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「きっとシシルスも一緒だ」
食事を持ってきた者がそれだけを伝えて急いた様子で去った後、父はどこか切羽詰まった様子で言う。リュークも今すぐどこかへ走り出さなければ、という気持ちになっていて、そわそわしながら返事をした。喧騒は、二人が目を覚ました時から第十五段目を包んでいる。騎獣がそこら中を飛び、恩寵を受けた人々が蔓を引っ掴んで枝から枝へ飛ぶように渡っていく音が絶えず聞こえている状態だ。父はまた、静かにしなさい、と、リュークに向かって態度で示した。
「でも、とうさま……手紙には、イェーリュフが魔獣を呼んで軍勢を創った、ってあったけれど、それも誰かが見たのかな。樹下の根の町の人は、大丈夫なのかな……」
「樹下政府が根の町の人々を避難させていた、というのは聞いたね。私がここに来るまでは樹下から定期報告が上がってきていたけれど、今はどうなっているのか」
魔獣が太陽の沈む西から来ているのなら、東へ避難すればいいのだろうけれど、と父は言った。
その翌日だ、たった二行の文章が、符を背負ってリュークの胸元に飛び込んできたのは。
――〈新芽〉は〈花〉を連れて〈種〉と共に大樹を取り囲んだ。
大樹を欲する獣は碑と砂漠に集う人など見えてはいない。後に迎えに行く――
「……僕ととうさまは、皆は、どこへ逃げればいいの?」
西から来るのであれば東に逃げることが出来る、と思っていたリュークは、手紙を読み上げながら恐ろしくなって、思わず大きな声を上げてしまった。なのに、静かにするように、という注意が、今回は飛んでこない。振り返ると、いつもは優しく咎めてくれる筈の父は、愕然とした表情でそこに立ち尽くしていた。
ややあって、父は囁く。
「――行かなければ」
自分の右脚のことも忘れ、そのまま扉へ向かって大股に二歩、父は引き戸を無理矢理開けようとし始めた。部屋中に響き渡るのは外のつっかえ棒が鳴る凄まじい音。リュークがその腰にしがみ付いて止めようとしても、一向にやめようとしない。
「どうしちゃったの、ねえ、とうさま……とうさま?」
「逃げるべき場所はわかった……行かなければ、皆を導かなければ」
父はリュークを優しく振り払う。ヨスティネやエイデルライトとは違うところだ、などということに気付いたりしたが、それよりも、父に逃げる意思がないことの方が問題だった。
「ねえ、その脚で行くの? 危ないよ、嫌だよ、とうさま!」
「離しなさい、とうさまは、ヴィオライト・シルダとして、行かなければならない――」
追い縋ったリュークに、父が大声を出した瞬間だった。
何かが外れる一際大きい音が、がたん、と響く。その直後に扉が外れ、色々なものを巻き添えにして、父諸共リュークは吹っ飛んだ。すぐに起き上がってあたりを見回す――
「ならば、ヴィオライト・シルダとして、来て貰おう……とうさま」
そこに立っていたのは人よりも幅の広い影。逆光に金糸は揺れ、その手の中にある槍の底がこちらを向いている。堂々たる体躯はその背に純白の翼を一対抱いていた。
「――エイデル」
「エイデルさま」
白翼の聖者はリュークに向かって美しく微笑み、挨拶を寄越した。
「お久し振りだ、リューク」
それから彼は、起き上がろうとした父を扉ごと槍で抑え込み、呻き声には愉快そうに笑い声で答えて、部屋の中まで歩を進めてくる。ぐるりと見渡して、ふうん、と鼻で一蹴した。
そして、リュークの傍に落ちている母からの手紙を拾い上げるのだ。
「君のとうさまを貰っていくよ……この紙も一緒にね」
「……エイデルさま」
「いいだろう? ちょうど聞きたいことが沢山あったからね」
口元には柔らかな微笑を浮かべているが、エイデルライトの目は一切笑っていない。何かよくないことが待ち受けているような気がして、リュークは気が付いたら首を振っていた。
「あげない。エイデルさまに紙はあげてもいいけれど、とうさまは、あげられない」
「どうして?」
笑顔のままのエイデルライトが、まるで幼子のように首を傾げる。狂っている、と思った。
「どうして、そういうことを言うのかな。君よりも私の方が、ヴィオと一緒にいた時間が長いのに……どうして、そういうことが言えるのかな?」
それでも、目の前にいるのは、自分の知っているエイデルライトだった。自分を優しく抱き締めてくれた腕や、突き飛ばしながらも撫でてくれた手。優しく細められたかと思えば蔑むように睨みつけてくる、暁の空の色をした双眸。頬に残っている深い怪我の痕のせいで、ころころ変わる表情を追うのは大変だった。リュークは思い出すのだ、彼がいつか自分に向けて語ったことを――私は、生まれてすぐに、家族から離された。教育をしてくれたのは父だが、君の言うことは理解出来ない……私にとってそれが正しいとは考えられない。それは君にとっては不幸なことかもしれないが、私は違う――そして、ただ、悲しいと思うのだ。誰かから言われたことを頑なに抱いてここまで来たことを、可哀そうだとは思わなかった――私は白翼の聖者……大樹サーディアナールの守護を担う盾であり、魔獣を屠る剣……大樹を守り、大樹に害を及ぼすものを全て遠ざけなければならない――ただ、もしかしたらこの人は、父の――ヴィオライトの存在が支えだったのかもしれない、と思うのだ。
それがどうして、こんな風になってしまったのだろう。リュークは口を開いた。
「……エイデルさまは、とうさまが欲しかったの?」
エイデルライトの表情が凍り付いた。美しい笑みは一瞬にして消え、その指がつまんでいた手紙は、はらりと床に落ちる。
「今のは冗談だ。どうして私がこんな、穢れた奴を……面白くなかったのならすまないね。まあ、十段目までが魔獣に囲まれている今の状況が全く面白くないから、仕方ないけれど」
「何だって、エイデル?」
父が、エイデルライトの槍の底を押し返しながら問うた。それを無慈悲に押し込み、父の呻き声を愉しむように嗤ってから、白翼の聖者は歌うように言葉を紡ぐ。
「小さい窓からでも見えるだろうに、まだ確認していないのかな、君達は」
リュークは窓に駆け寄った。エイデルライトの言う通りに外を見てみれば、雲霞の如く集っている小さな翼が視認出来る。何か赤いものがちらちらと揺れる枝の向こうからは、何百騎もの騎獣が次々と飛んで行った。それを呆然と見送りながら、土の精霊王クレリアに向かって聖句を唱える声がどこからか聞こえてくる。樹下はどうなっているのだろう……自分が育った小屋は、一回だけしか泊ったことのないお気に入りの広い宿は、角虫達は、大好きなフラガリアのジュースの店は?
何も言えなかった。リュークは、恐れをなしたサルペンが一頭逃げ帰ってくるのを見た。
「全く、嘆かわしい……こんな大変な時に、時間を無駄にさせないで欲しいね。全く、サーディアナールの七年の加護をとっくに外れているのに、いつまで経っても、とうさま、かあさま。君はどっちも持っているのだから、片方くらい私の遊び道具として分けてくれたっていいだろう……違うかい?」
振り返った先で、エイデルライトは語りながら槍の柄を更に押した。先ほどまで歯を食い縛っていた父が諦めたように力を抜いて、片方の腕がだらりと垂れ下がる。
「君は……そうだね、私は子供を痛めつける趣味はないし、穢れが自ら下に行こうとしているのなら構わない、どこへなりと行けばいい……逃げる場所はそこのとうさまが知っているだろう」
「……エイデルさまは、とうさまをどうするの」
「ちょっと説明を求めるだけだ、すぐに返す――」
続く筈の言葉が途切れた。エイデルライトの身体の影が濃くなり、奇妙に揺れたのだ。
ちょうど左胸と左腕の隙間から突き出されているのは、何の変哲もない、素朴な白い骨の槍。あっ、と思った時には、そこから鮮血が迸っていた。
「穢れを相手に話が長い」
白翼の聖者が放った言葉の数々などまだ温いと感じられるかのような冷たく低い声が床を這う。それと同時に赤く染まった穂先が目にもとまらぬ速さで振り回され、どさり、と音を立てて何かが落ちる――ふらりとよろめいたエイデルライトの身体は、その場に転がった。
白く美しい翼が切り落とされて、真っ赤に染まっている。信じられない、という表情で、父に似て非なるその人は振り返り、震える唇を動かして、囁いた。
「――トリニエライト」
「魔獣の襲来に指揮を執ることもなく、昔の誼を忘れられずこんなところで遊んでいるお前は、聖者には相応しくなかろう……我が息子としても不適切極まりない」
父が扉を撥ね退け、エイデルライトに駆け寄った。その向こうに見える堂々たる体躯は武人のもの、髪は聖者と呼ばれていた者と同じ色。瞳の色は、窓の傍にいるリュークからは遠すぎてわからない。
「翼があるだけの役立たずが驕り高ぶるその心たるや、誠に遺憾」
「――私に向かってそのような口をきくとどうなるかわかっているのか、幾ら父親とて、図が高すぎるぞ、トリニエライト!」
「知るか、どのみちサーディアナールは滅ぶ……ならば、ここにある穢れを少しでも消す」
どくどくと流れ出す血は鮮やかで、あっという間に床を染めていく。エイデルライトの表情も絶望に染まる。血が止まらない、助からないかもしれない、と、いつの間にか止血用の薬剤が入った瓶を持っている父が呟くのが聞こえた。
仕方がない、と思った。この人は樹下で何度もシシルスを襲い、その為に騎士や騎獣を沢山連れて、死体へと変えてしまった。礎などと綺麗な風に言っているだけで、本当はもっと残酷だったのかもしれないと思った。父やリュークには思うところがあったようだったが、それとは別に、ただ火の気を持っているだけの者達を、ただ罪人と呼ばれた者の子孫であるというだけの者達を、穢れであると決めて、命を奪うことさえも厭わなかった樹上の権力者――白翼の聖者。彼には命を奪われる未来が待っていた、それだけだ。
だけれど、それでいいのか、と、リュークの中で誰かが言うのだ。頭の中に蘇るのは、いつか樹下で聞いた、火の気を持つ者達の信念。
「――傷付いた者を見殺しにしないのが、樹下の退治人の掟だ」
それは、いつか母が当たり前のように口にした言葉。リュークは窓際から離れて、歩を進めた。動きを止めた――ひとりは気絶してしまった――三人の前で、唇は自然と聖句を紡ぐ。
「大地の精霊王クレリアの思し召しの下に、この者に癒しを与え給え」
光が奔流となって迸った。教え込まれた術は大地の脈動を伴って、数多の者を傷付け、今傷付いた者に降りかかる。どこからか生えて自分の身体を取り囲んだ枝に生えた葉から、リュークは大樹サーディアナールの微かな脈動を、今再び聞くのだ――細い、とても細い葉脈が、全ての中心へ繋がっていくのがわかる。それを辿っていくと、幹の奥にある何かに行き当たった。
崇高さも、腐食した意志も、ありとあらゆる日常も、何もかも包み込む大地の香り。
それに向かって、力を貸してください、と、心の中で祈った。
「――リューク」
父の顔が驚いているのが見える。自分の腕から蔓が伸びて、エイデルライトの肩に絡み付いた。自分は大樹の声を聴くことが出来る、と言ったのは父だ、リュークはどうしてそんな顔をするのだろう、と不思議に思うのだ。エイデルライトの肩から流れる血が止まり、深い傷があっという間に塞がっていくのが見える。片翼は落とされたままだったが、命は助かっただろう。それでいいと思った。
扉を塞いでいるトリニエライトに、リュークは向き合った。かの人は正気を取り戻し、紅に染まった槍を構え直す。それは自らの子を刺し貫いた穢れで汚れていた。
「サーディアナールは滅びる……今ここで私が、お前が樹上において幸せなうちに、息の根を止めてやろう……素晴らしくも哀れな若木よ。父親の最期を見るのは辛かろう、だから、お前が最初だ」
エイデルライトの父親は、そう言いながら徐々に距離を詰めてくる。リュークは後退りながら、窓の外に見たものを思い出していた。
赤く揺れる小さなものは、大樹サーディアナールの恩寵を宿した実。それは愛も恋も一緒くたにしたような分別のつかぬ色。
己の生み出した蔓で窓枠を無理矢理外し、リュークは迫りくる最期を睨み据えた。
「――じゃあ、僕からも教えてあげる。僕は〈烈火の魔女〉リェイの息子で、先に〈生きて還りし者〉になったヴィオライト・シルダの息子だ」
〈精霊王の思し召しの下に、大樹サーディアナールの恩寵を授け給え〉と、唱えた。
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