5

 ただの不機嫌な父の独り言として流そうとしていたリュークは、返事があったことに驚いて、思わずあたりを見回した。すぐに目に留まるのは優しく微笑む女性の姿だ……母よりもずっと年上で、ゴルドのように、白髪交じりの褐色の長い癖毛を一つに結っている。

「リェイが言っていたのはあなた達ね」

「あなたは?」

 父が問うと、セザンナとはまた違う顔で、彼女はにっこりと笑った。

「私はドーサ、施術院で、リェイの専属の付き人をやっていたの。ちょっとくらいなら、ここも案内出来るわよ」

 リュークは後ろを振り返って、自分達を案内する為についてきている筈だったもう一人のことを考えながら言った。

「……セザンナはどこにいるか、知っているの?」

「さあ、別の所を通っているんじゃないかしら。流石に床の上を這っていくのは、淡水氏の女の子達には重労働よ……そうだ、先に言っておくけれど、リェイはここには戻ってこないわよ」

「どうして?」

 ドーサはにっこりしたまま、リュークと父の肩を優しく叩いた。

「見届ける、っていう使命がある、って、言っていたわ。その代わりに、あなた達が絶対に会ってみたくなるような子が来ているのよ。案内するから、行きましょう」

 広間の灯りは符を入れたランプ、足元と壁は石。サーディアナールの中にどうしてこのような空間が存在するのだろう、と、凄まじい大股で歩いていくドーサの後ろを歩きながらリュークは思う。会ってみたくなるような子というのは一体誰だろう。ひょっとしたら、と思うと、それまで覚えていた疲れもどこかへ消えていった。それは父も同じようで、小走りになるリュークに並んで、速度を落とさずに歩いている。父は後できっと、足が痛い、と泣き言を口にするだろう。

 永遠に続くのではないかと思えた道は、ランプの光が別の色と混じっていることに気付いた瞬間、終わりを迎えた。

「シシルス?」

 高い、高い扉が開いている。そこから光が差し込んでいた。

 それを浴びて、群衆や騎獣がひしめき合う中に、大きな影が見える。リュークは囁いた。

 それはきちんと聞こえていたらしかった。轟くのは唸り声、振り返るのは長い首。まだ小さかった頃に見た双角は自分の手の長さくらいしかなかったことを、リュークは覚えている。その脚は広間の柱にも並ぶ程の太さ、鉤爪は父の身長よりもずっと長く、広げた翼は屋根よりも巨大にして強力な筋肉を纏う。

 金色の双眸と、視線が合った。ずしり、と響いたのは足音。長い尾がゆらゆらと揺れたかと思えば、巨大な竜は後ろ足で立ち上がり、広間じゅうに咆哮を轟かせた。

 耳を劈く歓びの声に重なるのは地響き。

 リュークは思わず耳を塞いだ。同じような格好になっている父が何かを言ったが、何も聞き取れず、訊き返したところで全く意味がなかった。よくわからないことを怒鳴り合って、周囲に集まっていた人々が歪んだ表情で何事かを叫んでいるが、何もわからない。

 ようやっと轟が収まった時、その巨体のどこかから、小さな女の子の声が聞こえてきた。

「まって! いや! やめてよ、シシルス! おちちゃう、おちちゃう!」

「アリエン?」

 大きな声を出したのは父だ。シシルスがその場に伏せた。

 まるで森のような背のどこかで、何かがもぞもぞと動いている。尖った鱗の隙間から小さな赤い塊がぴょこりと出る。それは小動物のように用心深くつるりんと滑り、竜の背を駆け、首の棘を一本ずつ数えながら近付いてきた。双角の作る門を、まるで家から出発するように抜けて、だんだんと人の姿として見えてきた生き物が、顎を床につけた竜の鼻先から、ぴょんと床に飛び降りる。

 それはさながら元気に跳ねる玉。母そっくりの赤い髪には美しい赤の花飾りが一輪刺さっている。翠の色をした胴着には、エルフィマーレン族と、火のような赤い色の模様が入っていた。

「もしかして、とうさま、にいさま? はじめまして?」

 幼子は首を傾げ、高く澄んだ声で問うた。二人は動けなかった。

「ドーサがね、いったの。もうすぐ、もうすぐね、って」

「――もうすぐ」

 リュークは言われたことをそのまま口に出していた。その場に膝をつくと、少し遠くにいたその小さな女の子は、無邪気な表情のまま、近くまで駆け寄ってくる。樹下を離れた時の自分と同じくらいの年頃だろうか、と、何となく思った。

「にいさま? おなまえは? わたしね、アリエン。アリエンちゃん、っていうの」

「……僕は、僕は、リューク」

 リュークはどうしてか泣きたくなった。込み上げてきたものを止める方法なんて何も知らなかった。気が付いたら視界が滲んで、目の前にいる妹を力一杯抱き締めていた。

「……僕はリュークだよ、君の……君の、アリエンの、にいさまだよ」

「にいさま、いたい、いたいの? フェーレス、フェーレス、いたいの、もっていってあげてください。にいさまのいたいの」

 にいさま、にいさま、と、自分よりも小さな存在が呼んでくれることが嬉しかった。疲れ切ってびしょ濡れのまま、リュークは妹の名を呼ぶ。そこに大きな温もりが被さってきて、父の声で、アリエン、と囁いた。リュークと同じように涙に濡れて、服はびしょ濡れで、見えてはいないけれど足は痛みで震えているに違いない。酷い有様で格好がつかない姿だけれど、それを嫌だとは思わなかった。

「とうさま? とうさまも、いたい、いたいの? ないているの、いたいの?」

「痛くないよ……大丈夫だよ、アリエン」

 かあさまがね、と、二人分の腕に抱き締められながら、アリエンが訴えかけてくる。リュークは柔らかな頬の感触から離れて、妹の目を覗き込んだ――母と同じ不思議な蒼い色。

「かあさまがね、いたいいたい、ちがうのに、なくの。つよくおなりなさい、って、いうの」

「つよくおなりなさい……」

 顔を上げた父が呟く。そして、何かに気付いて、指差した。

「子守歌……」

「――伝説」

 リュークは、はっとした。目の前に、母の手紙が言っていた石碑が佇んでいる。そこには、ちぎれて読めなかった母の手紙に途中まであった文章が刻まれている筈だ。

 父がアリエンを抱き上げる。リュークは真っ先に石碑に向かって駆けた。シシルスが地響きを立てて三歩、思ったよりも小さかった黒い石の塊。

 読めない。

「すまないね、放り出しちゃって。私は床を歩いて行けないから、水の道を通って、ここであなた達を待っていた」

 セザンナの声が上から聞こえた。見上げると、随分高い柱の上から、エルフィマーレン族淡水氏の歌姫が手を振っている。鰓が閉じたり開いたりしているのが辛うじて目視出来る距離だ。リュークは彼女に向かって、大声で叫んだ。

「セザンナ、降りてこられる?」

「私は無理だ。でも、そこに書いてある文章の内容なら、全部読める……その前に」

 一本、芯の通った美しい声が響き渡る。何事か、という顔をした人々がこちらを見ていて、中には近寄ってくる者までいた。

「その前に?」

「ヴィオライト、そこのお花ちゃんに、子守歌を一つ歌ってやってくれ」

「――私が?」

 父が驚いて大声を出す。セザンナは微笑んだ。アリエンも声を上げる。

「とうさま、おうた、うたうの?」

「そうだ。よく通ったいい声だ……世界の終わりを司る夜に相応しい。宵の空の名に誓え」

 リュークは父を見つめた。父は腕に抱いていたアリエンを床に下ろして立たせ、少しの間だけ瞼を閉じて、そうして、夜の色をした双眸で再び世界を見つめ、口を開いた――

  ――枝に抱かれ眠る我が大樹のいとけなし子

  あなたはその内に小さな炎を秘めて夢に遊び

  やがて荒れた大地を滅びの御手から救うでしょう

  つよくおなりなさい

  フェーレスの愛が世界の揺り籠を撫でる優しい夜は

  クレリアの囁きが木の葉の奏でる歌となって

  数多の祝福をあなたに与えてくださいます――

 ヴィオライト・シルダの声は、深く、柔らかく、ゆっくりと空を覆う闇のよう。

 その時、何か、昇降機が動く時のそれに似ている音が、どこかで鳴ったような気がした。

「ありがとう、世界を覆う宵の空」

 見れば、セザンナが顔を出していた柱が、まるで花のように開いている。歌姫はその壮麗なる舞台の上で美しい身体を全て晒していて、それから腕を拡げ、大きく息を吸った――

  ――挫けそうなあなたの傍に私はいます そして共に隣人と手を繋ぎましょう

  さあ 美しい世界を歌いましょう 祈りましょう

  あなたは世界 世界はあなた

  私は世界 世界は私――

「みて、にいさま」

 アリエンが石碑を指差す。その先を見て、リュークは息を呑んだ――

  ――炎の精霊王ヴァグールの御名において我らが叡智の道を切り拓き給えや

  水の精霊王セザーニアの御名において我らが生命の雫を天より灌ぎ給えや

  風の精霊王フェーレスの御名において我らが翼を友に授け給えや

  大地の精霊王クレリアの御名において我らが道に恵みをもたらし給えや

  光の精霊王ステーリアの御名において我らが希望の未来を示し給えや

  常闇の精霊王ラフィムの御名において我らが永遠の眠りを受け止め給えや――

 石碑が、眩い多彩色の光を放っている。父が息を呑むのも聞こえた。

 歌姫の独唱に、竜の鼻歌が重なる。二つは重なり合い、光はそれに合わせて踊る――ちらりと見やった妹の胴着の模様は、光となって沢山浮いている何かの形と同じだ。

  ――水と土が番いて生まれた始まりの地 竜の楽園

  数多の骸と営みの果てに 歌を覚えた者は理想郷へと変えた

  麗しき天蓋と蒼を貫く塔を抱きし白亜の城

  失われし大陸の恵みを蒐集せんとする堅牢な要塞

  竜を食らいた英雄の名に集いた 受け継がれし全ての記憶よ

  刹那の恩寵を紡いだ先 見果てぬ夢を抱いて

  新たな友とゆけ いざ飛翔せよ 蒼穹の向こうへ

  クレリアと分かち合ひた己が名を そなたが去りし時まで預けん

  かの願いを抱いて生まれし数多の命を抱くはサーディアナール

  古の名の継承者たる追憶の都よ いのちのゆりかごたる大樹となりて

  滅びの跡に芽吹きし大樹に託した子らに遺す 愛の祝詞を

  陸と出会いし海の一族の導きを受けて

  迎えん 今 結願の時

  炎よ 全て灰に還せ

  翠よ 灰より芽吹け

  宵に生まれた小さな種火は新芽を抱く

  新たなる時代よ 黎明に 碧翠の命で大地を満たせや――

「にいさま、にいさま」

 光の中で、アリエンが呼んでいる。リュークは妹の小さな手をしっかり握った。離してなるものかと思った、自分よりもか弱い命を――セザンナの呼び掛けが聞こえる中で。

「私と同じように歌って、皆――」

 優しい声に導かれながら、リュークは感じていた、身体の中で渦巻く熱が、懐かしくて愛しい何かを呼び覚ますのを。そして、同じ気持ちの者はその場に何人もいたようだ。彼らは皆、弾かれたように顔を上げた。

「人よ、聴け、之は宿命、世界の理。大樹サーディアナールが為、古の盟約の為、我らが〈烈火の魔女〉の描きし願いを発動させよ……皆、唱和せよ」

 我が声に続けや。歌姫の声が、朗、と響き渡った。

 喉を振るわせ、父の声が石碑の前で一番に響き渡った。リュークもそれに続いた。自分の中から解き放たれた土の力は、溢れ出して止まらない――床に亀裂が走った、そこからは次々と芽が吹き出し、やがて茎や枝を伸ばし、あっというまに翠の光で埋め尽くされていく。その中を花弁が舞っているのが見える――精霊王に捧げる祝詞が、十や百を超えて、千を超えて、集った人々全てを包み込んで、どこまでも、どこまでも、広がっていく。

  ――炎の精霊王ヴァグールの御名において我らが叡智の道を切り拓き給えや

  水の精霊王セザーニアの御名において我らが生命の雫を天より灌ぎ給えや

  風の精霊王フェーレスの御名において我らが翼を友に授け給えや

  大地の精霊王クレリアの御名において我らが道に恵みをもたらし給えや

  光の精霊王ステーリアの御名において我らが希望の未来を示し給えや

  常闇の精霊王ラフィムの御名において我らが永遠の眠りを受け止め給えや――

 誰もが知っている伝説を、穏やかで希望溢れる旋律と共に、その場に集った全ての者が、老いも若きも、小さな子供も唱和する。誰かが違う旋律を歌い始めて、それは和声を生んだ。言葉を発せぬものが、そこに鼻歌で追従した。別の誰かは詩を忘れ、伸びやかで美しい高音を重ねた。見果てぬ夢を抱いて、蒼穹の向こうへ飛び立つ騎獣も共に、吠えた。

 シシルスの咆哮で祝詞は完成した。。

 陸と出会いし海の一族の導きを受け、サーディアナールは今、結願の時を迎える。

 六つの光の柱が明滅し、その全てが、言葉無き祝詞を解き放つ。

 虹色の奔流が扉の内側で迸り、全てがその渦の中に呑み込まれた。誰も立っていられない程の激しい揺れが何度も広間を揺らし、そのはずみで広間の扉は滑って、僅かに隙間を開け、殆ど閉じてしまった。悲鳴が木霊する中、よろけた拍子に、誰かの力強い腕にぎゅっと抱き締められたことだけが、辛うじてわかった。

 揺れが収まった時、リュークはアリエンと一緒に父の腕の中にいた。

「無事か、リューク、アリエン」

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