6

「……大丈夫だよ、とうさま」

「だいじょうぶ!」

 二人の身体に目立った外傷がないことを確認して、父はその顔に安心した表情を浮かべる。しかし、アリエンはそれとは逆に顔を曇らせた。リュークは何かあったのだろうか、と思って、妹の柔らかい赤毛を撫でた……母に似ている。

「どうしたの、アリエン」

「かあさま」

「……かあさまが、どうかした?」

 首を傾げた瞬間だ。酷く狼狽した囁きが、はっきりと聞こえた。

「リェイ」

「とうさま、どうしたの?」

「リェイが――かあさまが、まだ外にいる」

 宵空色の視線は閉じかけている扉に注がれていた。それは今まさにゆっくりと外の光を追い出そうとしている――リュークは、上手く動かない筈の父の右脚の筋肉が柔らかくしなり、硬い床を力の限り蹴って、全速力で駆けるのを初めて見た。第十五段目の者である証の白い羽織が、背中から舞い上がって、美しく翻る。

「――とうさま!」

 にいさま、と呼んだアリエンの泣き声が、あっという間に遠ざかる――リュークも気が付いたら走り出していた、ただひたすらに間に合えと念じながら、もう殆ど閉まりかけている扉の向こうへ、無理矢理身体を捻じ込んだ――

 全ての群衆を、妹さえも石碑の間に置いて、少年は滅びゆく世界へ駆け込んだ。

 宵の口、巨大な枝が燃えている。第一段目が幹との分かれ目から大きく裂けて、斜めに傾いでいた。浄火の炎が渦となって、サーディアナールの全てを飲み込もうとしている。

 そこかしこで、大樹を齧る魔獣が、まだ焼けていない根や枝、葉、幹、果実に至るまでの全てを齧り、砕き、引きちぎり、喰らって呑み込むのを繰り返している。布やランプ、骨で出来た武器や、おそらく騎獣のものであろう巣、羽毛、ちぎれとんだ翅、毛皮、リュークが今まで見たことのある、ありとあらゆるものがそこら中に落ちたり、積み重なったりしている。美しい刺繍の入った服を着せられた美しい木の人形が、足元でちりちりと焦げていた。

 空を飛ぶ魔獣の死体がそこに落ちているのが見えた。それは渦巻く炎に焼かれて、あっという間に灰になっていく。その熱が熱すぎて、リュークは息を詰まらせた。

「とうさま」

 リュークは大声で父を呼んだ。それらしき影は見えない。

 炎の渦のせいだろうか、強い、強い風が吹いている。父から返答はない。大小、ありとあらゆる大きさになって飛んでいく灰を目で追えば、不思議なことに、それが奇妙に変形していくのが見えた。リュークは母からの手紙を思い出すのだ――凄く気になるものも見付けた。魔獣の死体が砂漠に落ちていて、そこから沢山の新芽が芽吹いている。見たことのないものだ。とても気になっている。しかも、その周りが湿って、土になっていた――

「とうさま」

 もう一度、父を呼んだ。どこかから、リューク、と呼ばれた。

「とうさま、とうさま」

 舞い上がる灰が、炎の渦の中で、どんどん翠の光に変わっていく。それは決して消えることなく宙をふわふわと漂った。その中を、リュークは必死になって叫んだ。

「リューク、リューク」

 どこにいたのだろう。すぐそこで、翠の光に包まれて、父が自分を呼んでいる。その足元で夥しい数の魔獣が息絶えていた――リュークは駆け寄って、その右腕にしがみ付いた。

「とうさま」

「どうして出てきた、リューク」

「どうしてって、とうさま、僕の方がどうして、だよ! その脚でどうして出ていったの?」

 父の腰や胸を叩いたら、物凄い力で、あっという間に腕を捕まえられた。足を使って抵抗しようとすれば、その場に降ろされた。両肩をがっしりと掴まれて、炎の中で、リュークは父の怒りの表情と向き合う。

「お前こそ、火の中で何が出来るんだ――リェイがまだ外にいる――」

「かあさまのことを忘れたの、とうさま? 〈烈火の魔女〉だよ?」

「だが、いいかい、リューク――」

 父の言葉は続かなかった。

 世界が裂けるその悲鳴が全てを飲み込んでいく。近くに何かが落ち、灰と木片が舞って、視界を奪った。炎は全てを滅ぼしていく。リュークは今日、何回ぎゅっと抱き締められただろう。父の腕はとても熱くて、逞しくて、そしてどこか寂しそうに、少しだけ彷徨った。

「君に気持ちだけでも届けば」

 父が囁いた。その首元に光るセザンナの鱗を、大きな手が握る。控えの間の向こうへの道は、もう、世界の残骸と炎によって閉ざされていた。リュークを抱くその人が、ヴィオライト・シルダとして、少し変な聖句を囁いた――セザンナの御名において我が想いを届け給えや、と。それはひょっとしたら、フェーレスに痛みを取り去って欲しい、と頼む時と同じ、ただのおまじないに過ぎなかった。でも、リュークは父が握り込んだ手に自分の手を重ねて、それに続いて、同じ言葉をそっと唱えた。

「セザンナの御名において我が想いを届け給えや」

 誰かが、母の目のような色で、蒼く、美しく、微笑んだ気がした。

 父にも、それが見えたらしい。煤塗れの唇が震えた。

「リェイ」

 その時だった。

 セザンナの鱗が一際眩しい光を放ち、水が渦巻いた。それは驚く二人の目の前でどんどん勢いを増し、道を切り拓く。何がどのような願いを聞き届けたのだろう、何もわからなかったが、その先にいたのは一羽の巨大な鳥の形をした魔獣。

 その背から、母がひらりと飛び降りた。

「リェイ」

 あっという間に立ち上がって叫んだ父は、右脚のことも忘れて両腕を広げた母のところまで跳び、その小柄な身体を力一杯抱き締めた。一度、両親が深い口付けを交わすのを見届けてから、リュークも駆け寄った。母は酷くやつれていたが、リュークを見ると、嬉しそうな、それでいて今にも泣き出しそうな顔をして、力一杯抱き締めてくれた。

「リューク……リューク、大きくなったな」

「かあさま」

 母は声を詰まらせる。リュークはその頬の感触を思い出した。手のしなやかさと強い筋肉の柔らかさも殆ど変わっていなかった。ただ、流れてくる液体の熱さを知るのは初めてだった。

「ずっと……ずっと、会えなくてすまなかった」

「いいんだ、大丈夫だよ……僕にはとうさまがいたし……かあさまはあんまり気に入らないかもしれないけれど、エイデルさまも、ヨスティネもいた」

 リュークは微笑んだ。ヨスティネの足の裏が自分の腹にめり込んだことは忘れていなかったが、それでも、あの女騎士がとても優しかったのもまた、変わらぬ事実だった。

「……優しかったのか?」

「うん、本当だよ」

 母の肩越しに、父が優しく、柔らかく微笑んだのが見えた。

「かあさま……シシルスとアリエンが待っているから、行こうよ」

「そうだな、行こう……炎が消えるまで、少し、環の上にでも行こうか」

 三人は、そこで大人しく従順に待っていた鳥の背に乗った。間違いなく魔獣の証である赤い強膜を持っていたが、その姿は勇壮で、騎獣を除く鳥類の中では最も巨大な嘴黒鳥だ。父が一番前に乗り、そっとその黒い嘴を撫でれば、嘴黒鳥は優しい声で一声啼いて、炎の柱が渦巻く宵闇に向かって飛び立つ。

 その直後だった。

 巨大な大樹サーディアナールの幹に、縦に、亀裂が走った。

 凄まじい音が嘴黒鳥を襲う。三人は宙に投げ出された。

「掴まれ」

 その声を聴いて、咄嗟に、リュークは母の腰に巻かれているベルトと、父の右脚を掴んだ。

 落ちていく中で、母の腕がベルトについている衣嚢を探り、沢山のシンター紙があっという間にばら撒かれる。視界の隅で嘴黒鳥が燃えて、あっという間に灰になっていった。聖句を叫び続ける傍から、符が次々と発光して、風の矢が生まれては下へ向かって消えて、を繰り返した。父が羽織を脱いで、風を受けて、落ちる速度を弱めようとしている。何とかしたい一心で、リュークも唱えた。

「――セザンナ、僕達を助けて」

 首に掛かっている蒼の鱗が光り輝き、三人を包み込む。その下に、風の符が空気の塊を生んだ。母が何十枚もの風の符を掲げているのだ――その顔が絶望に歪む。

「すまない、これで終わりだ」

 落ちる速度が弱まらない。地面と、翠に変わり始めた火の渦が迫ってきている、風と水が生まれ出ずる中で、父の強い腕が母とリュークを固く、固く抱き締めるのがわかった――

「――かあさま、にいさま、とうさま!」

 泣き声が全てを浚っていった。

 その声の主は、竜の手の中にいた、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして。どうやって出てきたのかは見ただけでわかった、身体中から、リュークと同じように――否、それよりもずっと強力で太いと思えた――蔓や枝を生やしていて、それが幾つもの土塊を刺し貫いている。泣く度に、土塊はぼろぼろと炎に向かって落下していった。

 アリエンは、あの固い扉を破ってきたのだ、シシルスと共に。

 切り裂かれたサーディアナールの幹の中から、巨大な光が今、生まれ出る。生きとし生けるもの全ての姿を纏いて微笑むは、宵に蘇りし土の精霊王クレリア。炎に包まれた枝が全て崩れ落ち、その姿を灰に変え、猛き渦に乗って砂漠の上まで覆い尽くしていく。

 その合間に見えた星空が瞬いて、リュークに囁いた。

  ――迎えん 今 結願の時

 父にも、母にも、アリエンにも、シシルスにも、それは聞こえただろうか。

 結願の時、結願の時、結願の時――精霊の囁きが聞こえる。迎えん、迎えん、今。世界を覆い尽くす灰が産声を上げて翠光を放った。ありとあらゆる魔獣が、皆、生きたまま燃え上がり始める。

 そして、響き渡るは一陣の咆哮。生きていたもの達へ捧ぐ別れの言葉は、長く、長く尾を引いた。

 滅びゆく世界に降り立つは数多の夢の如き虹を抱きし黒き姿。未来を掴むその巨大な腕は、今ここで死すべきではない命を三つ掬い取り、花と共に、胸に力強く抱く。生命の雫を受けて発達した体躯。其は、永遠の眠りについた死にゆく死せるもの達の上を、授かった両翼で風を切り裂き、恵みと希望を未来に繋いでいく、強く逞しい、ひとつの種。

 叡智を宿す金の双眸が、炎によって切り拓かれた道を見た。

 その先で、白翼と黒翼が絡まり合って、錐揉みしながら落下していく。

「傷付いた者を助けるのが私達の掟だ、シシルス――」

 行ってくれ。

 母の一言と共に、種は新たなる翠光の導きに乗って、力強く、真っ直ぐに飛んで行った。

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