エピローグ
暁光
十五歳のヴィオが、腹から血をどくどくと流して、目の前に立っている。
親友は、恩寵の種に歯を立てて、貴様は所詮尾白だ、と言いながら見下したように嘲笑った。その右手にあるのは、鋼を鍛えて作られた短剣だ。
それが、いつの間にか自分の翼を切り裂いて、根元から落とした。
避けることが出来なかった。違う、避けることを諦めていた。自分が許されないことをしたのはわかっていた。大好きだったのに、大切にしなかったのだ。小さな子供に言われて気が付いた。大好きだったのに、自分のことに溺れて、見失っていたのだ。
もう取り戻せない溝が広がった。ヴィオは第十五段目の羽織を脱ぎ捨てて、小柄な赤毛の女の手を取り、離れていった。その隣に子供を二人連れて、遠ざかっていった。翼を拡げて溝を越え、追い付こうとしたけれど、右の翼がなくなってしまったから、もう飛ぶことが出来ない。
溝はどんどん拡がっていった。そこから何本もの蔓が生えてきて、自分の脚に、手に、身体に、巻き付いてくる。
ヴィオ、と名前を呼んだ。助けて欲しかった。
けれど、親友は振り返らなかった。
仕方がないと思った。そして、こんな自分が生きているのは間違いだと思った。夢でも現実でもどちらでも一緒だと思った。巻き付く蔓に全身を委ねて、いつまでも、いつまでも、眠っていたいと思った。しかし、それも許されなかったようだ。
眩しい光が差し込んでくる。それは、第十五段目では有り得ない、明るい太陽――
身体中に覚えた違和感で目が覚めた。
どろりと重い上半身を起こそうとすると、鈍い痛みが背中に走る。何かを取り戻さなければいけないような気がして、無理矢理起き上がろうとして、肩の骨のあたりを貫いた激痛に、エイデルライトは悲鳴を上げた。
「エイデル、大丈夫?」
聞き慣れた声がする、自分の身体の右側からだ。
「――ファイスリニーエ様」
何とか頭を動かせば、解けた長い髪を風に流したファイスリニーエがそこにいる。エイデルライトは自分が何をどこまで覚えているのか思い出そうとした。ヴィオライトとその息子のリュークが収容されている牢へ向かったのは確かだ。その後はどうしただろう……もう塞がった筈の頬の傷が酷く痛んだ。
父の声が槍となって自分の翼を切り裂いたような気がする。
「……私の、翼は」
翼はついているのだろうか。問えば、ファイスリニーエの温かい手が、右頬の傷をそっと撫でた。至極優しいその感触に思わず目を細めれば、彼女はどこか申し訳なさそうに微笑む。
「落ち着いて聞いて欲しいの、エイデル」
エイデルライトは右腕を伸ばして、彼女の風に遊ぶ黒髪に触れる。いつもは艶やかで美しい毛束には灰が付着していて、撫でる傍から自分の指を黒く汚していった。白い服も煤けていて、まだらになっている。それなのに、どうしてか、いつも見ていた竜の巫女よりもずっと美しく、魅力的だと感じる自分がいるのだ。
ファイスリニーエの柔らかそうな唇が開く。
「私、あなたを探したわ……見付けたのは第七段目だった」
「……私の、翼は」
「右側は、もうなかったの……左側も、ひどく折れてしまったから、リェイさんに治して貰おうとしたけれど、もう手遅れだし今後の負担になる、って、言われたわ」
「どういうことだ」
エイデルライトは痛みを堪えて無理矢理起き上がり、左側の翼を伸ばそうとした。ある筈の感覚がない。確かにあった筈の背中の重みが、全てなくなっている。
そうして、目の前に広がる光景を見た。
「……サーディアナールは?」
聳え立つ大樹の幹があるはずだ。しかし、あたりを見回しても、その影はない。
「全部燃えて、その灰が芽吹いて、あっという間に森になって、周りの広い砂漠を消したわ……あなたが今見ている世界が、そう」
巫女は言った。
鳥達の鳴き声と、広い、どこまでも広く蒼く澄んだ空から降り注いで来る陽光と、あたり一面に広がる草木、森、緑の草原で、全てが埋め尽くされていた。見渡す限り広いその場所を、居住区の建設について喋りながら歩いていく集団がいた。第十三段目の所属を表す模様の入った羽織を着た者、鋼を鍛えて作られたであろう短刀を腰に差している者、小さなシンター紙の束を腕一杯に抱えた者、金属素材を拾い集めながらなんとか追従している者。別の場所に目を向ければ、年季の入った火使いらしき男が煮炊きの指示を出している。その向こうにある巨大な扉の前で沢山の布を抱えて怒鳴りながら走り回っているのは、怪我人の世話を担っているらしい女だ。
飛べた日々に知ることがなかった空の濃度を、今目の前にして、両脚がびくりと震える。
それはエイデルライトの知らない世界だった。
「……なくなってしまったのか、全て」
「それは、どうだろう」
凛と張る美しい男の声が、エイデルライトの鼓膜を打った。顔を上げれば、かつて友と呼んだ存在が、今は父の顔をして、何か石の塊のようなものの上に腰掛けている。
彼が夢にまで見る程恐れていた筈のヴィオライトは、全く怒ってなどいなかったし、置いていくこともしなかった。それどころか、エイデルライトに向かって微笑んでみせたのだ。
「私達で終わりじゃないよ、エイデル」
その言葉をそっとそこに置いて、宵空色の視線は明るい光の差し込む方へ逸れる。つられてそちらを見れば、夕日よりも赤い長髪をゆったりと流した小柄な女が、落ちてしまった大樹の階段の残骸に凭れて、安心しきった表情で無防備に寝顔を晒していた。その手の中には女と竜の絵がある。すぐ傍には巨大な竜が静かに寝そべっていて、その手前では、幼子が二人、太陽を初めて知った金色の草原の上で戯れている。一人はエイデルライトも知っている、リュークだ。
何もかもが、エイデルライトの記憶の中に存在する幼いヴィオライトの姿そっくりだ、と思った。八歳のその少年は、眠る女と同じ色の髪をゆるく二つに結った幼女の小さな掌を、両手で支えている。二人は一緒に、何事かを懸命に唱えていた。
不意に、ぷにっとした肉付きのよいその手の中から、翠の光がぶわりと放たれる。
それは新芽を形作り、天へ向かって茎を伸ばし、葉を次々とつけて、そうして最後には、温かい炎の色をした蕾を次々と生んだ。ファイスリニーエの目の色と似ている、と思って右隣を見た瞬間、そこにいる彼女の背から黒い竜の翼が消えていることに、彼は気付いた。
「ファイスリニーエ様、御翼が……」
思わず囁くと、彼女はさしたる未練もない風で背中の方を一瞥した。
「枝が刺さって駄目になっちゃったから、切って貰ったの。でもね、何も、巫女じゃなくても、一緒にいられると思うわ。あと、畏まらないで、様もなしで、リーネって呼んで」
そう言って、ファイスリニーエはそっとエイデルライトの右腕を取って、微笑んだ。その向こうで、子供達が目を見開き、口を大きく開けて、歓声を上げている。
「できた、にいさま! できた!」
「すごいぞ、とっても上手だ、アリエン!」
リュークのその横顔が、傍らで泣きそうな顔をして微笑む友とよく似ている、とエイデルライトは心の底から思った。
その宵空色の幼い双眸が、ふと射貫くようにこちらを向いて、視線がぶつかる。
すると、少年は屈託のない真っ直ぐな笑顔を浮かべて、赤毛の幼女の手を取り、彼の名を呼びながら柔らかい草の上を走ってくるのだ。
「エイデルさま!」
牢の上で相対した後でも、彼が両翼を失っても、立ち上がれぬままでも。サーディアナールの上、〈ゆりかご〉で、樹上の民としての掟や伝説を教えていた時と変わらぬその眼差しが、太陽のように眩しい。
「エイデルさま、紹介しますね……妹の、アリエンです」
澄んだ虹彩は母親と同じ、空と水を混ぜた不思議な色。それは、棒切れや煤にまみれてぐちゃぐちゃになったエイデルライトの心を、あっという間に洗い流していく……思わず一筋零れた涙と一緒に。子守歌を歌う美しい声がどこからか聞こえてくる、そこにそっと寄り添うのは低い男の声。その声の温かさがしみて滲む視界の中、種の名を持つ竜の金色の双眸が、優しく細められた。
花弁の名を持つ幼子の顔は、その手の中の蕾と共にほころんで、大きな笑顔を咲かせ、そして明るく高らかに新しい朝を告げた。
「おはようございます、エイデルさま! アリエンです、もうすぐよんさいです!」
了
宵の種火は新芽を抱きて 久遠マリ @barkies
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