5

 一歩踏み出した瞬間から、ヴィオもそれはわかっていたようだ。歩きながらそう言った彼に、リェイはぼんやりと頷いた。

 小屋の扉の前に膝を抱えて座り、リェイは、ヴィオが右脚を僅かに庇いながらゆっくりと歩を進めるのをじっと眺めていた。振り返った彼の姿に木漏れ日が落ちて、邪魔にならぬようにと一本に編んだ太陽色の腰まで届きそうな長い髪を、翠混じりの光が、斑に彩っている。とても綺麗だと思った。

 リェイの治療は完璧ではなかった。

「ひょっとしたら、私は右脚を切らなければいけない可能性もあったわけだ、違うかい?」

 ヴィオは、右脚を少し引き摺りながらゆっくりと近付いてきて膝を折り、視線を合わせてくる。そんな動作も出来るようになったのか、と思いながら、リェイはまた頷いた。

「なくなっても仕方なかったものなのだろう?」

 彼がズボンの裾を捲ると、傷ひとつない滑らかな脚が剥き出しになった。薄い体毛が届いてくる陽光を反射して、金色の光に縁取られている。まるで光の精霊王ステーリアが寄越した完璧な贈り物のようだった。リェイは、そのしなやかな筋肉を纏った美しい脚が目を背けたくなる程に滅茶苦茶に折れて、血まみれになっていたのを知っている。

「私は君に感謝している」

「うん」

 リェイは俯いた。ステーリアが人に贈り物をした話など、今までに一度も聞いたことがない。目の前にいる自分よりも大柄な年下の男が脚を引き摺って歩いたのが事実であり、結果だった。

「脚だけではない、命まで救ってくれた、腹も腕も背中にも、どこにも傷ひとつない、これは誇るべきことだ、リェイ」

「……うん、走れたら完璧だ」

 顔を上げられないままリェイは頷いた。

「私は治癒師なんかじゃなかったけれど」

「それにしては……いや、そうじゃないのに、君はとてもよくやったと思う、樹上の光の気を宿した治癒師よりも、君は真摯で、死んでもおかしくなかった私を生かしてくれた」

 何か温かいものがリェイの両肩に触れた。見れば、ヴィオの両手だ。

「もう二度と走れなくても?」

「そりゃあ、上にいた時は、それこそ太い枝や細い枝の上を走っていたけれど……走らない選択をすればいい、これから」

 顔を上げると、宵空色の瞳が笑っている。リェイは突然、目の前の少年のかんばせが喜びに溢れ、愛と憐れみを超えた何がしかを以て全てを祝福せんという命の意志の下、燦然と光り輝いていることに、気が付いた。

「……出来るのか」

「ふん、あのくそ尾白野郎のエイデルと違って、私は楽天家だから、問題ないさ……出来るか出来ないかというより、やるだけだ」

 そう言って肩を竦め、皮肉気に笑うヴィオの顔は、それでもどこか晴れやかだった。リェイはそれが眩しくて堪らなかった。視界が滲んでいく。

「命を救ってくれたどころか、こんなに綺麗に戻してくれた」

 手を取られた拍子に涙が流れ落ちて、リェイは驚いた。

「だから、泣かないで、リェイ」

「泣いていない」

 即座に否定したその時、しなやかで細い、若い男の手が目元を拭っていくのがわかった、至極優しい感触で。だから、リェイの中に込み上げてきたものは余計に止まらなくなった。

 見上げたその目は細められていて、少年とは最早言えない大人びた微笑みが、リェイが漏らした嗚咽を、森の奥へと逃がさないようにそっと捕まえた。まるでロウゼルの花弁のように色付く柔らかな唇が頬に触れ、流れる雫を掬い取っていく。

「もしも後悔しているのだったら、教えて欲しい」

「――どうして」

 その時、リェイが返せたのは問いの一言だけだった。

「そうしたら、私が君に教えてあげよう。その後悔はきっと、君が心から私を想ってくれたから生まれたものだ……なぜ生まれたかというと、それは君の心がこの森よりも深くて、クレリアの御心と同じくらいに尊いからだ」

 ヴィオの言葉が全身を震わせ、リェイは自分の腕で自分自身を抱き締めた。それはあなた自身ではないか、と言いたかったが、何にも言葉にならなかった。その後は、ただ驚く程に逞しくて温かい胸に縋って泣くことしか出来なかった。

 同じ日の夜、食事が終わった後だった、寝台を君に返そうとヴィオから言われたのは。

「君はずっと床に布を敷いて眠っていただろう、それではしっかりと疲れは取れない」

「でも、慣れてしまったし、あなたは客人だ」

「……ただの客でいるつもりはないよ」

 首を傾げて困ったように笑うのはヴィオの癖なのかもしれない、とリェイは思うのだ。家族以外の人にも触れられることなんて何度も何度もあったが、目の前の人に抱き締められた時の腕の感触と温もりは鮮烈で、それを思い出すと、視線を合わせられなくなる。

「何かするつもりなのか、その……」

「私にだって何か出来る筈だと思うけれど、何か心当たりはないかい?」

「……思い付かない、また考えておく……しかし、まさかの時のことも考えて、あなたにはまだ寝台を使っていて欲しい、ヴィオ」

 納得がいかないと言いたそうな顔で頷くヴィオは相変わらず寝台の上で食事を取っていたが、もう自分で立つことが出来るので、食べ終わった椀や匙を水場まで持っていった。それから、とっくに食事を終えて符を描いていたリェイのすぐ隣まできて、椅子の背凭れに両手を置いて筆が動くのを暫く観察していた。見られるのは構わないが、後頭部やうなじに鼻息や吐息がしょっちゅうかかってくるのが何とも落ち着かず、リェイは昼間のことを思い出して、腹の底がむずむずした。

 そして、おもむろに彼はこう言うのだ。

「そうだ、木材の扱い方を教えて欲しい、この小屋を建てたのは君だろう」

「また、何で? 樹上にいたのなら木材ぐらいどうにでも出来るんじゃないのか?」

「君のやり方で、だよ……机と椅子を一つずつ作りたいと思って」

 リェイが筆を置いて振り返って訊けば、ヴィオは少し恥ずかしそうに視線を外し、それから、小さい子供がやるように、唇を尖らせた。

「一緒に食事をしたり話したりするのに、ちょっと不便だとは思わないかい?」

 成程、と思うと同時にリェイは疑問を抱いた、こやつはここに留まるつもりなのか、と。

「いや、確かにそうだけれど、ここにずっといるつもりか?」

「駄目なのかい?」

「駄目……いや、駄目ではないけれど、何でまた」

 戸惑うと同時に、自分らしくなく心が高鳴ったのをリェイは自覚した。環状都市にいた頃に、誰かと生活を共にする、ということとは無縁でありたいと望んで、こうやって森まできた筈だ。だが、真正面からヴィオに言われると、それはどうしようもなく心惹かれる提案のように思えた。これがハヴィルだったら、更に森の奥深くへの引っ越しを決意していたかもしれない。

「君の仕事は大量だろう。だから、何か少しでも手伝えないかと思って……私も、君の行動を何となく掴めてきたし」

「……ずっと一人でやってきたから大丈夫だと言ったら?」

「それでも、何か役に立ちたい、そうしたら、余った時間で沢山話せるだろう」

「……話って、私の話は、この間喋ったことが全部みたいなものだ」

「ああ、あれは楽しかったからまた聴きたいな。何だか、あれで全部だ、っていう気がしないし、もっとありそうだ……それに、私の話も聴いて欲しい」

 ヴィオがそう言って微笑むものだから、机と椅子だけではなくて小屋を拡張してもいいかもしれない、などとリェイはふと思った。

「そうしたらここも誰かが訪れた時に寂しい感じはしないだろう」

 だから、リェイはそう言われて、咄嗟に首を振ってしまうのだ。

「別に私は寂しくない、って……これ、この間も言ったじゃないか。あと、大きなお世話だ」

「……でも、私が、君と喋りたい」

「もしかして、あなたが寂しいのか」

 振り返って見上げた先で、ヴィオが何かに気付いたような顔をしていた。何度か瞬きをして、やがて、口を開く。

「……そうかもしれない」

 両肩に自分ではない体温を感じて、リェイは思わず震えた。その宵空色の瞳は真っ直ぐに射抜いてきた……目ではなく、心臓のあたりを。

「君が知りたい」

 囁きが空気を揺らした。ランプの灯りは符の力によって生成されているものだから火影を作ることもなく微動だにしないのだが、リェイの呼吸は違った。

「そう思うのは駄目なことかな」

「……駄目ではないけれど、困る」

「どうして?」

 頬を何かが撫でる。それはヴィオの右手で、思わずリェイは小さく悲鳴を上げた。顔から火が出そうなくらいに、熱い、と感じた。

「……困る」

 首を振れば、くすくすと笑う声が降ってくる。首筋を撫でられた。リェイに向かって屈んでくる身体は間違いなく男のものだ。抵抗することは可能だ、炎の精霊王ヴァグールに向けて聖句を唱えればいい。だが、どうしてか、出来なかった。気付いたらリェイはヴィオに抱き締められていて、その広い背中の向こうにある空の寝台を見ていた。

 身体が少し離れたと思ったら、不思議な色の瞳の中に、自分が映っているのが見えた。

「真っ赤だ、リェイ」

「……見るな、馬鹿」

 聖句が出てこない。いつもの狩りの時は何も考えなくてもすらすらと舌が紡いでいくのに、こんな時に限って、リェイは忘れてしまった。今が狩りの時ではないのをリェイの奥底は理解していた。だから、力の入らない拳でヴィオの胸を叩いた。びくともしない。

「可愛い」

「頼む、やめろ、何を言っているんだ、正気か」

「酷いなあ、褒めたのに」

 囁かれた。今度は耳元だ。吐息が耳朶を撫でて、リェイの身体中の血が沸騰する。弄ばれているようで、それが嫌だと思っていても、暴かれていくのを止めたくない、と、身体のどこかにあるリェイの女の部分が訴えてくる。

「嫌だ」

「どうして?」

「……嫌だ」

「恥ずかしい?」

「やめろ、ヴィオ」

 図星だった。見透かされている。

「さわるな」

「……私の色んな所を手やら符やらで散々触っておいて、君は駄目だって言うのかい?」

「それとこれとは違うだろう、私のは、治療だ……」

 そう言った瞬間、心地好い温もりがするりと離れていく。夜の冷えた空気がすっと身体を包んで、与えられていたものが急に消えてしまった事実に、リェイは思わず顔を上げた。

「そうか」

 触れてはいないけれど、少しでも動けば頬や鼻が当たりそうな距離で、含みのある笑顔がこちらを見つめている。

「これまで独りだっただろうから、あんまりわからなかっただろうけれど、忠告しておくよ、リェイ……君はとても素直で、思っていることがすぐ顔に出るし、そっけないように見えて、色々気にしているし、嘘をつくのが下手だし、恥ずかしいところを見られた人に弱い」

 リェイは朝のことを思い出した。一度は引いた筈だったのに、また顔に熱が集まってくる。声はひとりでに上ずって、高く大きくなった。

「恥ずかしいところ、って、馬鹿じゃないのか、何なんだ」

「人前で泣くとか」

「やめろ」

「普段見せないものを見せてしまってもいいと思える相手になれた、と、私が自惚れてもいいかもしれないね。だから思ったよ、君のことが……もっと、もっと知りたい。君に何かを贈りたいとも、とても思うけれど」

 ランプの光が、ヴィオの双眸にちらついている。まるで炎が灯ったようだ。見つめ合ったまま、顎をそっと捕まえられた。

「君が欲しい」

 リェイは退治人という名の狩人である筈だった。それが今はどうだろう、強い捕食者に出会ってしまった森の獣のように、動くことが出来ない。逃れられない。

「私が、もっと賑やかにしてあげる」

 そんな言葉を口にしたヴィオライトという男はとても自分勝手だ、と思った。だが、腹の底から沸き上がる得体の知れない歓びが洪水のようになって、リェイを満たしていく。

「そんなの、いらない」

 口から噓が飛び出した。ヴィオが笑った。

「下手くそだな」

「うるさい、馬鹿――」

 口付けが全てを浚っていった。

 朝、頬を撫でていった優しい唇の柔らかさが、自分のそれと重なっていた。下唇をそっと咥えられて、リェイの呼吸が止まる。思わず握った手がヴィオの着ている胴着を掴んでいた。そっと顔が離れた時、それを名残惜しいと思うくらいに、リェイは何かを求めていた。

 口元に浮かべていた笑みを消して、ヴィオが口を開く。

「独りもいいかもしれないけれど……それならどうして、君はあんな風に私に触った?」

「ヴィオ」

「寝台の上で、だよ、どうして私に優しくした? どうして私を完璧に治療しようとした?」

 その腕に、いとも簡単に抱き上げられた。悲鳴を上げそうになった瞬間にリェイの背中と膝をしっかり抱えたヴィオは、たった二歩で寝台へと辿り着く。そして、自分の代わりにリェイを仰向けに寝かせるのだ。

「寝台は君も使うべきだ」

「私も、って――」

「勿論私だって使う、こういう風にね」

 少年などではない、自分よりも大きな男が覆い被さってくる。恐怖を覚えて両目を瞑った次の瞬間、離れていった温もりが人ひとりの重みを伴って全身に圧し掛かった。

「リェイ」

 耳元で名前を呼ばれ、リェイは耳の奥から震えて、思わず声を上げた。

「怖くない、君に贈り物をしたいだけだ」

「贈り物って」

 左手にヴィオの右手が絡まってくる。その親指が慈しむようにリェイの肌を撫でた。

「寂しくなくなる贈り物」

「……私は寂しくなんかない」

「君じゃないよ、私だ」

 不自由を残した右脚が、リェイの両足を左右に軽く開かせる。ヴィオの身体の中心にある雄が下腹に押し付けられて、抗いきれぬ欲望を持ち始めているのがわかった。

「馬鹿、自分勝手、最低」

「そうかもしれないけれど、君は後悔しない、私が後悔させないからだ」

「……どうして、そんなに、自信がある意味が、分からない」

「君は嘘が下手だけれど、私は……宵の空の名に誓って、決して嘘をつかない、リェイ」

 リェイにとって、それはあまりにも重く、しかし美しい言葉だった。

 自由な筈の右手が動かない。リェイが絡み合った左手を思わず握れば、同じくらいの力で握り返される。胴着を剥ぎ取られた。未熟で平らな胸が夜の冷たい空気の感触を覚えた瞬間、リェイは自身がもう幼い子供ではないことを思い出した。

「私は君が全力で救った命だ、全力で生きよう、だから君と番う」

 逃れられなかった。ヴィオはリェイの隅から隅までをその宵空色の瞳に全て映し、そして余すところなく愛撫した。半月前は死にかけていた筈なのに、とリェイは思ったが、同時にそれは自分のせいでもあった。治療を施した傷の跡も残らない滑らかで引き締まった腹が、同じところに触れてくる。口付けの回数なんて覚えていない。折れていた脚はしっかりと絡まってきた。その度にリェイは羞恥と喜びの綯交ぜになった顔を隠そうとして失敗し、声を上げた。薄くしっとりと汗を纏い、上気した肩や腕が、何度も自分の脇腹や胸、太腿と密着して、揺すられる。悦びに満たされていくのだ、ということがわかった時は、少し触れられただけでどうにかなりそうになっていて、意地を張るのは無駄だった。やがてヴィオの贈り物が沢山詰まった雄をゆっくりと時間をかけて受け入れた時、リェイは長い、長い溜め息をついて、名前を呼んだ。

「ヴィオ」

 ヴィオは何度もリェイの胎に自身を打ち付け、欲に塗れたのを隠そうともせず、微笑んだ。自分しか知らないその表情を今でも覚えている。子供が生まれるなあ、と思ったことも。

「受け取れ、私からの贈り物だ」

 リェイはヴィオの言う通りにそれを全て受け取った。次の日も、その次の日も。

 それから十の月が流れた次の年の五月、若木の伸びる美しい時期に、リュークは生まれてきた。

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