3

 一瞬の後に繰り出されるは槍。咄嗟に上げた左手から飛び出す枝が盾を組んだ。その隙間にねじ込まれる切っ先が掌に傷をつけて、血が吹き出す。痛みは感じない。引いて返す腕でトリニエライトはリュークの首を打とうとした。ばらけた盾が穂先に巻き付いて勢いを殺し、砕け散る。ぶれた先端をしゃがんで避ければ、眼前に迫る長い柄――吐き出される息は近く、それでも傷はなく。

 背中から風の誘いを受けた。リュークはそれに跳んで応えた。

 自死する気かつまらぬ、という大声が聞こえた――その後に父が自分の名を呼ぶ声も。

 揺らめく昼間の砂漠のような色をした自分の髪が、ふわりと風に靡く。太陽が朝の刻を穿つ金の光の中において、足元は自由だった。細い枝の上で、大樹サーディアナールの恩寵を宿した実が、恋に目覚めた若者の頬のように色付いている。それは、今この瞬間に、若木の名を抱く少年に啄まれるのを待っていた。

 鋼でも骨でもない、鋭い枝が一閃。

 ふわりと浮くのは、サーディアナールの恩寵と呼ばれる果実。それは大きく弧を描いて飛んで、その瞬間に枝を大きく揺らすのは、自らの身体を空に差し出すことを選んだ自分。

「リューク!」

 響く父の声をもう一度聞いた。大樹の実を己の手から出ずる枝で突き刺す。果汁が滴るその裂け目から、親指の爪くらいのものを、自分でも驚くべき速さで掻き出した。

 綺羅星の如き、しかし小さな大樹サーディアナールの種。臓腑が全て反転して落下する中で、それに歯を立てて、リュークは飲み込んだ。

 直後、放たれるのは、朝日よりも眩い光。

 迫り来た誰かが、しまった、と叫ぶのが、風と共に下へ下へ、遠くなっていく。もうそれが誰でもよかった。胸元でセザーニアの加護を受けた鱗が浮く。不思議な熱が身体を駆け回り、力となって、そうして少年は十五の歳を迎えず己の意志で恩寵を識る。あっという間に全身に満ち満ちた温かなそれは蔓を呼んで、リュークは土の気を以てクレリアに応えるべく、生み出した若木を伸ばした、天へ届けと。

 その奇蹟を歓んで、サーディアナールが微笑んだような気がした。


 自分が飛んだ場所からリュークが自分の脚を一歩も踏み出すことなく戻ると、父は窓の傍で呆けていた。意識の戻らないエイデルライトは床に転がされている。

「とうさま」

 蔓をしまって呼び掛ければ、たった今正気を取り戻したかのように、父はぶるぶると首を振った。そしてどこか釈然としない表情を浮かべながら微笑んで、こんなことを言うのだ。

「……ええと、第一の試練突破だ、うん――おめでとう、リューク、史上最年少だ」

「ありがとう、とうさま」

 トリニエライトの姿は見えなかった。サーディアナールの実の中にあった種を飲み込んだ時に声が聞こえたような気がしたけれど、自分の身体を満たしたもので一杯になってしまっていて、それ以上気にすることが出来なかったのだ。窓の下をもう一度覗いても、枝と葉があるばかりで、見えなかった。

 父は立ち上がって、リュークの頭を撫でるわけではなく、肩を優しく叩くのだ。

「……こんな状況じゃなければ、盛大に祝いたいのだけれどね」

「いいよ、それよりも、やらなきゃいけないことがあるでしょう……とうさま」

 エイデルライトはそこに横たわったままだ。今や片翼の聖者となったその人を抱えてどこかへ逃げるのは至難の業だろう。翼があるが故に恩寵を宿さなかった身体が落下すれば、そこにあるのは死だ。

 それに、とリュークは思う。助けなければいけないのは一人だけではない。母の言葉を伝え、広めて、皆を安全な所へ導かなければならなかった。

「かあさまからの手紙には、大樹を欲する獣は碑と砂漠に集う人など見えてはいない、ってあったから……碑って、何か書いてある石のこと?」

「そうだ……そういえば、お前がとうさまに寄越した手紙の中に、かあさまの知っていることが書いてあったね。環の根元に祭祀の為の控えの間があって、奥の扉の向こうに広がっている部屋に、一つの石碑がある。その石碑には沢山の模様が刻まれている……」

 覚えているかい、と父は問うてくる。リュークは頷いた。

「砂漠に逃げるのもいいけれど、間に合わないなら、そこに行って貰うのがいいのかな」

「……どれだけ広いだろう」

「行って、見なきゃ、わからないよね」

 二人は顔を見合わせて頷く。その横で、呻き声が聞こえた。

 エイデルライトが意識を取り戻そうとしている。

「エイデルさま、ごめんなさい……ここにいて、動かないで。絶対に助けに来るから」

 目を薄く開けた彼の額に手を当ててリュークは言った。父の手も、そこに重なる。

 彼は再び目を閉じた。それから、落ちている片翼を跨いで、父と子は外へと踏み出した。


 昇降機に辿り着くまでの間、走ったり跳んだりして枝と枝を行き来する者達から情報を収集していったが、どうやら、大樹は上も下も混乱しているらしかった。

 枝の間から空を探せば、その向こうに蠢くのは空を飛ぶなにがしかの生き物。母はただ大樹サーディアナールを欲しているだけだと手紙で知らせてきたが、気味が悪いことに変わりはない。リュークは無数の黒点を恐ろしく思った――まだ小さい頃に遊んだ記憶のある竜の方は平気なのに。

 上がってきた昇降機から出てきた騎士らしき者と二言三言やりとりをしていた父は、話を終えて、リュークの方へ向かってきた。その表情は硬い。

「根から環の方へ人々を緊急避難させる、という風に、樹下の退治人組合長が出しているらしい……人が増えているようだね。後、退治人が足りていないから、魔獣を防げていない」

「どうしよう。やっぱり、騎獣を連れている人に頼んで、何人か一緒に乗って、砂漠に行って貰った方がいいのかな……とうさまはどう思う?」

 訊けば、父はすぐ傍に貯水穴がある枝に凭れ掛かり、右手の指を何度も素早く腿に打ち付けながら眉を顰めた。

「私もそれは考えたし、一番いいのかもしれない……だが、砂漠での過ごし方なんて誰も知らないだろう。リェイの言う通り、サーディアナールを燃やしてしまうのだとしたら、その後はどうなる? 私は、樹下の森も何もかも消えてしまう気がして仕方がない……皆をどう説得して、如何に素早く、どこへ連れていくのが一番いいのかだ、石碑があるという場所がどれだけ広いかにもよるが――」

「とうさま、濡れるよ」

 リュークは貯水穴から水が漏れているのに気付いて言った。滴が幾つも帯になって幹を濡らし、降りてきている。父はそれを見やることもせず首を振るのみだ。

「こんな事態だからな、漏れていたとしてもおかしくはない。大方、魔獣が齧って――」

「おっと、魔獣扱いはいただけないな、生きて還りし大樹の語り部さん」

 女の声が、突然降ってきた。父は幹から離れ、リュークは身構え、上を見る。そこから突き出していたのは、魚めいた容貌。両側には、耳の代わりに孔と鰭。幹に掛けられている腕には鰭が生え、切れ長の目は金色だ。長い髪は太く、濡れて首に貼りつき、その両側には鰓が四本ずつ、傷のように走っている。大きな目が瞬きをする度にぬるりと動くのは瞬膜。

 彼女は鋭い歯を剥き出して威嚇してみせてから、にっこりした。

「また会ったね、坊や」

「――おねえさん、淡水氏の、歌姫の」

 リュークは胸元で揺れる鱗を握り締めた。父がそれに気付いて、服の中に仕舞っていた何かを取り出す――そこにも鱗。隙間からしか見たことのない空よりも青く美しい色。

「セザンナ」

「覚えていてくれて嬉しいよ……坊やの持っている鱗が見えたから、声を掛けたのさ。今日はとうさまと一緒か? こういうのを見ると、私もそろそろ番いが欲しくなるな」

 セザンナは愉快そうに大きく口を開け、牙を見せて笑った。相変わらずよく響く声が大樹の木の葉を突き刺して、涼やかに力強く二人の身体に響いてくる。

「作って貰える筈だったけれどね」

「作って貰える……?」

「そう、昔の約束だそうだから、今はわからないけれど。ところで、困っているようだね」

「そう……かあさまから知らせが来て、サーディアナールは燃やさなきゃいけないって。だから魔獣がいっぱいで、だから、皆をどこか広くて壊れないような所に――」

 深くなった彼女の微笑みは美しい。そして、それは言外に何かを訴えかけていた。それを見てリュークは思い出し、気が付くのだ。

「……セザンナ、伝説を歌っていたよね。よく歌うの?」

「祭祀の時に、よく歌う。環の下、サーディアナールの中にあるとても大きな広場の、そのもっと奥にある石碑の間でも、生きている人が皆集まったところを想像して、歌う」

「広い……生きている人が皆集まったところを想像出来るくらい……」

「そうだ、広い。よく行くからわかる」

 その時見上げた父の顔は明るかった。リュークは確信する。

「ねえ、知っているよね、これ。陸と出会いし海の一族の導きを受けて――」

 リュークは貯水穴の縁に手を掛けて訴えた。すると、ああ、と感慨深げに、エルフィマーレン族淡水氏の歌姫は溜め息をつくのだ。そうして、その唇が詩を、旋律に乗せて紡ぐ。

  ――陸と出会いし海の一族の導きを受けて

  迎えん 今 結願の時

  炎よ 全て灰に還せ

  翠よ 灰より芽吹け

  宵に生まれた小さな種火は新芽を抱く

  新たなる時代よ 黎明に 碧翠の命で大地を満たせや――

「何だって」

 父が囁いた。結願の時、で終わるのがサーディアナールに受け継がれている伝説であった筈だ、とリュークも思っていた。セザンナはまたにっこりと笑って、最後のくだりを繰り返す。新たなる時代よ、黎明に、碧翠の命で大地を満たせや。

「受け取り申した……エルフィマーレン族淡水氏の歌姫、このセザンナ……今、水の精霊王セザーニアの加護の下に、愛の祝詞の導きとならん」

 不意に、セザンナの身体が蒼く光り輝いた。その眩しさは貯水穴を満たし、そこから溢れ出て幹を伝う滴に移る。その輝きは穴から上へ、下へ、水の通るところへ潜り込み、大樹サーディアナールの内側を駆け抜けた――音よりも、風よりも速く。

 幹に手を当てると、水から木霊する数多の声が、その腕から骨を伝って、リュークの内側で共鳴した。結願の時、結願の時、結願の時。迎えん、今、結願の時。炎よ、全て灰に還せ、還せ、還せ、翠よ、灰より芽吹け、芽吹け。宵に生まれた小さな種火は新芽を抱く、新たなる時代よ、黎明に、碧翠の命で大地を満たせや。リュークも一緒になって歌った。

「――碧翠の命で大地を満たせや」

「リューク?」

「とうさま、聞こえる」

 沢山の笑い声が。それは純粋なる歓びだった。

 先立つのは歌姫が一声、それは〈導け〉と大きく響く。直後に渦巻く水流の音は緑にむせぶ新しい空気の匂いを連れてきて、リュークはその瞬間に理解した、あっという間に樹下の丈夫な場所へ行ける方法を。それは貯水池に繋がっていて、その底は普段閉じられてはいるが、一度開けば人ひとりが楽々通れる管。そこを、エルフィマーレン族淡水氏の女達が、流れや重力などものともせずに、我先にと次々に進んでいく。

 サーディアナールの枝に無数に存在している水の道――天然の避難経路を。

「この中に入るんだよ、とうさま……セザンナが、皆に呼びかけてくれた」

「わかった……でも、その前に、まだ行くところがあるだろう」

 父は断言した。上手く動かない右脚が枝の先へと向いている。翼を片方失ってつり合いが取れない身体を父だけに任せてはいけない、リュークも頷いた。


 何ヶ月も閉じ込められていた場所まで二人で急ぎ戻る途中のことだった、再び、母から短い書き記しが符を背負って一枚だけひらりと飛んで、リュークの胸に貼りついたのは。

  ――子守歌――

「……かあさま?」

「子守歌……」

 字はかなり崩れていたし、文章どころではなく単語ひとつだけだ。しかし、父は何かを思いついたような表情で固まった、リュークが疑問を覚える横で。

「どうしたの、とうさま」

「……いや、ちょっと気になったけれど、後で考えよう」

 父は首を振ってまた慎重に歩き始め、リュークもそれに追従した。天然の牢は先程と同じままそこに佇んでいて、まだ大丈夫だったかと二人は胸を撫で下ろす。

「無事だったのね、ヴィオ」

 と、女の声が、セザンナに再会した時と同じように降ってきた。今度は高くて澄んだ乙女のものだ。足元に人らしくない影が落ちて、二人が見上げれば、そこに大きく広がるのは黒の竜翼。自らの翼で巻き起こす風のせいで、解けた髪が乱れて舞い上がっている。

「ファイスリニーエ様」

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