喝火

1

 最初、リェイはそれを、奇形の蜥蜴かと思った。

 騎獣であるかもしれない、という考えが一瞬だけ頭の隅を過ったが、すぐに打ち消した。祭祀の時に環状都市の中央広場で見た騎獣は、羽毛や毛皮に包まれていた。だが、目の前で一心不乱に牡鹿の魔物の肉を喰らっているその生き物が纏っているのは、硬そうな鱗だ、それ故に、掛かってしまった無理な力に耐えられず、右の後脚と右の翼の骨を折っているようだ。

 リェイは持っている中で一番丈夫な豹の魔物の皮を鞣して作った手袋をはめて、近寄り、何か良からぬ気配を感じ取って威嚇するその生き物と数刻にわたって睨み合った末に、ようやっと前足を捕らえることに成功した。

「全く、何てことをしてくれたんだ」

 切り分けて干しておいた牡鹿の肉にはありとあらゆる場所に歯型が付いていて、部位ごとに分けてやることもできそうになかった。食うというよりも、沢山噛んで水分や旨味を吸ったと言った方が正しいだろうか。食べ汚い侵入者は、ぎゃあぎゃあと耳障りな声で鳴いて訴えながら、腕の中で手足をばたつかせて暴れている。それに溜め息をついて、リェイは埋め合わせの方法を幾つも思い浮かべながら、ここにいない人間に謝った。

「すまない、ハヴィル」

 馬鹿みたいに疲れ切っていて、罰として主犯をさばいて食肉にしてしまう、などという決断は出来なかった。そこで、リェイは二日間の麻酔と催眠の符を使い、蜥蜴のような何かを眠らせ、折れた右の翼と右脚の骨を綺麗に並べ、粘土の符と添え木でしっかりと固定してやった。リェイが作業をする間に思い出していたのは、環状都市で見たファイスリニーエである。竜の巫女だと自らを称した女の背にあった翼と、この生き物の背にある翼はよく似ていた。翼の扱いには、特に悩んだ。どうするのが一番いいか色々と考えた末に、全体を粘土の符で覆い、折れている箇所に丈夫な枝をあてがった。

 小屋に帰ってきたのは昼間だったが、リェイはいつの間にか次の朝を越えて、昼に気付かず、夕方を一瞥し、気付けば再び夜を迎えていた。作業の合間に水分やスープなどは口にしていたが、しっかりした食事はとっていなかったので、空腹だ。しかし、強い眠気は寝台への恋心を募らせる手助けをしていた。

 竜と断じてもいいのだろうか。その生き物は、二日持つ筈の麻酔から想定していたよりも早く復活し、何かを探して這っていこうとする。それをそっと抱え上げて寝台に座りながら、リェイはぼんやりと考えた。湯浴みと屋根の補修は起きてからでいいだろう。

「どこから来て、何を探しているんだか、あなたは……全く」

 折れている脚や翼に気を付けながら膝の上に乗せると、竜の仔は大きな欠伸をひとつして、口を半開きにしたまま頭を擦り付けてくる。妙に懐っこいのは何故だろうか。腹の方の白い鱗の感触と、伝わってくる冷たさが、リェイに纏わりついている気怠さを刺激して、眠気を呼んできた。樹下に伝わる伝説では、その背に英雄を乗せた竜は全てを引き裂く大きな牙を持っていた、と言われているが、ちらりと見えた口の中には未熟な棘が並んでいるだけだ。まだ、ほんの小さな子供だろう。固まった粘土に包まれている小さな右脚を見れば、ヴィオの姿がそれに重なる。途端に、夫に会ってこのよくわからない状態について相談したい、という想いが沸き上がってきて、リェイは驚いた。

 夫ならどうするだろう。リュークの子育てを主に担ってきたのは自分ではない。そんなことを考えながら小さな頭や顎を撫でていると、思考までぼんやりしてくる。リェイはゆっくりと体勢を崩し、寝台に寝転がった。

 どうして自分はこの生き物を助けたのだろう、と思ったけれど、何かを考えるには疲れ過ぎていた。竜の仔は何を探しているのだろうか、眠そうに甘えてくる。それをそっと抱え込み、リェイはひとつ大きな欠伸をしてから、抗えぬ欲求に目を閉じた。


 水底に沈んだ泥のように眠ったリェイは、次の日の昼近くに、竜の仔の鳴く声で起こされた。生き物としての姿か達は違うが、何となくわかる、空腹を訴えているようだ。リュークの時と同じだなあなどと思いながら自分の服の裾を捲ろうとして、はっと目が覚めた。竜が母乳を飲んだなどという話は聞いたことがないし、この小さな赤ん坊が喰らっていたのは肉だ。相当寝惚けていたらしい。

 吊るしておいた鹿肉の残りを下ろして竜の仔に与えている間、森の中の少し開けた場所にリェイは罠を仕掛けた。その付近に細かく隆起している大樹サーディアナールの根を掘り起こし、わざと剥いて晒しておくと、根を齧る魔物達は面白いくらいに集まってくる。その付近に、地面に作用する符を仕込んで、リェイしか引き上げることの出来ない落とし穴を掘るのだ。退治人達を取り纏めている組合の連中に何か言われるだろうが、今は色々とどうでもよい気分だった。 その癖に、竜の仔はしっかり保護して手当てしている自分が不思議だ。罠を掛け終わった時に、リェイは自分の中に存在している矛盾をはっきりと意識した。英雄伝説に登場する尊い生き物だから救ったのか、と一瞬思ったりもしたが、どうもしっくりこない。

 小屋へ戻って、鹿の大腿骨を齧りながら絨毯の上でうとうとしているその生き物を見つめる。穴が開いたままの天井から差し込んでくる陽の光の下で、リェイの気配を感じ取って顔を上げたその姿が、何かと重なって見えた。

「ヴィオ」

 思わず口からその名前が飛び出した。仔竜は首を傾げて、喉から甘えるような音を出し、三本の足でよろよろと立ち上がる。危なっかしい小さな身体を慌てて支え、リェイは苦笑した、自分に向かって。

「……いや、違う、ごめんね、クレリアだけが知っているあなたの名前がある筈だ」

 疑うことを知らぬ金色の美しい双眸がこちらを見つめている。摺り寄ってくる頭を撫で、首を撫で、転がろうとして失敗した身体をそっと仰向けに寝かせ、骨を齧らせながら腹を撫でた。森でよく見る蜥蜴達と同じように、尾の付け根に性器を内包している膨らみがあるから、きっと雄だ。

 どこかの誰かに似ている、と思って、少し可笑しくなった。その人間よりもずっと小さなこの生き物は、リェイのことを一体何だと思っているのだろう。

「私はあなたのかあさまじゃないぞ」

 竜の仔はリェイをじっと見上げてくる。音に反応しているだけなのだろうと思えるが、わかっている、とでも言いたげな目だ。

「でも、よければ、人からの名前の贈り物をしたいな、あなたを呼べないのは不便だ」

 英雄は己が半身である竜と言葉を交わした、という話が残っている。ゴルドがそんな絵を描いていて、家の扉の裏に貼っていた光景が、リェイの記憶の底から蘇ってきた……竜と人が互いの視線を合わせて口を開いている、そんな場面で、竜は英雄に向かってこのように言うのだ……クレリアと分かち合ひた己が名を、そなたが去りし時まで預けん、と。

 互いに名を預け合った彼らの別れは死という形だった。だが、自分の場合はちょっと違うだろう、とリェイは思うのだ。いずれ新しい世界ばかりを見つめて、自分に背を向けて去っていくに違いない、その愛らしい命。胎に種を蒔かれて産み、その子が少し大きくなればまた、若木の名を持った息子と同じように、自分は手放すのだろうか。

「シシルス」

 言った瞬間、人の子の名前として夫から預かったものをうっかり差し出した己に、リェイは驚いた。しかも、こともあろうに、竜は一声啼いて返事をしてみせたのだ。

「……まあ、いいか」

 母からの贈り物が乳であれば、父からの贈り物は名だ。それは滅多なことがない限り変えることの出来ないものであったが、被るくらいは些末事、気にしないのが一番だ。そう考えて、リェイは独りで勝手に頷いておくことにした。

 その時はまだ自覚がなかった。

 小屋に帰ってきた日から一月経って、意味もなく襲い来る強烈な眠気と戦いながら大量の魔物の肉を調達する為の罠を弄っている時に、リェイはふと気付くのだ。最近、下着を血で濡らしていない、と。ぼんやりと数えれば、紅月の日と呼ばれる胎からの出血期間が、一回分なかったことにされている。そして、この眠気には心当たりがあった。

 リュークを胎に宿していた時期も、このような眠気に負けて、ヴィオに色々と任せていた記憶がある。まさか、と思った。

「……名前が被る?」

 まだ性別などわからない、とは思ったが、リェイは樹上の二人に向けて手紙を書こう、と決心して、いつも紋を描いている筆を取った。ヴィオからの手紙は五通ほど、ハヴィルの手で小屋に届けられてきている。内容はリュークのことばかりだが、時々、会いたい、という言葉が混じっていた。一番新しいものには、樹下への訪問が六月一日に許可された、と書いてある。夫と息子は家族が増えることを喜んでくれるだろうか。シシルスという名が被るかもしれないことを許してくれるだろうか。二人を驚かせたくて、妊娠したことや予定外の家族が増えたことは書かなかったが、紙一枚に収めようとして書き上がった手紙は、いつもより字が小さく、文章が多くなった。

 その日から、リェイは沢山の野菜の葉の部分と、肉の脂身の少ない部分を中心に、食事をすることにした。酸味の多いレムナスの実を添えるとちょうどいい塩梅だ。来る日も来る日も眠くて狩りどころではなかったが、日が出ている間は何とか動くことが出来た。罠は上手く機能しているし、誰も気付かずに荒らされることもない。竜の仔も自分もしっかり食べることが出来るし、組合にも定期的に納品することが出来ていた――運搬はハヴィル頼みだったが。

 自分の身体に気を使って動くことが増えた。リュークの時は小屋にヴィオがいたから色々なことを任せて切り抜けたが、今回は独りである上に、養わなければいけない存在も増えている。いつの間にか、生まれてくるかもしれない己の子と一緒に、正体の分からぬ動物も育てていこう、と決めていた自分がいたことに驚いた。そしてリェイは、自分が驚いたことを誰かに言いたくなった。

「不思議なものだな、そう思わないか、ハヴィル」

「全く、お前は拾ってくるのが得意だな、ヴィオの時といい、今といい……おれにはわかっていたさ、前からそうじゃねえか。で、これは何だ?」

 翼のある蜥蜴の存在と、リェイの身体に起こった変化は、すぐにハヴィルの知るところとなった。小屋の入り口の段に腰掛けながら、竜の仔だろう、とリェイが言えば、小屋の外の小さな空き地で竜の仔を見下ろして眺めていたハヴィルは、半信半疑ながらも頷くのだ。保護してから一月で竜の仔はあっという間に大きくなり、この小屋に迷い込んできた時の二倍の大きさになっていた。鉤爪や牙も少しずつ長くなっていて、翼もよく伸びている。成長に合わせてリェイは翼を固定している粘土を三回ほど取り換えていた。もうそろそろ取ってもいいかもしれない。

「環の子供が歌ってる詩の通りなんだな、角に、翼に、鱗……つーか、シシルス、って、ヴィオから預かった名前だろう、お前の腹の子も男だったらどうするんだ?」

「……ん、何であなたがそれを知っているんだ、ハヴィル?」

「ヴィオから聞いた、お前がもし忘れていたら思い出させろ、ってな」

 鋭さを帯びてきた顔を大きな客人の男に近付けて、シシルスは一生懸命その匂いを嗅いでいた。その頭を撫でながら、ハヴィルはそんなことを言う。自分の与り知らぬところでそんな会話が為されていたのだ。軽く溜め息をつくと同時に、どうしようもない何かが喉の奥までせり上がってきて、リェイは思わず言葉をぽろりと零した。

「忘れるわけがないだろう、全く、ヴィオは……女の子だったらアリエンだ」

「それは俺も思った……安心しろ、まずは自分と息子のことを心配しろ、って言っておいたからな……まあ、竜と同じ名前だったら、それはそれで名誉かもしれねえな、樹上の連中が騒ぎそうだが」

「名誉か、ならいいや」

 樹下でも樹上でも変わりなく、英雄と同列か、それよりも上位の存在として語られるのが竜だ。リェイが言うと、ハヴィルは噴き出した。

「言い訳にするつもりだろう、リェイ、お前にしては考えなしだったな……しかし、でかしたな、リュークに続いて二人目ときた! やっぱりお前は樹下の希望だ……どうする、頃合いを見て環の施術院に行くのか?」

「ああ、臨月には施術院へ入ろうと思って、金策の為に罠の数を増やして、上手くいっているから、大丈夫だ……それにしても、樹下の希望って、大袈裟じゃないか、ハヴィル?」

 樹下の希望とまで言わしめる何かに心当たりがない。リェイが首を傾げると、親友は足元から身体を登ってくる竜の仔を捕まえてあっちこっちへ振り回す。そして、まるで子供みたいにぐるぐる回りながら、愉快そうに笑った。

「大袈裟なもんか、お前が上に行きやすくなるかもしれないだろう、おれの親友達がもっと幸せになるんだ、嬉しいじゃないか」

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