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「……何年前の話だ」

「十年前に退治人になった時の話だな……あと、独り者のおれとは違って、今のお前の家には食う奴があと二人もいるだろうが」

 だが、どんどん変わっていく幼馴染を知って尚、ハヴィルはそういう風に言って笑う奴なのだ。リェイは頷いて、微笑んだ。

「そうだな、お願い出来るか」

 笑うハヴィルの右眉が上がった。頼られることを是と認める広い心の証だ。

「おうともよ」

「せめて他の荷物は持つよ、散々獲物やリュークを抱き上げてきたから、それくらいは大丈夫だ」

「確かに、その通りだな……じゃあこれは任せるぞ、リェイ」

「ありがとう、ハヴィル……一度私の家に寄っていこう、近いし、祭りの仕度もある」

「クレリアの加護を、何のこれしきだ」

 リェイはハヴィルの太い腕から雌鹿を受け取り、脚をどうにか肩に引っ掛けて背負った。重いとは感じたが、慣れていないわけではない。自分の体重よりは軽い獲物だ。

 踏み均されて下草の消えた少し固い土の上、人の道となりゆく途上の道を歩いて少し。森の向こうに開けた空気を感じると同時に、雨季に萌え出ずる翠を板の屋根や丸太の壁に纏ってひっそりと佇む小屋が見える。そこの扉から、小さな影が飛び出して、リェイの脚に飛び付いた。

「かあさま!」

 日に日に命の重みを増していく我が子を抱き上げたり背負ったりするのが、今のリェイにとっては、何よりの喜びだ。雌鹿の脚を左腕で引っ張って支えながら、もうまもなく四歳を迎えようとしている息子を右腕で抱え上げた。背と胸にずっしりときたが、慣れている。

「戻ったよ、リューク」

「おかえりなさい、かあさま」

 二人の顔が同じ高さになると、リュークは何かを描いた紙を握ったまま、リェイの首に腕を回してしっかりと抱きついてきた。頬を寄せ、ゆるく波打つ昼間の太陽のような色をした髪の柔らかさに目を細めれば、小屋から出てくるもう一つの影。

「おかえり、リェイ」

 澄んだ、濁りなき美しい声が、男の高さで鼓膜と心を打った。それは波紋を描いてリェイの身体の内に響き渡り、心の中で穏やかに揺れる小さな火をあっという間に燃え上がらせる。

「戻ったよ、ヴィオ」

「とうさまと、おえかき、していたの」

「何を描いたの、リューク?」

「――怪我がないようでよかった、ハヴィルも……狩りは首尾よくいったかな?」

「かあさま、みて、おえかき!」

 一本に編まれた髪は、早足で向かってくるその姿の後ろで勢いよく揺れていて、それはリュークと同じ色。くすんだ緑の胴着には、嘴黒鳥の勇壮な姿と蔦の白い模様。その下には綿布を使ったズボンを穿いて、腰を縛るのは帯。その上から、水と土の紋が細かくも優雅に織られた膝丈の薄手の上着をあっさりと羽織っている。全て、樹下の優秀な染め職人に糸を持ち込んで色糸に仕立てて貰い、それを使ってリェイ自ら仕立てたものだ。

 それがよく似合う夫は今年で十九歳になるという、そのほんの僅かに幼さが残る頬の丸みをつつきたいと思ったが、両手は塞がっているし、視界の殆どは何か渦巻きのような花のような模様で一杯だ――符を描く所を見て自分も、と思ったのだろうか、リュークは父親と一緒に描いたらしい絵をめいっぱいに拡げて、一生懸命見せてくる。

「おみずと、おはな!」

 リェイは微笑んだ。

「成程、お水もお花も上手に描けたね、リューク――ハヴィルの担いでいるのが、私の獲物だ……残念ながら魔獣だけれどね」

「リューク、とうさまのところに来なさい――献上しなくても、食べきる前に腐ってしまいそうなくらいの手柄だ、リェイ、素晴らしいよ――」

「あ! ハヴィルの、もっているの、おおきいの!」

「――リューク、ほら、こっちにおいで、君のかあさまはくたくただからね――とすると、君が担いでいるのは何だい?」

「かあさま、くたくた?」

 ヴィオがリェイの腕からリュークをさらりと引き取る。あっ、と声を上げたものの、リュークは母親の服を掴んでいた手をぱっと離し、父親の腕の中に大人しく収まった。以前同じような状況で尻から落ちて大泣きしたことがあったのをリェイと同じように思い出したのだろう、ハヴィルが苦笑して、それから言った。

「大きいだろう、お前のかあさまが獲ったやつだ――かあさまがくたくたになって、頑張って運んだやつはな、おれの獲物だ、魔獣じゃない」

「これも素晴らしいね、いい毛皮が取れそうな雌鹿だ……運ぶものを交換したのか」

「けがわ、さらさら、きもちいい」

 父の腕の中にいるリュークは、リェイの肩に手を伸ばして雌鹿の毛皮を撫でている。

「お、わかるか、リューク、いい子だな――そういうこった、血抜きは済んでいるらしい、入れるのは中でいいか?」

「いいこ? ぼく、いいこ?」

「助かる、ハヴィル、リェイも」

 負担は消えたが肩は少し寂しい。勝手知ったる風に小屋へ入っていくハヴィルから視線を下げると、自身の右腕の裾、牡鹿の背にある模様によく似たものを刺繍した生地に寄った皺が、糸の弾力でゆっくりと戻っていく。それを名残惜しいと思って見届けながら、リェイは軽く溜め息をついた。

「私は狩り直しだな、もう諦めて罠でもかけるか……幹の連中が煩いだろうな、怪しげな術を使って魔獣は大量に狩る癖に献上物は獲ってこられない、魔女だのなんだの、って」

 ヴィオは鼻を鳴らして皮肉な笑みを見せた。

「どう足掻いたって登れやしない幹と既得権益にしがみついているだけの、自分が愚かだとも気付かないような連中だろう、言わせておけばいいよ……君だって楽をしてもいい筈だ、私が君の代わりに狩りに出られればいいのだけれど」

「きとくけんえきってなあに?」

「リュークには難しいな、もう少し経ったら教えてあげよう――ヴィオ、気にしなくていい、今でも十分助かっているから」

「……私がもう少し自由に動けたのなら」

 ヴィオの視線が落ちた。ズボンの下に添え木と一体化したサンダルを履いている彼の右脚は、膝から下が上手く動かない。どうしても少し引き摺るような歩き方になるし、走ることも出来ない。高いところから落ちて瀕死の重傷を負ったのだ。森の恵みで治療を施し、長引く苦しみに寄り添い、歩く練習に付き合い、疼きを様々な符の開発で和らげ、深い傷を消したのはリェイだったが、僅かに麻痺のようなものが残ってしまった。

「私がもっとちゃんと治してあげられればよかった」

 そう呟けば、俯いていたヴィオの顔が、ぱっと上がる。憤りと哀しみが眉と唇にはっきりと見て取れ、絞り出された声は震えていた。

「そんな、君は最善を尽くしてくれた、責めるつもりでは――」

 リェイは首を振った。

「わかっているよ、ヴィオ、大丈夫」

「……すまない、ありがとう」

「クレリアの加護を……あなたは悪くない、ヴィオライト」

 樹下の人間なら、歩けなくなるどころか、死んでいたような怪我だったのだ。これではまるで幼子を二人抱えているようだ、と少し可笑しく、それでもこうやって触れ合える日々があるのだ、ということをしみじみと思いながら、リェイは右腕を伸ばして、自分よりずっと背の高いヴィオの頬と髪を撫でる。すると、そこに重なってくるのは、柔らかい肉のついた、まだ小さな手。

「とうさま、いたい、いたいの?」

 リュークが悲しそうな顔をしている。

「リューク、大丈夫だよ、もう痛くはない」

 彼と同じ色をした我が子の視線を受け止めて、何かを思い直したように目を細め、苦笑を漏らし、ヴィオは彼自身よりも小さな二人分の手を、己の左手で包み込んだ。

「……これではいけないね」

 そう言って一度伏せられ、己が内に存在する何かを確かめるように逸れた視線を追うと、その先には小屋があった。背負っていた牡鹿を下ろしたらしいハヴィルが、その入り口から出てくる。宵の空のような美しい色をしたヴィオの双眸が、苦みを含んだ優しさを湛えて全てを受け入れようとしているのを、リェイはぼんやりと感じた。

「置いてきたぞ、リェイ、石台の上でよかったよな?」

「そこで正解だ、ありがとう、ハヴィル」

「ハヴィル、ものしり、せいかーい!」

「そうだ、問題なかったみたいだな――ありがとうよ、リューク、お褒めに与り恐悦至極」

 問題も何も、小屋を建てる時に、切り出した石や建材を支えたり運んだり設置したりしたのはハヴィルだ。自分がどのように使うのかを逐一訊いて全てを希望通りに揃えた男がここに住んでいないのも面白い話だ、とリェイは思ったりする、口には出さないが。

「お前、これからまた森に戻るのか?」

「そうだな、罠を仕掛けようかと思って」

「……それでいいのか」

 ハヴィルは鼻を鳴らし、ヴィオと同じ皮肉気な笑みを見せた。夫よりも更に表情が大胆に動くものだから、リェイも苦笑いをするしかない。

「かあさま、いっちゃうの?」

「いいや、リューク、そんなに遠くには行かないよ、すぐ帰ってくるからね――もう仕方がない、サーディアナールの根じゃなくて橙根でも罠の傍に置いておくよ」

「そうだな、橙根なら五日前の腐りかけが俺の家にもあるから譲れるが……」

 リュークとヴィオを間に挟んで、リェイとハヴィルは二人で頷いた。橙根は手軽に手に入れられる上に甘く、餌として最も良い選択だ。と、ハヴィルがリェイの方に屈んできた。それを隠すかのように風が森の木々の枝を揺らし、つられて風の精霊が何体か、声なき笑い声を立てながら、大樹の方へ向かってあちらこちらに寄り道をしながら飛んでいく。

「ところで、今思いついたんだがな、リェイ、提案がある」

「何だ?」

「おれがそれを狩るところを見た奴はいないし、今ここで話を聴いているのはヴィオと、ちびのリュークだけだ」

「ちびじゃないもん」

 ヴィオの腕の中で頬を膨らませたリュークがすかさず主張し、ハヴィルはにやっとした。

「おっと、悪かった、三歳にしては大きいもんな」

「もうすぐ、よんさい、だからね、だっこすきだけど、あるくの」

「そうだな、きっとかあさまより大きくなるぞ、いっぱい食っていっぱい寝るのが仕事だ」

「うん、ハヴィルみたいに、おおきくなる」

 リュークは自分を抱いている腕からするりと抜け出し、あっという間に父親の身体を滑り降りて、小さな両足で下草を力強く踏み、腰に両手を当てて胸を張った。リェイはハヴィルから顔を逸らし、息子に向かって頷く。

「というか、私より大きくなって貰わないと困る、大きいことは強いことにも繋がるからな」

 すぐ傍の木の幹に何かを見つけたリュークが駆け出そうとする。その小さな手を、ヴィオはすかさずしっかり掴み直した。右脚のこともあるので、リェイの代わりに小屋に留まって、肉の解体や皮革の処理作業、料理などをやりながら、ヴィオは何にでも興味を示す好奇心旺盛な子供の世話も同時にこなしている。一年程前はリュークが何でもかんでも嫌だと言い始めて、最近まで眉間の皴と隈が酷かった。だからこそ磨かれて身についた素早い動きで、今度は繋いだ手をあっという間に振り払ったその腕を、がしっと掴んだ。

「こら、森は危ないよ――君は小柄だけれど、十分強いと私は思う」

「つのむし! おおきいのいた!」

「魔獣に襲われるかもしれないから、リューク、ここにいなさい――見た目の問題だ、ヴィオ、初対面で舐めた真似をする連中は何処に行ってもいる、大きい方がいい」

 溜め息をつきながら言ったリェイの前で、リュークは両足をじたばたさせて父親の腕からぶら下がりながら森の奥を指差すのだ。頑張って描いた絵もはらりと落ちたから、それも拾おうとしたが、手が届かない。幼子は思い通りにいかなくて大声を上げた。

「かあさまがいるもん、かあさまはつよいでしょ! おえかき! つのむし!」

「リューク、私は遊んでいるのではないよ――話が進まないな、すまない、ハヴィル、何だって?」

「あのな――」

「おえかき! つのむし!」

 息子の猛攻に、夫婦は揃って首を振りながら溜め息をついた。横ではハヴィルが苦笑いしながらリュークの描いた絵をそっと拾い上げ、丁寧に土埃を払いながら、おれにも家族が出来たらこうなるのかね、などと嘯いている。

「ほら、大事に持っとけよ」

「ハヴィル、ありがと!」

「わかった、リューク、とうさまと行こう、とうさまが一緒だ」

「とうさま、こわいからやだ、かあさまがいい!」

「なんだって」

 衝撃を受けたヴィオの表情を見て、ハヴィルが噴き出した。

「クレリアの加護を、リューク、お礼がちゃんと言えるのは偉いぞ……あれだ、おれと二人でそいつを仕留めたことにしてしまえばいいだろう、と思ったわけだ、代わりに牡鹿の肉を幾らか寄越してくれればいい」

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