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 旅とも言えない旅路は順調だった。森から出るとすぐに見えてくるのは、環状都市の端の低いところだ。大樹サーディアナールの根が隆起して、その裂け目や穴が住居や集会所、様々な店舗となっている。根と根の間の大地には道が走って巨大な大通りを形成しており、そこに程近い大きな根の裂け目には、食事処や宿屋が並んでいる。

 人が住める空間を作る時は、必ず裂け目全体を滑らかにして、棘をなくす、というのが樹下での決まりだ。入り口の上などを極限まで薄く削り、そこに様々な獣や木々、花などの透かし彫りを施してあるのは、かなり高級な物件だったりする。よくよく見ると、樹上で作られたらしい耐火用の水魔石がとても細かい粉状に加工されて、何かの液体と混ぜられ、塗られているようだ。

「つるつる! つのむし!」

「つるつるの角虫だ、大きいな」

「おおきい! おおきいと、つよい!」

「強いことはいいことだ、リューク」

 道中立ち寄った大きな裂け目にある清潔で美しい食堂では、リュークはヴィオに肩車をされながらそれを触って、大層喜んだ。

 広い道は段のようなものが多いので、動物に牽かせる車などを速度を付けて走らせる、などということはない。尤も、巨大な根を平らに削って農耕地にし、その上で牛や馬などに農作業の手伝いをさせることはあったが、それは幹のすぐ下に限った話だ。

 献上する獲物が納められた大きな箱を四輪の手押し車に載せ、それを交代で押したり牽いたりする徒歩移動ではあったが、気は楽だった。樹下の森をぐるりと囲んでいるらしい荒野と、その向こうで大地を覆い尽くしている砂漠を行くわけではないからだ。

 誰も踏破したことがなく、その向こうへ行って帰ってきた者などいない、と言われている死の砂漠。それは、森を抜けた場所に存在する荒野を半日かけて歩いた更に向こうに広がっている。その砂漠の向こうに何が待っているのかを知りたくて、リェイも準備を整え、丸一日かけて荒れ地を抜けた後に、少しだけ自分の足で踏んだことがある。その時は、砂に埋もれかけた小さな石ころを拾っただけで恐ろしくなって、戻ってきてしまった。森の中に入った瞬間にとても安心して、腹が鳴ったのをよく覚えている。十四歳の時だった。

 その石ころには模様のようなものが刻まれていた。石で造られたものなどリェイは見たことがなかったが、石ころになる前はもっと大きかったように思える。それを加工して紐を通し、素朴な首飾りに仕立てた。戒めの首飾りを身に着けるようになってから、自分が火の術を使ったり符を使ったりする時に、思考が研ぎ澄まされていく感覚を覚えるようになった。今もリェイの首元で揺れている。

「ねっこ、おおきいねえ、かあさま」

「ああ、私達の家が何個も入りそうだ」

「ねっこのなかで、ねてみたい、ひろいひろい!」

「夕方になったら、根っこの中にある宿屋に入るからね、きっと広いぞ、リューク」

 右脚が少し痛むというヴィオに代わって、今度はリェイがリュークを抱いたり、手を繋いで一緒に歩いたりしながら進んだ。愚図ることなく様々なものに興味を示す三歳児はとても元気で、道行く人に愛敬を振り撒いて笑顔を咲かせている。父と同じ色の髪が、淡い光に反射してきらきら光った。

「リュークは旅に向いているかもしれないな、何でも楽しいだろう、え?」

 ハヴィルはそう言った。だから、リュークも大きく頷くのだ。

「たび、だいすき!」

 きっと本人はよくわかっていないだろうけれど、それでいい、とリェイは思った。ちらりと見た夫の表情も柔らかくて、いずれ近いうちに別れるとしても、幸せなのだ。

 夕方になって、予想していたよりも多くの旅程を稼ぐことが出来た四人は、近くの一番大きな裂け目にある宿屋に入った。牛の肉と野菜がたっぷりの濃いスープに炒めた飯、干した果物などを食べて満腹になった後は、出発時刻を決めてからハヴィルと宿の中で別れて、家族で大きな部屋に入った。

 広い円形の部屋には大きくて丸い敷物が敷かれ、寝台は三つと、とても豪華な仕様だ。厠だけでなく湯浴み場も個室でついていて、最初にリュークとヴィオが、次にリェイが独りでゆっくりと身体を清めた。旅の汚れを洗い落としたリュークは、広い部屋を駆け回ってひとしきりはしゃいだ後、すぐに眠りの舟を漕いで、夢の世界へと旅立った。

「こうなると思った」

 リュークを優しく抱え上げて寝台の上に寝かせ、そっと柔らかな掛け布団を掛けてやりながら、ヴィオは笑った。そして出先であるにも拘らず、夫は戸惑うリェイを当然のように引き寄せ、軽く結った髪をあっという間に解き、寝台に押し倒すのだ。湯浴み場で余計な体毛を剃り落としてつるりと滑る肌同士が密着して、剥かれた布が音を立てる。

「こら、脱がすな――昨日散々贈り物は貰ったぞ、ヴィオ」

「沢山あげる、と言っただろう」

 求められているという悦びと快感に抗えず、リェイはまた沢山の贈り物を受け止めた。

 そうして荒い息が収まった後は何も出来なくて、夫の手で夜着を着せられるに任せた。ヴィオの腕を枕に、身体をすっぽりと包み込んでいる体温の心地好さを感じながらリェイがうとうとしていると、額に当たっている顎がもぞもぞと動くのだ。

「男の子だったらシシルス、女の子だったらアリエン」

「ふうん、種と花弁か……全く、身篭る前からそんなこと」

「でも、君はどうも身篭りやすいみたいだからね。おかげで私はおあずけの期間が長くて、結構持て余しているけれど」

 ヴィオは十九歳の盛りだ。リェイは仕事に打ち込んだり遊んだりして開けた世界を満喫している環状都市の若者達のことを思い、若しかしたら自分は不自由を強いているのではないかと恐ろしくなって、夫の顔を見た。すると、そんなリェイの思考などお見通しだと言わんばかりに、リェイの首に掛かっている石を弄り回していた大きな手が、頬と髪を撫でてくるのだ。

「まあ、でも、最初に欲しいって言い出したのは、私だからね」

 その微笑みにリェイは安心して、ヴィオの腕の中で眠りに落ちた。


 目覚めて起きたら、雲一つない快晴だった。天空に向かって聳え立つ大樹サーディアナールの幹の色は、昨日よりも濃く見える。しっかりと近付いている証拠だ。

 幾重にも折り重なった枝の向こうに隠れて、サーディアナールの天辺を確認することは出来ない。振り仰ぐことも叶わぬその場所に、かつて、到達した者がいるという。騎獣ではなく竜に乗り、樹上も樹下も関係なく、襲い来る数多の火の魔獣を退治したり、追い払ったり、服従させたりしたそうだ。その話は、樹下では英雄伝説として広く伝わっていて、知らない者はいない。今を生きる人々に継がれたそれは、子守歌であったり、紙に書かれた物語であったりした。

 そのような伝説を生んだのは、土の精霊王クレリアが変化した姿だと言われている、美しくも巨大な物言わぬ生き物――大樹サーディアナール。伝説の生まれ出ずる地は、木漏れ日と陰で、果てしなく向こうまで覆われていた。

 その根元、隆起している巨大な根の裂け目に連なる屋台には、すぐに食べられるよう、皮を剥かれた果物が沢山並べられていた。さっぱりと暑い日であるからか、下でよく採れるフィークスや、瑞々しいダマスキ、赤く小さな粒に沢山の種が貼り付いたフラガリア、大きな種が中にあるヴェリコなどの甘い果実を磨り潰して水や炭酸水、酒と混ぜたジュースが、そこらじゅうで売っていた。中には大樹の高所でしか栽培されていない、レヴァンダの花が豊かに香るジュースもあった。そういうものが樹下の屋台にまで出回っているということは、上下の交流が盛んになってきている証拠だろう。

 一行はそこで、それぞれ好きな味のジュースを飲んで楽しく休憩を取った。

「あまくて、おいしいね、かあさま」

 リュークは、リェイが買ってやったフラガリアのジュースの入った木の器を両手で行儀よく抱え、母を見上げて笑うのだ。毛皮や肉でめいっぱい稼いだ金をこういうところで使うのは楽しかった。

 裂け目の天井に透かし彫りはなかったが、そこから蔓が下に向かって垂れ、薄紫の小さな花が沢山咲いていた。蜂が何匹か、ぶうんと音を立てて、脚や体に黄色い花粉を付けながら、一生懸命に蜜を集めている。

「蜂蜜が欲しくなるな、ジュースに入れると美味いぞ、こりゃ」

 レヴァンダのジュースを飲みながら蜂を目で追っていたハヴィルがそんなことを言うから、ヴィオが近くの屋台に並んでいる蜂蜜をねだったのは言うまでもない。子供じゃないんだから、と言いつつ、リェイは蜂蜜をうっかり一瓶どころか三瓶買った。それぞれが全て違う花から採れたものだ。夫は大喜びだった。勿論リュークも声を上げて喜んだ。

 目を凝らせば、環状壁の窓が小さく確認できる。行く先の視界は幹だけになっていて、後ろを向けば、澄んだ青空は遥か遠く、大樹の天蓋の向こう。巨大なクレリアの揺り籠が、光のステーリアの領域を閉じようとしているかのようだ。

 進むにつれて、一行は、よく見知った人々とすれ違うようになった。彼らは、道行く人に笑顔を振り撒くリュークを肩車したヴィオを見て、大きくなったねえ、と微笑むのだ。

「ぼくはさんさい、もうすぐ、よんさい!」

 何歳か、と訊かれれば、リュークは指を三本立てて、大きな声で元気よく答えた。

 もう四年近くも前になるのだ。環状壁に近いここの人々は、リェイがヴィオとの間に出来た子を出産したのを、ちゃんと覚えている。何故なら、破水したリェイを台車に載せ、力一杯牽いて、クレリアの鼻孔と呼ばれる大きな裂け目の中にある施術院まで涙と土まみれになって運んできたのは、他でもないヴィオだったからだ。森の小屋に引き籠る退治人の女への沢山の助けと救援物資をその背中ひとつで呼び、施術院をあっという間に賑やかにした年若き十六歳の夫は、リェイの両手をしっかりと握って出産にも立ち会い、生まれた息子に若木を意味する瑞々しくも力強い名を贈った。


 夕方には、道が消滅し、隆起した根に刻まれた階段が多い地域に差し掛かった。明日には、金属製の足場と壁を有する環状壁に到着するだろう。そこは巨大な環状都市だ、最上部には広場が建設されている。

 宵の迫る紅の光の中、上を見れば、火使い達が金属で作った足場や歯車などが大樹の巨大な幹を上へ這うように取り囲んでいる。それは長く、そして太く、放射状に張り出していた。その近くに細い蔓が見えたのを確認したヴィオが口を開いた。

「蔓が見えるか、リェイ? 見たことはあるかもしれないけれど、あれは落ちようとした人に気付いて、ああやって伸びて、巻き付いて救う……あそこには加護人がいる筈だ、そうだとしたら、もう上と下の路は開かれているのかもしれないね」

 目を少しだけ細めると、リェイにも細い蔓が見えた。頼りなげに見えるそれは、何か大きな意志の下、風にそよぐこともなく大地に向かって緑を精一杯伸ばしている。樹下の森の魔獣の一種であるとされる食人植物の触手のようだ、と思った。

「初めて見た」

「……そうか」

 リェイが答えれば、ヴィオは首を傾げてから、頷いた。

 環状都市は常に建設途中だ。だが、もう既に恩寵の蔓が届くところまで足場が来ており、上への巨大な導線は間もなく開通しようとしているようだ。やがて樹上と樹下の区別も消えていくのかもしれない、などと、リェイはぼんやり思った。

 前日より良い宿屋に入った今日の夜も、当然のように大量の贈り物を押し付けてくる夫の熱意に負けて全てを自らの身体で受け取り、リェイは寝台にぐったりと身を預けた。

 二人が触れ合う前から、リュークは既に夢の中。一度寝付いたら朝まで起きない図太さは、生まれてから一年程夫婦揃って夜泣きに悩まされた頃のことを思うと、有り難いものだ。そういう理由もあり、息子が生まれてから二年間は、リェイの狩りと退治は夜を中心に実行された。暗闇に慣れた魔獣達は強い光を放つ炎を恐れる。母親はいつも寝ているか母乳を与えるかのどちらかで、リュークにとって、相手をしてくれるのは殆どが父親だった。

 そんな夫を今になって精一杯労り、甘やかすくらいが、何だというのだろう。彼の望む限り贈り物を受け取って、寂しくないように、という彼の願いを実現するのが筋というものなのかもしれない……子供が増えて夫が更に多忙を極めて倒れてしまうのは不本意だし、自分もしっかりしなければいけない。そんなことを、リェイは自分の胸元に押し付けられた頭を撫でながら思うのだ。ずっしりと掛かってくる雄の体重を全身で感じながら、自分の体温が指の先から柔らかな肌へ伝わるように、こめかみから側頭部まで、それから、首の後ろへ。

「くすぐったい」

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