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「預言は本当だったわ……人魚の歌姫が伝説の唱和を先導する時、サーディアナールは炎に包まれる。私にも聴こえたの、歌えるわ……炎よ、全て灰に還せ、翠よ、灰より芽吹け」

 初めてこの竜の巫女と呼ばれる人を見た時はこんな言葉遣いではなかった、とリュークは思う。その時は何か別の生き物のように見えていた顔は、今は父と話すただの〈人〉のようだ。はっとした表情を見せ、自分が何を言おうとしたのか思い出して首を振る彼女を竜の巫女と呼ぶのは、もう間違いなのかもしれない。

「ううん、それはいいの、後で考えるわ……ヴィオ、エイデルを知らない? 貴方に会うって言って突然出ていったきり、見ていないの」

「エイデルなら、あそこの中にいます……私を捕らえに来たようだったのですが、どうやら錯乱していたようで……トリニエライト殿に後ろから」

 ファイスリニーエの顔が険しくなった。金の双眸が細められ、その中にある縦の瞳孔も一緒に収縮する。その声は竜の鱗を思わせる硬さを帯びた。

「……そのトリニエは、どこに?」

「わかりません……私の息子が恩寵を得た時には窓の外に躍り出ていましたが、その後は」

 父は首を振って項垂れた。ファイスリニーエは暫し魔獣の蠢く空を睥睨した後、何かを決めたように頷いてから口を開く。

「いいわ、エイデルだけでも」

 そうして、少しだけ枝の上を歩いた後に、三人は牢の扉を開けた。父と自分が出ていく前と違って、落ちてしまった翼の位置が変わっている。ファイスリニーエが小さく悲鳴を上げ、次いで啜り泣きが聞こえ始める……父がそれを振り返って少し悲しそうな顔をしたから、彼女とエイデルライトは仲が良かったのだろう、とリュークは思った。

「……エイデルさま?」

 リュークは中に向かって呼び掛けた。返事はない。意識がないのだろうか、それなら引っ張り出さなければいけない、と思って、中に入った。

 エイデルライトの姿はどこにも見当たらなかった。

「……どこに行っちゃったんだろう、エイデルさま」

「あの状態だ、落ちているわけでないなら、まだ近くにいると思う――」

 焦って大声を出したリュークを宥めるように父は言う。牢の外に出て辺りを見回した。あの翼は片方だけでも非常に目立つ筈だが、視界の中には見当たらない。

 そうして放たれるのはファイスリニーエの声。

「……私、近くと下を探してみるわ。あなた達は行って」

 振り返ると、彼女は潤んだ目を腕で拭い、顔を上げた。金の双眸に宿るのは竜の強い光。真っ先にそれを咎めたのは父だった。

「ファイスリニーエ様を置いていくことなど出来ません、お考え直しを――」

「私はエイデルを探したいの……サーディアナールは滅ぶわ、私はもう、巫女じゃなくなる。でも、あなた達と違って、私は飛べるわ……飛べるの、エイデルに教えて貰ったから」

「そのように仰られても、あなたは尊き御身――」

 ファイスリニーエは父の口に掌を被せた。

「お願い、好きにさせて。それとも、命令よ、って言ったらあなたはわかるかしら、ヴィオ?」

 父は唇を引き結ぶ。釈然としない表情だ。だけど、リュークはそれでいいと思う。だから、父の短い羽織の袖を引っ張った。

「行こう、とうさま」

 ありがとう、とファイスリニーエが言って、リュークに向かって微笑んだ。それに頷いた後、ふわりと頭の中に降ってきたことを、そのまま口に出す。

「ひとつだけ、また会うって僕と約束して、リーネさま」

 巨大な竜翼が広げられる。美しく成熟した女の肢体を勇壮に彩るのは、最早何の象徴でもなくなりつつある、ただ力強く飛翔する為の純粋なものだ。リュークはそれに見惚れた。竜の巫女はその任から解き放たれ、両脚をばねに、翠眩しき大樹の淵に舞い上がった。

「また必ず会いましょう、リューク・シルダ」


 頭を振って水滴を払い、くしゃみをした瞬間だ。むっつりと不機嫌な顔が目の前にぬっと現れて、リュークは思わず仰け反った。

「おん、リェイの小娘にそっくりだな、そこの坊主」

 二人を見るなり、彼は開口一番に母の名前を出した。

 長い、長い管を、水と一緒に第一段目のすぐ下にある環の中央広場まで滑り降りて、びしょ濡れになったリュークと父を出迎えたのは、両の腕がない男だった。かなりいい歳のようで、短く切り揃えられた髪は既に半分ほど白い。腕がない代わりかどうかはわからないが、脚は非常に筋肉質だ。

「これで最後かね? 人が住んでいる一番高いところは第十五段目だ、そこに残ったのがまだ下に避難してくる、と、引き揚げ小屋の所へ寄ってくれた騎士様から聞いたがね……それはそうと、坊主、リェイの子だな。おれにはわかるぞ」

「はい、リューク、です。十五段目は、多分、僕達で終わり」

 リュークは頷きながら答えた。目の前の人の傍でぶらぶら揺れているのは恩寵がもたらすサーディアナールの蔓だ、人を助けるそれが自分の為だけに寄ってきたわけではないことは何となくわかる。両腕はなくとも種を宿した人であるのなら、第二の試練で何かあったのだろう……ということが想像できた。男は、自分の名前をゴルドだ、と言った。いつか聞いたことのある名前だった。

「そうか、リュークか。若木だ。小娘の子供らしい名前だな。皆がもういねえなら、おれもそろそろ下へ行くか……その前にちと手伝ってくれんかね、そこの兄さんも」

 どうして今、とは考えたが、リュークはゴルドの不思議な迫力に、絶対に今この人についていかなければならない、と思った。兄さん、と呼ばれた父は、色々と納得がいかない且つ焦ったような表情をしながらも、後ろからゆっくりついてくる。

「さっきリェイと会ったぞ」

「――かあさまと?」

 ゴルドはちらりとリュークを振り返って頷いた。三人が進んでいくのは第一段目に向かう細い階段の上だ、昇降機の引き揚げ小屋がすぐ向こうに見える。柵は存在せず、手摺りしか掴まるもののない恐ろしいところを、彼はしっかりとした足取りで危なげなくひょいひょいと昇りながら喋るのだ。

「おう、二回ぐらいな。最初はでっけえ竜の背中にいた。二回目は、なんか奇妙な、騎獣じゃない奴の背中に、耳の尖った変な人間と一緒に乗っていたな」

「イェーリュフだ」

 リュークは母から貰った手紙を思い出した。耳が尖っている人、エルフィネレリア、バルキーズ大陸の西の端へようこそ、人が住める所が、徐々に砂に飲み込まれて消えてしまう、止める為に協力して欲しい、サーディアナールを燃やさなければいけない。

 ゴルドは鼻を鳴らして、小屋の引き戸を開けた。到着したのだ。

「けったいな名前だな、なんだそりゃ」

「サーディアナールのずっと西から来たって……それよりも、ゴルドさん。かあさまは、何か言っていた?」

 中にさっさと入っていったゴルドの足がゆらゆらと揺れている。招き入れてくれているのだろう、それに従って中に入れば、ずらりと並んでいたのは沢山の絵。

 竜も、人も、枝葉も、騎獣も、鳥も虫も蜘蛛も、何もかも。そこは楽園だった。

「符を貼っているとか何とか言っていたな。おれも貰った」

 ゴルドはすぐそこにいた。彼は、リュークと父が部屋に収まるや否や、流れるような動作で入口の戸に向かい、戸板の裏に尖った木の破片で留めていた紙を一枚、足の指を使って綺麗に取って、無造作に渡してきた。

「持って行けや」

「……かあさま?」

 そこには、母の横顔と、それに向き合う竜の顔が描かれていた。多彩色の絵具が肌を彩り、調和を生み、母は竜を見つめている。知性を宿した金色の目がそれを静かに見つめ返していた。竜の口も、母の口も、僅かに開いている……この絵の中には会話が存在していた。

「竜は後から描き足した。ちょっとずるかもしれんが、まあ、誰も構わんな。いいだろう、おれの傑作だ。燃えるのは勿体ないと思って、な……坊主にやる」

「……いいの?」

「おれはここにあるものを全部持って行けねえからな。まあ、また絵は描けるさ」

 ゴルドは笑った。寂しそうだとリュークは思った。

 その傍で父が一歩踏み出すのが見えた。

「なら、私が協力する、持って行こう――」

「兄ちゃん、あんた、右脚が悪いだろう。しかもちょっと痛めている。おれにはわかるぞ、脚なら詳しいからな。無理はするもんじゃねえ」

「何も私だけがやるとは言っていないさ……伝説のように受け継がなければいけないものは沢山ある、それは私だけが知っていればいいことではない」

 父は指を口に差し込んで、鋭い音を何度か出した。入口の近くに生えている枝の上に、沢山降り立ったのは尾白鳥。シンター紙とハルスメリのインクはないか、とゴルドに尋ね、足の指で差し出された道具を受け取り、物凄い速度で何かを走り書く。あっという間に十枚の紙が十羽の尾白鳥の脚に括られて、何かを言いつけられた小鳥達は一斉に飛び立ち、散った。

「しかし、えらく難しいことを言うな、兄ちゃん、いいとこの人か?」

「まあね」

 程なくして現れた十騎の騎獣が、父の指示を受けて、ゴルドとゴルドの絵を全て回収して樹下へ降りて行った。たった一枚だけ、母が託していったという紙だけが残った。そこには、リュークが写した符よりも複雑な模様が描かれている。クレリアと竜を象った意匠は中央に、その周囲で円環を描く美しい曲線、直線、蔦、森で見たような生き物達、枝葉。それを取り囲むのは、まるで花が開く瞬間を写し取ったかのような文字。

「なくなっちゃったね」

 色鮮やかな美しい楽園は消えてしまった。リュークがそう言うと、父も、うん、と頷く。

「下へ行っただけだけれどね」

 小屋から出て、振り仰いだ大樹は未だ翠。魔獣の大群は見えない。どこかでまだ誰かが戦っているのだろうか。樹下の人々は避難を終えただろうか。

「終わったな?」

 と、開け放たれた小屋の窓のすぐ傍にある穴から張りのある女の声がした。見れば、セザンナがそこから顔を出している。

「セザンナ。こんなところにもあるんだね、管」

「どこにだってある……ふうん、ゴルドの絵も持って行ったのか。それはいいことだ、ここに何があったのか、ちゃんと残るから」

 歌姫は二人に向かって微笑む。その時、薄くて折れやすいものが捲れる音がして、また小さな紙が風を切って飛んでくる。リュークはそれが胸にぶつかる前に上手くそれを捕まえた。暴れるのを指で引っ張って押さえ、それでも踊る文字を、父に向かって読み上げる。

  ――準備が整った。いつでもいい。発動には皆の力が必要だ、皆で詠んでくれ――

「碑文か。下に降りるんだ、二人とも。ここの管から行ける、私が案内しよう」

 セザンナはそう言って、思いの外強い力でリュークと父を貯水穴の中へ引っ張り込んだ。

 その直後に、臓腑が浮いた気がした。乾きかけていた背中が濡れて、尻が濡れて、下着も濡れた。リュークの前には誰もいない。水流とセザーニアの加護を受けて、三人は下へ下へと滑っていった――父の悲鳴は後ろから聞こえてくる――目が回る――それは永遠に続くような気がして――

 水と一緒に吐き出されたのは巨大な広間の片隅だった。

 咳き込みながら立ち上がって、辺りを見回す。靴の中に水がたっぷり入って気持ち悪かった。向こう側が見えない程の広さのこの空間は、誰がどうやって作ったのだろう、と思った……しかし、すぐそこに人がいて、靴を脱いでひっくり返しているリュークを指差し、水と一緒に吐き出されてきた、滑ってきた、としきりに隣の人へ訴えかけていた。どうやら驚かせてしまったらしい。彼らは避難してきたのだろうか、手押し車が傍にあり、床に布を敷いて、その上に様々なものを広げている。

「……碑文? どこにあるの?」

 靴の中に水がたっぷり入ったまま不機嫌そうに悪態をついた父を振り返り、リュークは訊く。父は首を振って、さあ、と言った。

「私だってここに来たのは初めてだ」

 二人はびしょ濡れになったことについて悪態をつきながら、並んで歩いた。

 母はどこにいるのだろう、妹はどこにいるのだろう、シシルスはどこにいるのだろう。これからどうなるのだろう。皆で詠んでくれ、とはどういう意味なのだろう。子守歌と伝説は繋がっていたのかもしれないとリュークが言うと、それは私も予想している、と父は言った。沢山のことを話した。わからないことも話した。二人とも、人を数えるのは最初の百人くらいで諦めた。

 進んでも進んでも出口が見えない広間には、思ったよりも人が沢山いて、ひたすら歩いていく二人を見つめていた。壁には沢山の階段がついていて、全て、柵のついた大きな広場が中空にせり出している。それはまるで、樹下の森で見た襞の多い茸のようだ。上からも話声が降ってくるから、そこにも人が沢山いるのだろう。

 一刻経って、二刻経って、三刻経って、ずっと歩き続けて、リュークも父も疲れていた。足が痛かった。父が、むっつりと黙った後にこう漏らすのも仕方ないと思えた。

「……出口はどこだ」

「こっちだよ」

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