺらぺら話すようなことは、ほぼないと思うけれど」

「……何か大変なことにでもなるのか? ハヴィルなら、この間、私の身体を気遣って手伝いに来てくれたから、知っているが――」

「ハヴィルか、ハヴィル……」

 考える時に顎に手を当てて視線を外すのは夫の癖だ。リェイはそれを見ながら、ハヴィルの番いに関することを、ふっと思い出した。

「そうだ、ハヴィルのことなんだけれど、ヴィオ」

「あいつがどうかしたのか? あいつも喋るような奴じゃないだろう……何か気になることがあったなら、すぐに私に言いなさい。それに、身体を気遣って、って、どこか調子がよくないのか、リェイ?」

 まるで小さな子に向かって道理を諭すような口調で、ヴィオは相対してくる。出会ったばかりの時に受けた印象と比べると別人のようだが、ひょっとしたらこっちが本来の彼なのかもしれない、とリェイは思った。リュークと一緒にいる時の夫をあまり見たことがなかったから、こんなに不思議だと感じるのだろうか。そういえば、彼がどのような育ち方をしてきたのか、リェイは殆ど知らない。

「ハヴィルが、樹上の誰かを番いに考えているらしくて……」

「……それか」

「知っていたのか?」

 ヴィオはどこか気まずそうな顔になって、視線を逸らした。

「知っているも何も、その件に関して色々と相談を受けていたからね。そうか、ハヴィルはやっと君に伝える決心がついたのか……」

 溜め息をついて額を掻く夫は、いつまでも小屋の入り口のあたりに留まるのは落ち着かないことに気付いたらしい。座ろうか、と言いながら四年前に自ら作った椅子を引いて座り、リュークを膝の上に乗せる。リェイも寝台の上に腰掛けて、シシルスを膝に乗せた。竜の仔は腹の中の何かを感じ取ったらしく、しきりに下腹に額や鼻先を擦りつけてくる。ゆるい眠気の中でそれを撫でながら、リェイは口を開いた。

「私だけが知らなかったのか……でも、決心って、そんなに大仰なことなのか? そんなに大掛かりなことだったら、それこそ何か力になれることがある筈だ……そう思って、私はあなたに相談しようと思っていた。あれだ、ハヴィルよりも三歳下らしい、あなたと同じ十九歳だろう? 知っているのなら、ハヴィルのことを沢山紹介してやれると思う。ハヴィルは、樹上と樹下のやり取りが増えることを望んでいたから、そうしたら――」

「そうだね、君が私に相談しようと一番に思ってくれたことに感謝するよ……だけれど、はっきり言っておくけれど、樹上と樹下を結び付けたいのなら、もう少し違うやり方で動くのが、私にはいいと思う……出来るだけ多くの人に還元出来るような利益に繋がるようなことが相応しい、例えば、私を救ってくれた時に使った符に関する技術の提供とか」

 どこか突き放したように聞こえる声でそう言われた瞬間、リェイは何とも近寄りがたいものを夫に対して抱き、自分が間違っているような気がした。ああ、だとかうん、だとか、意味の分からない返事と首肯を何度か返すだけで精一杯で、途切れた言葉を何とか探し出すのには時間が掛かった。その間、呆れにも似た苦みと迷いが綯交ぜになったヴィオの視線が重なることはなく、ただ、かわいいねえ、というリュークののんびりとした声と、小さな息子の手に撫でられてご満悦のシシルスの鳴き声が、小屋の中を賑やかしていた。

 どちらも幼い人と竜の愛らしいお喋りは、心地よいゆりかごとなって自分の睡魔をあやしてくれている。それを中断させたくなくて、リェイはそっと口を開く。

「……でも、知っているのだったら、誰なのか教えてくれるだけでも出来るか、ヴィオ?」

 ヴィオは机に肘をついて、斜め下からリェイを見上げる。森の囁きのような小さな声なのは、きっとリェイと同じ気持ちだからだろう、息子の方に宵空色の視線が逸れた。

「ハヴィルの許可なしには、君に教えることはできない」

「……誰にも言ったりしないぞ?」

「君の口が堅いのはわかっているよ、だけれど――」

「私が訊かれた時に嘘をつけないから? ……教えてくれ、ヴィオ、私は何かあなたの気に障るような、いけないことを訊いてしまっただろうか」

 リェイはだんだん不安になってきていた。机の上に握った両手を置くと、宥めるように、自分よりも大きな手が重なってくる。リェイにも伝わるように、と、夫が懸命に言葉を選んでいるのが理解できた。

「……そうじゃない、基本的に、これは私の方の問題だ…頃合いを見て君に伝えてくれと言われたけれどね、私が飲み込めていないだけで」

「……竜の巫女とかシシルスとか、突然出てきたそういうのもしっかり受け止めていたじゃないか、ヴィオ……飲み込めない程、大変なことなのか?」

 ヴィオはそこで顔を上げて、苦い笑みを眉間と口元に浮かべる。

「そこまで大仰じゃないけれど……いや、ファイスリニーエ様や、目の前のこの生き物に関しては、今もまだ夢の中にいる気分だよ……短い間に色々起こり過ぎて、ちょっと」

 麻痺していたみたいだ、と言って、彼は疲れ切った表情で首を振った。おまけに、リュークの子育てまでも、ヴィオはその手に引き受けている。リェイは、重ねられた手を下からそっと握り返した。

「技術とかなら、いつも描いている符なんかは、役に立つだろうか」

「それはとても価値があるだろうね。樹上にはそういうものはないから、驚かれるだろうけれど、樹下で改良を加えて活用することができれば、色々と変わるかもしれない」

「そうか……そうか、そうしたら、私も力になれるかな」

 それはきっと酷く頼りなく聞こえたのかもしれない。触れてくる親指がそっと肌を撫でるので、視線を上げると、ヴィオの優しい眼差しがリェイを見つめていた。

「……あなたやハヴィルの力になれることがあってよかったけれど……何だか、せっかく来てくれたのに、逆に疲れさせてしまった、ごめんね、ヴィオ」

「いや、いいんだ……君が元気でいてくれれば、それで」

 ヴィオはそう言い切ってから、何かに気付いたように顔を上げて、そうだ、と言った。

「君こそ疲れているんじゃないのか? ハヴィルが君の身体を気遣って来てくれている、って、さっき言っていただろう」

「ああ、それなんだが――」

 一番伝えたかったことを思い出した瞬間、リェイの身体を強烈な眠気が襲った。思わず大きな欠伸が漏れ、慌てて手で口を覆う。それにつられてリュークも大きく口を開けて欠伸をしたから、机の上の小さな手をそっと持ち上げて口に当てさせた。

「欠伸が出る時は、こうやって口を隠すんだ、リューク」

「どうして、かあさま?」

 真似をしているのだろうか、シシルスも口を開けながら目を瞬いている。牙がずらりと並んだその口の前に手を翳して、リェイは思わず笑った。

「リュークも術が使える人だから、面白いことから知っておいた方がいいかな……昔、術を使える人が欠伸をした時に、空気を一杯吸い込み過ぎて、身体の中で……何だったかな、火だったかな、それが爆発してしまったことがあったんだ。あと、魔獣との戦いの時かな、手を当てずに欠伸をした人が、小さな土のかけらをうっかり飲み込んでしまったんだ……後は、リュークは賢いから、わかるか」

「いやだ、おもしろくない! こわい!」

「うわあ、怖い怖い、かあさまは怖いことを言うね。でも、ちゃんとしていたら、そんなことは起こらないから。大丈夫だよ、リューク」

 胸にひしとしがみ付いた半泣きの息子をあやす夫が、咎めるような視線を寄越してくる。まだ四歳の幼子なのに、流石にやり過ぎたかもしれない。リェイは欠伸を噛み殺しながら手を伸ばして、父親と同じ色をした柔らかな髪をそっと撫でた。

「そうだ、怖かったね、ごめんね……だから、口に手を当てるのは、空気を吸い過ぎないおまじない――こういう風にね――かあさまもちゃんとやっているだろう?」

「全く、話が逸れているよ、リェイ。あと、怖がらせるのはよしなさい」

「すまない――欠伸が止まらなくて――眠いんだ、近いうちに施術院へ行こうと思って」

 ヴィオが眉を寄せる。

「施術院……眠いだけで、施術院? 夜は眠れているのかい?」

「ああ、夜もちゃんと寝ているし、昼も……これを言いたかったんだけど、多分、できた」

 リェイが頷いてからの夫の表情の変化は、まさしく見ものだった。疑念を抱いていた眉間が何かを思い出したように緩み、口が開いて、あっ、と声にならない叫びが、間を置いて二回。それから、がたん、とけたたましい椅子の音を立てて腰を浮かし、リュークを机の上に座らせるという普段なら有り得ないことをして、リェイの肩と腕を掴んで立たせた。

 弾みでシシルスが床の敷物の上に転がり落ち、抗議の声を上げた。いつの間にか机の上から滑り降り、芽と蔓の模様を描く自分の着ている羽織の端を掴んだリュークは、それを波打たせて、樹上で習ったらしい歌を歌いながら竜の仔の気を惹こうとしている。すると、僅かにほつれた刺繍糸の先から、小さな小さな翠の芽がぴょこりと生えた。

 種族の違う幼い子らがそれを驚いて覗き込むのを眺めながら、リェイは言った。

「言い訳をしておくけれど、眠いって言ったら、ハヴィルに気付かれたんだ……本当は一番にあなたに報告したかったけど、ばれたものは仕方ないし。もういいや、ってなって、名前のことを相談したら、生まれてきたのが男の子でも、竜の仔と名前が被るのなら名誉だろう、って言っていたから、まあいいか、って思った……生まれるなら多分、次の年明けになると思う」

 そんなことを言えば、泣き笑いの表情をした夫が、机越しにぎゅっと抱き締めてくるものだから、リェイはそれをしっかりと受け止めたくて、向こう側へ乗り越えるのだ。眠気が身体を覆っていても、何も難しいことではない。彼女を動かすのはいつも情動であり、また言い表しようのない喜びであった。

 ヴィオが、リュークにちゃんとした術を教えないと、と呟いてから、しっかりと触れ合ったリェイの肩に頭を擦りつけてくる。

「それは確かに、私が最初に知りたかったね……だけど、だけど、嬉しい」

 息子と同じ意匠の白い羽織の裾が、足元で揺れる。まるで子供が二人いるみたいだ、と思った。

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