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「あんまり激しくシシルスを振り回すなよ、翼の骨を折っていたから、粘土で固定している、もうそろそろ大丈夫だとは思うけれど……私にとっては嬉しいけれど、ハヴィル、あなたの方が私より喜んでいる気がする」
シシルスは楽しそうに鳴き声を上げている。全く違う生き物なのに、人間の子供とどこか似ているなあ、などと思いながら、リェイはハヴィルを眺めた。大きな男はぐるぐる回るのをやめて、少し照れくさそうに口の端を上げる。
「お前が淡白なだけじゃないか、リェイ? あと、お前やヴィオがきっかけになって、上と下の交流が始まって、上にあるいいものが沢山下りてくるのも楽しみなんだ」
「ああ、建前はそういうわけだな」
だから樹下の希望などと言ったのか、と納得して、リェイは頷いた。普段ならすぐに気付くようなことだが、どうにも頭の奥の方がぼんやりとしている。長い欠伸が一つ漏れた。
「建前というかそっちも本音だ、勘違いするなよ……眠いか、リェイ、そういや今が一番大変な時期だよな、前もそうだっただろう?」
「ああ――私は、吐き気はないが眠くなる――失礼、安定するまではな」
返答にも欠伸が混じった。最近は眠くなったら素直に眠る、という生活をしていて、我慢を一切しないことにしている。リェイは扉の横に引き摺ってきた細長い寝台の上に膝掛けを敷いて、その上にだらりと寝転がった。リュークを妊娠していた時にヴィオが作ってくれた台は脚が折り畳める便利な仕様で、使わない時は小屋の中で壁に立て掛けている。
「ヴィオがいないぶん、おれが力になるぜ」
「昔から私にばっかり構って、私は助かるけれど、自分の生活は大丈夫なのか、ハヴィル?」
「大丈夫じゃなかったら来てねえよ、ここに」
ハヴィルの言葉で、もしかしたらこの男と番いになっていたのかもしれない、ということを、リェイは唐突に思い出した。二人が番うことを推す周囲の雰囲気に流されるのが嫌で結果的に森に逃げてしまったが、竜の仔や自分を進んで世話しようとするこの男と一緒になるのも、今思えば一つの正解であったのかもしれない。きっと、嫌だなどとは一言も声に出さずに、料理や洗濯、食材の調達、罠の確認や繕い物までやってくれるだろう。環に住んでいたら、リェイが今やっている細々とした生活の作業も、半分以上消えてなくなっている筈だ。狩りに集中することが出来るから、蓄えだって増えるだろうし、もっと良い生活が望めた……ということも、想像に難くない。
気付いたら、リェイは口走っていた。
「ハヴィルは、私と番いたかったのか?」
もみくちゃにされていたシシルスが静かに下ろされる。相手の瞼がぴくりと動いて僅かな戸惑いがちらついたのがわかった。
余計なことを言った、と気付いてリェイは声を出そうとすれば、まるでそれを止めるかのように、ハヴィルが静かに微笑んで、口を開く。
「……お前が出ていった時、嫌われたと思ってちょっと落ち込んだけど。今考えれば、お前はおれとか周りとかからいつも色々言われるのが苦手そうだったし……おれだって、周りのそういう雰囲気に流されかけていたな」
「……いや、その通りだけど、私は……ハヴィルのことは嫌いじゃなかった」
眠気が霧散した。リェイは起き上がって言う。
「男としては、取り立てて好きでもねえだろ」
「でも、ハヴィルは、皆に親切だし、いい男だと思う――」
「あのな、リェイ」
広げて固定している翼を重たそうに引き摺って、竜の仔は寝台に近付いてくる。それをそっと補助して歩きながら、ハヴィルはリェイの言葉を遮った。
「そういうの、下手くそなんだから、やめとけ」
「下手くそ、って――」
「嘘つくのとか、取り繕うのとかさ、お前は下手くそだ、って言ってるんだよ。まあな、お前とは番うものだろうとその時は思っていたけど、よく考えたら連れ戻してでも番いたいってわけでもなかったな、って感じだ、おれは……お前だってそれはごめんだろう」
リェイは俯いた。竜の仔が長い胴着の裾を引っ張りながら、膝によじ登ってくる。そっと抱え上げて腕の中に囲うと、シシルスは大きな欠伸を一つ落として、喉を鳴らした。ハヴィルの大きな手が角や鱗を掻けば、金色の瞳が気持ちよさそうに細められる。
「でもお前のことは嫌いじゃない、じゃなかったら、こうやって来たりしねえし」
「……女としては、取り立てて好きでもないだろう」
「その通りだ、おれにも好みがあるしな」
お前だってそうだろう、と暗に言われていた。その言葉は大気を揺らし、そよ風になって届いてくる。リェイは頷いた。
「私達は案外気が合うかもしれないけれど」
「まあ、そうだろうがな、お前にはもうヴィオがいるし、ヴィオの方がいいんだろ、だから今こうなってんだ。それに、おれにだって――」
リェイは耳を疑った。浮いた噂の一切ない男の口から飛び出した言葉に思わず顔を上げれば、ハヴィルが肩を竦めてみせた。
「あなたにだって?」
「――そういうこった」
「番いの打診が?」
「三つ年下だ」
巨漢で老け顔のハヴィルは、頷きはしなかったが、そう答えた。懐の広い性格も相俟って三十歳よりも上に見られることが多いが、これでもリェイより一歳年上の二十二歳だ。
「ヴィオと同い年なのか、へえ」
「そうだが……いや、打診が来たわけじゃない」
褐色の髪をがしがしと雑に掻くのは照れている時だ。幼馴染のそれを見ると、どうにも愉快な気持ちになってくる。
「名前は? 私が知らないかもしれないけれど」
「えっと、お前だから言うけれどな……実は、下の奴じゃない」
「ということは、樹上人なのか、何段目だ? というか、いつの間に知り合った?」
「ああ……そこはまあ、まだ教えられねえな」
「美人なのか? それとも可愛いのか?」
こうやってリェイが好奇心のままに質問を重ねても、ちゃんと付き合ってくれるのがこのハヴィルという男だ。ちょっと言いにくそうに口の端を歪めたり、視線を色んな所に向けたりしながら、その場にしゃがんでシシルスのつけた足跡を指でなぞっている。
「……俺にとっては、どっちも」
「そうか……成程、そうか、ハヴィルがなあ。そりゃあ、上と下の交易を望むわけだ」
リェイの頬や口角は自然と上がった。自分のせいで婚期を逃してしまっていた親友が、やっと誰かと家庭を築くことが出来るかもしれない、と思うと、これまで陰鬱だと感じていた樹下の森の土の色さえも、温かな命の寝床に思えるくらいだ。ハヴィルの見付けた幸せが、自分のこれからの行いに結び付いている。やっと、これから何かを返していくことが出来るのだ。
「よしわかった、ハヴィル、お前の為に私も努力しよう、精一杯な……何でも力になるぞ」
「……おう、でも、まずはお前さんが養生しろよ、そしたらまた生まれてくるだろ? おれのことは、もっと後だ」
「わかっているさ、二回目だからな」
まずは自分が健康でいることだ。それでも、出来る範囲で彼の幸せに貢献すれば、環の人々ともう少し上手に付き合えるかもしれないのだ。その相手を探ってもしも会えたのなら、その娘に親友のいいところを沢山教えてやれるのだ、そうしたら、いい印象を持って貰えるかもしれない。リェイは、もうすぐ息子と一緒に来訪する筈のヴィオに、今年十九歳になる女子が大樹の何番目の枝に何人いて、樹下に来たことのある者がその中に存在するかどうか訊いてみよう、と思った。
「言ってくれてありがとう、ハヴィル」
「何の、おれ達は親友だろ」
何かを追いかけるように、森の奥のそのまた向こうに視線をやっていたハヴィルが、ふと振り返って、微笑んだ。リェイも、膝の上の竜の仔を撫でながら、お返しに微笑んだ。
「かあさま!」
「おかえり、リューク」
「あのね、かあさま! えだと、おうち、おおきいの! あと、これ!」
触れ合った頬は相変わらず柔らかくて心地いい。腕の中に飛び込んできた息子の身体は、四歳を迎えて、少しだけ重く、大きくなっていた。第十五段目の住人の証である十五本の枝が組み合わさった模様がついた白い羽織も、よく似合っている。二人を樹上に送り出してからまだ二ヶ月と二十日しか経っていないのに、幼い子供というのはこんなにもあっという間に成長していくものなのか、と、心の中でリェイは驚きながら、リュークから差し出された花を受け取った。大ぶりの赤い花弁が美しい、樹下の森でもよく見るロウゼルだ。
「ありがとう、綺麗なお花だ」
「たねからね、ぼくが、つちのちからで、がんばって、うーん、うーんってして、さかせたの!」
そして、リュークの後ろから少し重心の偏った姿勢で駆けてくるのは、息子と同じ模様のついている白い羽織を着たヴィオライトだ。小屋の前まで来たところで、「とうさまを置いていくなんて」と息を切らして訴えながら、ヴィオは上目遣いでリェイを窺った後、背をしゃんと伸ばした……父親らしく、胸を張って。
「あとね、いつかね、かあさまをね、えだのうえに、つれていってあげる! みんな、ぴょーん、ぴょーん、ってとんでるの! おふとんね、ふわふわ!」
「ぴょんぴょん、ふわふわ……不思議だなあ、かあさまも行ってみたいなあ」
「戻ったよ、リェイ」
「おかえり、ヴィオ」
戻ってきた二人の遥か後方には、見たことのある白い羽織を身に着けた者達が、緊張した面持ちで待機していた――きっと護衛だろう。彼らは一定の距離を保っていて、決して近付いてこなかった。
一本に編んだヴィオの髪は、走ったせいで乱れていて、片手で何とかしたくらいでは元通りにはならないくらいだった。リェイは左手でリュークを抱き上げ、右手を伸ばし、夫と抱擁を交わす。そのついでに毛先を束ねていた紐をさっと解いてやれば、輝く太陽の色をした毛束が少し広くなった背中にふわりと広がった。樹下の緑の匂いが濃い風がそれを浚って、好き勝手にあっちこっちへ靡かせる。
「こら、邪魔じゃないか」
「とうさま、きれいねえ」
「乱れていたから、直してあげようと思って」
小屋の扉を開けながら抗議の声を上げる夫の顔は、笑っている。リェイも笑いながらそれに答えて、寝台の上の布の山に向かって声を掛けた。
「その前に、まずは紹介したい、シシルス――」
「――シシルスだって?」
大きな掛け布の山に見えるそれが、ごそごそと動く。ヴィオが息を呑むのがすぐ後ろから聞こえた。ぎい、ぎい、と何かを擦り合わせるような音、次いでグルル、クルル、と獣が唸るような声。リュークが耳元で囁く。
「かあさま、あれ、なあに? おふとんのまもの?」
「違うよ、よおく、見ていてごらん……甘えているだけだ」
「……甘えているのか、あれが……いや、何が? 君は私が送った名前をどこで拾ってきた何にやってしまったのか、説明してくれるのかな?」
ヴィオの左手がリェイの右肩をしっかりと捕らえた。その手の甲にそっと触れてから、リェイは夫の腰を引き寄せ、隣に並ばせる。見守っている寝台の上で、布が持ち上がった。
「出てくるよ、ほら」
黒くて細かい鱗に覆われたトカゲのような鼻先が、下からちらりと覗いた。ぶるぶると振った頭に布が引っ掛かって、角の形がくっきりと浮き出る。ヴィオが、まさか、と隣で囁いて、リェイの肩を揺さぶるように抱いてきた。
「騎獣じゃないか、そうだろう、どうしてここにいる?」
「最初はそう思ったの……この家の屋根を突き破って、私が保管していた肉を食べていたから、保護して、そのまま……それに、騎獣じゃないような気がして」
「君が上から獲ってきたのかと、そういうわけではないね?」
「違う、上に行く余裕なんてなかった」
リェイは首を振った。
「ねえ、あなたに訊きたいのだけれど、騎獣ってどんなのがいる?」
「君だって見ただろう、四足歩行で、翼と羽毛があって、人よりもずっと大きい……サーディアナールの恩寵を得る試練の後には、騎獣の卵を十六段目よりも上から取ってくる試練があって、成功したら孵すところから育てるけれど――」
「ヴィオ、羽毛があるのか?」
リェイが遮れば、ヴィオが口をつぐんだ。その代わりに言葉を出したのはリュークだ。
「おかお、つるつるだね、かあさま」
「……ないのか?」
仰ぎ見た夫の顔は真剣そのものだった。開きかけた口を閉じて、彼は顎に手をあて、寝台の上で動く布の塊を見つめながら、探るように言葉を選んでいく。
「……サルペンっていって、羽毛がなくて鱗に覆われている種類もいるけれど、卵を得るのは難しいかな。エイルーダの卵が一番獲りやすいね、皆で一緒に環に行った時に見たのがそれだよ、エイルーダ……腕が鎌になっていて羽が蝶みたいなのは、フィリっていう種類だ。後は、触り心地のいい毛皮を纏っていて、枝と枝を滑空するフテロミス」
竜の仔だと思っていたが、サルペンというよく知られた種類であるかもしれない。それを聞いて、とんでもないものを拾ってしまったと思っていたリェイは、少し安心した。
「……サルペンだと思うか?」
「わからない……布を取ってもいいかい?」
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