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 大手術から少年が意識を取り戻した七月十日から四日経った満月の日だった、とリェイは記憶している。救った少年もまだ十五歳だったその時、一つしかない寝台を占領しながら、声変わりが済んで大分低くなった喉を震わせ、彼は問うてきたのだ。

「ずっとここに住んでいるのか」

 ちょうど、リェイは符を描いている途中だった。顔を上げて声の方を振り返れば、暗い双眸がじっとこちらを見ている。まるで森の中にいる小動物のようだ。彼は背の後ろにありったけの布や座布団を差し入れて支えとしながらようやっと座っており、その身体の殆どは手当用の布で覆われ、紐で括られていて、何だか料理される前の肉塊を思わせた。尤も、少年を燻製や保存食にしたところで、美味しくはないだろうが。

「つい一年程前からだ、その前は環の端っこにいた」

 リェイが言うと、少年は茫洋とした表情になった。

「……環?」

「環に住んでいるんじゃないのか?」

「環とは、何だ」

「知らないのか、サーディアナールの幹を取り囲んでいる街だ……樹下の森に倒れていたから、そこから来たと思っていたけれど、そういうわけではないのか」

「では、ここは……」

 少年は急に、自分のいる所が一体どこなのかに気付いたようだ。意識を取り戻して何日か経っていたといっても、ずっと臥せって夢と現の間を彷徨っていたのだから仕方あるまい、と思いながら、リェイは頷いた。

「樹下だ、環ではなくて、森の端だけれど」

「樹下の森、だと?」

「死んでもおかしくないくらいの酷い怪我だったし、あなたが倒れていた所からあまり動かさない方がよかったからね、私のこの小屋が運び込むのに一番近かったし、時間もなかったから……そんなに丈夫そうに見えないけれど、見かけによらず身体は強いな」

 少年は不安そうな表情になって、己の手が触れている薄い布団の模様や天蓋のついた寝台の柱、細い丸太の壁に立てかけてある火の紋様入りの布筒、シンターのインクで満たされた沢山の瓶やハルスメリの紙片を大量に纏めて並べて置いた机、ちょうどその前でリェイが座っている椅子などを、首を回して恐る恐る観察している。

「安心して欲しい、私の生活のものと、狩りの道具しかないから」

 そう言って微笑めば、少年の肩の力がふっと抜けて下がった。手触りや模様を確かめるように布団を撫でながら、口を開く。

「そうか……私の身体は、取り立てて強い……というわけではない、きっと恩寵のせいだ」

「へえ、あなたは、樹上人か」

 樹上の犯罪者は定期的に下へ送られて来るが、必ず環状都市を経由して、樹下の収容所に隔離されることとなっている。何か訳あって下に降りてきたのだろうか、と、リェイは不思議に思った。明日も狩りへ行く予定だったからあと何枚か符を描いてしまいたかったが、リェイは筆を置いて椅子の背凭れに肘をつき、頬を支える。

 少年の顔がぱっと上がる、その目と眉間に寄せられたのは怒りだ。

「先に言っておくけれど、私は罪を犯したわけではない、謀られたのだ」

「……まさか、落とされた?」

「エイデルライト、あいつだ」

 成長途中の細くて骨張った手が布団を握って震え、皺を作った。好きで来たわけではなかったのだ、ということは、指の付け根の骨が浮き出て白くなっているから、わかる。リェイは立ち上がって寝台に近寄り、その縁に座って少年と向き合う。固く握りしめられた手に触れれば、びくりと震えた。

 樹下にも、樹上にも、この少年の心に憎しみを抱かせた者がいるのだ。年端もいかぬ子供にこんないたいけな表情をさせてしまうような者が。それに気付いた瞬間、よく知りもしないエイデルライトとかいう名前に腹の底から炎が吹き上がり、耳の奥で鼓動が唸る。

 リェイの声は、独りでに低く震えた。

「それで、こんなに酷い怪我を……どんなやつだ」

「……背中に白い翼がある」

 答えた声は小さかったが、はっきりとしていた。きっと目の前にいるリェイの心の中に宿ったものに気付いたのだろう、顔の中央に刻まれていた若い険しさが、徐々に薄れていく。

「……だが、これは私の問題だ、助けてくれたことには礼を言うが」

 宵空色の双眸が僅かにすぼめられ、まるで何かを見定めるように、少年は首を傾げる。

 リェイは悪態をつく代わりに首を振った。酷い目にあった直後だというのに、彼は自分の状況を把握し、他人の心の動きをしっかりと見ようと努力する余裕を有している……そのことに気付いた瞬間、触れていた手が反転して、リェイの手を宥めるように撫でてきた。

「……まあ、あなたを助けられてよかった、問題を解決したいと願えたようだし」

 自分は冷静ではなくなっていたのだ。リェイはその時、自嘲的な笑いを堪えられなかった。

 その二日後に十七の誕生日を迎えたリェイは、自分の名前と、退治人であることを告げた。

 食べ盛りの成長期真っ只中である少年は、ヴィオライト・シルダ、十五歳だ、と名乗った。彼が徐々に回復してきたのを見計らって、環状都市へ行くことを勧めたのは、更にその五日後の夜のことだ。

「環、とやらか、以前言っていたな……しかし、何故私に勧める?」

「良いところだ、色んな人が助けてくれる、ハヴィルの呼び掛けで、沢山の人が駆けつけて、あなたの怪我を治す手伝いをしてくれた、助かったと聞いて喜んでいたよ」

 すると、ヴィオは不思議そうに首を傾げるのだ。

「それは、とても有り難い話だ……だが、良いところだというのなら、何故リェイは環を離れて、こんな森の中に住んでいる?」

 ちょうど、リェイは机で、ヴィオは寝台の上で食事をしている最中だった。その日食べていたものも思い出せる、胡椒とロウゼルの葉を擦り込んだ兎の肉と根菜をくたくたになるまで珊瑚樹の実と一緒に煮込んだ二日目のスープと、炒ってから水のみで炊いた米だ。治療の為に符を惜しみなく使ったおかげで、少年の腕は匙を持って自分の口に造作もなく運ぶことが出来る程に回復してきていたが、骨が砕けていた右脚はまだ動かしてはいけない。ただ、動けなくても彼は彼で、五日前にリェイが感じた、研ぎ澄まされた知性の欠片を、無自覚に投げつけてくる。

「リェイも沢山助けて貰えたろうに、退治人の仕事も、もっと楽に行えるだろう」

 そして、リェイは嘘をつくのが得手ではない。宵空色の双眸を直視出来ずに絞り出した声は、スープの中に入っていた橙根のように、口の中の色々なところにつっかえた。

「……あれだ、凄く、こう、構ってくるから、息苦しくて、疲れてしまって」

 リェイが符を描き始めてから三年くらい経つ。森に隠されているかもしれない秘密に気付き、その存在に惹かれた、というのもあったが、思えば環状都市から逃げたようなものだった、とも確かに思えるのだ。

 環状都市で付き合いのある人達もそうでない人達も、何かにつけて世話を焼いてくれたハヴィルがリェイの番いに相応しいだろう、などと事あるごとに噂していた。言葉に出せない何かを振り切りたくて、森へ入って独りで小屋を立て、一年が経つ。

「だから、こうして独りでいる方が、気が楽だ」

 苦笑いしたリェイに、首を傾げたまま食事を終えたヴィオは食器を重ねて寝台の隅に置きながら頷き、そして訊いてきた。

「そうか……寂しいとは思わないのか?」

 声は殆ど大人だが、それはあまりにも無垢な問いだった。小屋の入り口には符を貼った硝子のランプが揺れていて、その光を反射する宵の色をした目が、炎の色を帯びて美しく見える。

「うん、どうして?」

「……疲れてしまう、というのが、あるのか」

「私は、四歳の時に樹上から樹下に来たけれど――」

 誰にも言わなかったことが口を衝いて出てきた。後でリェイはその時のことを思い出して考えるのだ、自分の事情など殆ど知らない相手だからこそ、何もかも聴いて欲しかったのかもしれない、と。

「樹上に長いこと居たのなら知っているだろう、五歳になる前に下ろされる子供のこと」

「……退治人は、火の気を持つというな」

 ヴィオが、それだけを遠慮がちに呟いた。リェイは米を平らげ、スープを飲み干してから、言う。

「私がそうだ……でも、不思議とね、辛い記憶が全くないんだ。あんまり覚えていなくて、ぼんやりしているけれど……かあさまもとうさまも、生まれた私が火の気を持っていることを知っても、一杯可愛がってくれたんだろうな、どれだけ辛いことがあっても大丈夫なように、って……今思うと、それで十分だったのかもしれない。だからちょっと、家族ではない人に色々貰い過ぎて、受け取れ切れなかったのかもしれない」

 人というものは不幸なことばかり覚えているものだ、とリェイは思っている。記憶の中には、しょうもない喧嘩、煩わしい噂話、リェイの描いた符が術を発動した後の「得体の知れないものを見た」とでも言いたげな特に興味のない他人の反応ばかりが残っている。そこに両親の姿は影も形もなかった。家族がくれた不定形の思い出と幸福は心の奥底に堆積して、やがて愛として芽吹く目覚めの時を待っていたのかもしれない。

 今にも泣き出しそうな表情をした少年を、再び見た瞬間まで。

「ああ、不器用な私の話なんてするんじゃなかったな、ごめんね」

「……いや、リェイ、君は」

「上にいようと下にいようと、私は不幸なわけじゃないよ」

 手を伸ばしかけたヴィオの右脚がぴくりと震える。左脚は立ち上がる瞬間を夢見て折り曲げられていたが、まだ早い。骨が全て繋がって元通りになるまで、符を貼り続けても、あと三日はかかる。

 代わりにリェイは立ち上がって寝台の所まで歩み、縁に座って食器を取り上げ、少年の肩をそっと押して柔らかな敷布団の上に沈めた。驚いたような表情が天井を向いてから戸惑ったようにこちらを見つめてくる、それがなんだか可笑しくて、そして無性に愛おしくて、思わず微笑む。

「今日はもう休みな、ヴィオ、いっぱい喋ると色々考えることになるから、疲れるだろう」

「……君は」

 布団を握り締めた時は力強いのだろう、と思えた少年の手が、優しくリェイに触れてくる。

「うん?」

「……君は、私を助けた時、大変だっただろう」

 顔を見ればわかる、ヴィオは悔いていた。確かに、大手術は三日間の不寝番という大仕事を生んだ。人から離れて暮らすリェイに、人と触れ合わせる機会を作ってしまった、と彼は感じているのかもしれない。だが、誤解は解いておかなければならなかった。長い髪をあやすように撫で、梳き、頬に掌で触れると、柔らかな肌が心地よさそうに摺り寄ってくる。こんな風に他人に触れたことなどなかったかもしれない、とリェイは思う。

「ただ必死だったから、どう思っていたかなんて、わからないな……でも、こうやって話が出来てよかった、って、思うよ……さあ、まだあなたは回復の途中だから、寝なさい」

 愛撫するリェイの手をそっと捕らえて握り返し、一瞬だけ物欲しげな視線を寄越してから、ヴィオは素直に目を閉じた。

 次の日から、リェイは、ずっと寝台の上にいるヴィオに向かって、森で見た様々なことを話してやった。

 例えば、角虫は夜行性で、水の気をたっぷりと孕んだリラの樹液を吸って生きている。昼間は倒木の中や木の洞に隠れているのだ。もし森の浅いところで隠れて休んでいる角虫を見つけたら、角に長い布の端切れか紐でも結び付けてやって、夜になったら灯りを持って探しに行くと、リラの木が見つかるのだ。角虫が好むリラの樹液は人にとっても甘く美味で、環状都市では高値で取引されている。リラを見付けたらその根元を見るといい、水の気を放出するリラから逃げて土へ潜り込んだ火の気の行き着く先となった竜耳茸の群生地が見つかる。火の気を沢山含んだ竜耳茸は生でも食べることが出来るが、じわりと辛く、熱い。小さく刻んで瓶詰にして、料理の時に使う香辛料として保管しておくのが常だ。これもまた環状都市では好まれている。その他にも、符の材料になるシンターやハルスメリの植生や群生地のことを話したり、簡単な符を発動させてみたりもした。

 少年はよい聴き手であったから、リェイもよい聴き手であろうとした。

 ヴィオの方も、ぽつぽつと樹上での生活を語ってくれた。サーディアナールの恩寵と呼ばれる大樹の実を得る第一の試練と、その後に待ち受けている騎獣と呼ばれる飛行生物の卵を得る第二の試練は、四歳で樹上から降りたリェイが経験することのなかったものだ。第一の試練は十五歳になった少年少女達が成人の儀として行うものらしく、とりわけ特別視されていた。

「その第一の試練の時に、私は落とされた」

 ヴィオがそう言ったことで、目の前で話しているのは少年などではなく、成人である十五歳だということをリェイは理解した。そして、自分の方が二歳年上であるということにもやっと心の底から気付いた。表情が暗い彼に向かって話題を変えようと年齢のことを話題に出してみれば、ヴィオは顔を上げて、こんなことをぽつりと口にした。

「もう十三年も下にいるのか、上のことを覚えている方が珍しいかもしれないな」

 環状都市へ行くことをリェイが勧めた七日後には、患部への符の貼り付けによる治療も一通り済んで、ヴィオは立ち上がることが出来るまでに回復していた。そして、小屋の外に自ら出て、その周りを歩いてみせたのだ。左脚は問題なく曲がり、限界まで曲げることが出来ている。しかし、右脚の動きが鈍いことに、リェイは気が付いていた。

「君は、私の右脚の骨が砕けていたと言ったね」

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