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肉というものは、解体時に相応しい手順を踏むと鮮度を保てる。魔獣であろうと牡鹿以外の生き物であろうと、市場に出回っている食肉については、捌き手の腕がものを言うのだ。魔獣退治や狩りを恒常的に行い、自身の手でそれを解体して食料とする樹下の退治人は普段から解体に慣れているのでそういった作業に長けている。そういうわけで、樹上へと運ばれる肉は樹上の捌き手によって解体されるのが常であるが、既に下で解体されたものも上では高級品として流通しており、中でもリェイが手を加えたものはなかなかの高値で取引されるのだ。森の近くに住んでいて、他の退治人達よりも頻繁に狩りを行っているせいだろう、とリェイ本人は思っている。
「一級の職人が加工した肉を貰えると思えば安いもんよ」
とは、人の良い笑顔を浮かべたハヴィルの言である。
ハヴィルに雌鹿を返し、リェイとヴィオはリュークと一緒に角虫を採って、雄を戦わせたり雌と番わせたりして、それを日暮れまで眺めた。世界の全てに対して興味の尽きないリュークだが、角虫を目の前に森の中へ走り出そうとするようなことはなく、ぷにっとした小さな手程もある大きい雄を捕まえてご満悦だった。だからだろうか、いつも家の中であれこれとうるさい父親の言葉も、幼子は素直に聞き入れるのだ。
「リューク、一緒に遊んでくれたのはクレリア様の眷属だから、お祈りをしてお別れをしよう……クレリア様、ありがとうございました」
「クレリアさま、ありがとうございました!」
土の精霊王クレリアへの心をしっかりと受け継がせようとしている所が、如何にも樹上育ちらしいなあ、とリェイは思った。リェイ自身も樹上生まれではあるが、火の力が確認された四歳の終わり頃――今のリュークより少し大きいくらいだろう――に樹下に降ろされた。だから、ヴィオと違って、上にいた時の記憶は殆どない。
ヴィオは降りたのではない。落ちてきたのだ、上から。
リェイが烈火の魔女の渾名をつけられて一年くらい後の乾季、七月の三日目に。
それは、ハヴィルだけでなく、小屋から一番近い大樹の根の町の住民まで盛大に巻き込んだ大手術だった。牡鹿を解体しながら、リェイはその時のことを思い出す。まだ少年だったその身体に刻まれていた無数の傷と、内臓の一歩手前まできていた腹の刺し傷を符の力を使って大急ぎで塞ぐのが、最初の作業だった。それから、血と同じ塩分濃度の塩水を仮死状態の身体に循環させながら、皮を切り、肉を裂かぬように分け、骨を抜く代わりに上手く足の皮の上や肉の中から色々な道具を駆使してあるべき状態に並べ、継ぎ、ありったけの符と己の術力を酷使して筋と肉と神経全てを繋ぎ直したのだ。ハヴィルの人の良さと呼び掛けが功を奏して、近隣の人々は、桶や布や塩水やその他様々な道具を快く手配してくれた。
リェイがやったことは、退治人が献上する獲物に対して行う術だった。狩りによって仕留めた獲物には傷がつき、死んでしまうことによって肉が劣化する。樹下の森から大樹の幹をぐるりと取り囲む環状都市へ到達する間に、献上する獲物が腐ってしまうのは避けたい。そこで、血液を抜きながら生物の体液と同じ濃度の塩水を注入すると、死ぬ手前の腐らない肉体を保つことが出来るのだ。この作業は仕留めてから二刻以内に行わなければいけない。そうやって仮死状態に持ち込み、新鮮なまま生肉を持たせる保管方法は、火の気をその身に宿す退治人達が幾千もの時を費やして編み出したものだ。それを人間に対してやるのは危険かもな、とハヴィルが小声で言った記憶もある。だが、魔獣によって人が死ぬのは退治人の任に就いている者の間では日常で、助かるのであればその為に全力を尽くすのが樹下の人々だ。出自がどうであれ、例外はない。樹上から来たリェイだって何度も助けられたし、どれだけ危険であろうと、可能性がある限り、誰かを助けてきた。
だから、リェイは躊躇いなく実行に移した。それが終わったのは七月五日の朝で、溜め息をついて見上げた空が白み始めていたのを、今でもはっきりと覚えている。
七月の十日。呻き声を上げて目覚めた少年は、リェイが手ずから与えた水を口に含んだ後、掠れた声でこう言った。
「エイデルはどこだ……あいつだ、エイデルライト」
爛々と輝く宵空色の昏い双眸を見たその瞬間、リェイは思ったのだ。
もしかしたら、助けてはいけない人だったのかもしれない、と。
年始の祭祀は十日後に迫っていた。樹下の森の端にあるリェイの小屋は、大樹サーディアナールの根元に存在する環状都市まで、休みなく歩き続けて丸一日掛かる。旅程は最小限の旅装を整えた大人一人分で算出したものだ、今年はリュークとヴィオも一緒だから、更に時間が掛かるだろう。
宿泊のことも考えると二日は見ておいた方がいい、とリェイが牡鹿を解体し終えて腿の肉を吊るしながら言った時、奥の寝床で息子を寝かしつけていたヴィオは、こう返してきた。
「リュークも一緒に行くことになるから、もう少し掛かるかもしれないね」
「何、問題はないだろう……治療用の符は多めに持っていくか」
「ハヴィル一人だったら雌鹿も痛む前に運べるのだろうけれど、大丈夫かな」
寝台に敷いた柔らかい敷布団の上で、すやすやと穏やかな寝息を立てて、リュークは眠っている。脇の小机には拙くも可愛らしい森の動物達の絵と筆が置かれていた。先程まで床をそっと這っていた優しくも穏やかな父の子守歌に誘われて、紙の上に沢山引かれた色とりどりの線が、夢と現の狭間に揺蕩う世界を描き、宵闇に溶けた言の葉達と遊んでいる。
――枝に抱かれ眠る我が大樹のいとけなし子
あなたはその内に小さな炎を秘めて夢に遊び
やがて荒れた大地を滅びの御手から救うでしょう
つよくおなりなさい
フェーレスの愛が世界の揺り籠を撫でる優しい夜は
クレリアの囁きが木の葉の奏でる歌となって
数多の祝福をあなたに与えてくださいます――
衣擦れの音を立てて寝台から滑り降りた夫に向かって、リェイは作業をしながら聞いていた歌の一節を思い出し、微笑んだ。
「ああ、大丈夫だ、私が前に作った符を保管してある箱にこっそり貼ったから、退治人のやり方に加えて、あれも長持ちする筈だ」
土や水、反転した火の紋が複雑に絡み合う、クレリアの力を振り撒く大樹を象った模様。それが描かれた絵画のような符を、保管箱の蓋の裏に貼り付けるだけで良い。箱そのものに組み込むことが出来れば更に効果が見込めるのは何となくわかったが、立体構造を考えるには些か複雑すぎて、今のリェイには想像がつかなかった。
「なら、ゆっくり移動しても間に合いそうだね」
「そうだな……」
全ての作業を終えて、ぐい、と腕を伸ばし、肩や首をゆっくりと回しながら、寝台の柱に凭れてずるりと座布団の上に座る。疲れ切ったリェイのすぐ傍まで、座ったまま膝だけでずるずると移動してきたヴィオが、両腕を伸ばして抱きついてきた。
エイデルはどこだ、と言った少年の面影は跡形もなく消え失せてしまったように思える。
「リェイ」
甘えた声音が耳元を擽り、大人になりきる直前の柔い頬が摺り寄せられた。
リェイは、彼の編まれた薄い色の髪を縛る紐を取り去って、緩んだ毛束を解し、ふわりと広がったその中に手を差し入れる。両の耳の裏を掌で包まれるのが安心するらしく、そうしてやると、ほう、と溜め息が聞こえてきた。
寝台からは、規則的なリュークの寝息。腕の中に抱くのは夫の体温。もしも助けていなかったら、今、胸の内にある確かな充足感は存在していないだろう。まだ二十歳にもなっていないヴィオの頭を撫でてやりながら、リェイは何とはなしに普段言わないことを呟いた。
「いつもありがとう、ヴィオ」
「……君はそんなことを言う人だったかな」
リェイの首に頬を擦り付けながら、言葉足らずなことは知っている、とでも言いたげに、ヴィオはくすくす笑う。リェイも少しだけ笑って、頭をそっと抱き締めてやった。
「こういう時に言っておきたかったから……その機会ももう減るだろうし」
すると、ヴィオは身体を少し離してじっと見つめてくるのだ。
「……必ず、君を正式な妻として、樹上に迎えられるように取り計らおう」
宵の空色の双眸が、大手術の後に目覚めた時と同じように、剣呑な光をぎらりと帯びた。笑みを険しくさせた夫は、樹下に暮らしているただのヴィオではなく、ヴィオライトとして樹上に戻ることとなっていた。これは、一月前に家族揃って樹下の環状都市へ赴いた時に決まったことだ。
リェイはそっと微笑んだ。
「待っている」
「父上の意志を継いで、君達の力を知らしめ、過去の語り部達の警告を絶やさぬようにするのが、私の使命だ……上へ行ったら、私自身が語り部となるから、危険だとみなされるだろうけれどね、こちら側の派閥はここの……樹下の皆の支持を得ているから、迂闊に私を傷付けようとする者はいないだろう……リュークのことも、任せて欲しい、あの子はきっと、大樹サーディアナールの声を聴く優秀な土使いになるから、サーディアナールの恩寵を与えてやりたい」
「……宜しく頼む、ヴィオ」
リェイがそう言えば、ヴィオは首を振ろうとしてやめ、その勢いで首筋に額を擦り付けてきた。符の効果が切れかけているのだろう、入り口の扉のすぐ傍に引っ掛けてある硝子のランプが小さな音を立てながらチカチカと瞬いて、小屋の中で光を踊らせる。
「君と離れたくない」
「すぐに会える」
声が湿っている。
「……ハヴィルには、迷惑を一杯かけた」
「お互い様だ、あまり気にすることはない」
「君にも」
リェイは夫の身体をぎゅっと抱き締めた。自分よりもずっと大きな身体だと思っていたが、幼馴染のハヴィルの体格と比べると、腰はすらりと細いし、胸はとても厚いわけではない。それでも、揺らぐことのない逞しさは、この青年の胸板の内にしっかりと宿っている……先程瞳に顕れた光のように。
エイデルライトとか言う誰かの名前が口から飛び出さないことが、何よりの証拠だ。
「私はあなたと会えてよかった、リュークもいる……それまで私は森の中でずっと一人だと思っていたけれど、皆が私とあなたの為に、水や塩や布を持ってきて協力してくれた、あの時……だから、あなたの治療も上手くいった」
「リェイ」
「感謝している、あなたがいなければ今の私はなかった、ヴィオライト」
リェイは、自分の服に皺が寄って、肌にぴったりと密着したのを感じた。布をきつく握り締められているのだ。ヴィオの硬い指の関節が背中に触れてくる。
「でも、私は君からそれを奪おうとしている」
「けれどね、何も持っていなかった私に全てを与えてくれたのはあなただ、ヴィオ……それに、ついさっき、樹上へ迎えてくれるって言ったじゃないか」
寂しいかもしれない、だけど、元に戻るだけだ、と思うのだ。それは言わずに、リェイは柔らかな頬へそっと口付けた。寂しいかどうかなど経験したことがないからわからなかったし、両親から離されて樹下へ降りてきた四歳の時は周りに何人も大人がいて、過剰だと感じるくらいに沢山面倒を見てくれた。
それも少し過剰だと思って、森の小屋に住むことにしたのはリェイ自身だが。
「……君を寂しがらせたくない」
「寂しいかどうかなんて、独りになってみないとわからないじゃないか……相当自惚れているだろう、ヴィオ」
そうは言ったが、彼が自惚れたって構わないくらいに、この数年間は満たされたものだった。それが愛おしくて、そして少し可笑しくて、リェイはくすくす笑う。すると、不満そうな鼻息を首筋にかけてきたヴィオは、こんなことを呟くのだ。
「……寂しくならないように、私から沢山贈り物をすればいいのか」
「物は間に合っているぞ、今のままで十分だ――」
溜め息をつきながらそう言った瞬間、敷物の上に突然転がされ、そうしてリェイは贈り物が何であるかに気付いた。見上げたヴィオはどこか愉快そうだ、いいことを思い付いたとでも言いたげな笑みが花弁のような唇に浮かんでいる。
「リェイ」
熱に浮かされたような低い囁き声が、左耳から腹に火を付け、頭の中を一杯にした。抗議したいことは沢山あったが、そんなものはあっという間に溶けて消えた。言い表しようのない衝動が、大樹サーディアナールの蜜よりも甘く声に乗って、樹下の木々に燃え広がる炎よりも早く全身へと回っていく。雄の情欲に塗れた表情を見て、この人との子なら何人でも生みたいと思った。そうしてリェイは、ヴィオの贈り物をたっぷりと注いでくるものをいとも簡単に、だが、しっかりと奥へ迎え入れた。
互いの感触を同時に認め合いながら溜め息をついて、見つめ合う。
「寂しくなんかさせない、賑やかにしてあげる、リェイ」
その言葉も行動も身勝手な我儘だということはわかっていたけれど、そんなことはもうどうでもいい。リェイは己を貫く情動に身を任せた。ああ、あの時と同じだ、と思うだけだ。
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