種火

1

 かさり、という音に、リェイは素早く顔を上げ、耳を澄ませた。

 下草を鳴らす生き物がそこにいる。踏み入る森の中、鬱蒼と生い茂る植物が地を覆うせいで土の色は見えず、何かを落とそうものなら、あっという間に緑の隙間に転がり込んで紛れて見えなくなってしまう程。しっとりと湿った木の幹の色と露を抱く深緑や翠は、様々な種類の形をとり、大樹に遮られて満足に届かぬ僅かな日の光を争うように求め、見上げる遥か上へと伸びている。

 息を潜めて動かぬこと、暫く。自身の右耳がついている方向で、また草の擦れる音がした。

 枝葉に触れぬよう、そっと頭を動かして、右を見る。樹下の森は暗い。

 しかし、樹上から降りてきて十七年で、リェイの身体は、闇の中に横たわる倒木の高さにも、滑りやすい地衣類にも、大小様々な虫達の体当たりにも慣れた。リェイの目は、多少の暗闇に潜む生き物は何であれ全て、その正体を看破するようになった。蝶、蜘蛛、花潜りなどの小型の虫が立てる音と、蜜鳥、森燕、尾白鳥などの小柄な鳥のそれの違いなどもすぐわかるようになった。

 さっき聴こえた音は、小さな生き物が立てるものではない。

 もっと大きな何かだ、そう考えた瞬間、森の静謐な空気が、ガサガサと騒がしく揺れた。次いで、荒い鼻息と地面を削るような音。

 倒木の向こうに見えるのは、蹄が土を激しく掘る様。草食動物の立派な角が枝の間からちらついた。枝分かれしたそれは、言うなれば森を統べる王者の頭に頂かれる冠。それが傾き、血走った目ごと、頭部が掘り返された土の中に突っ込まれる。

 牡鹿だ。小柄なリェイの身長よりもずっと大きい。

 彼女に気付かずに土の中に顔を突っ込んでひたすら何かを齧る音を立てているそれは、雄々しく勇壮で、美しく思えた……血走った目をしていなければ。瞳の傍に僅かにある真っ赤な強膜は大樹の根を齧る魔獣の証だ。

 そのような生き物は狩らねばならない。

 それが、退治人の掟だ。

 音を立てないように、リェイは腰に巻いた革の帯の衣嚢から、するりと符を出した。樹上や樹下の森では、風の通り道と呼ばれる場所にシンターという木が沢山植生していて、紙自体はその繊維を蒸して成型してから乾かす、という手法で作られている。それをリェイは小さく切って、そこに模様を描くのだ。掌大の符には、風の精霊王フェーレスを表す鋭い矢印が描かれている。

 噎せ返る程に濃密な森の空気を、鼻腔からめいっぱい吸い込む。それは胸のあたりで血と結びつき、リェイの身体の中を駆け回る。符を持つ手に力が入った。

「火精霊の思し召しの下に」

 リェイが囁いた瞬間、牡鹿の耳がぴくりと震えた。しなやかな首が上がり、その黒々とした双眸が此方を射抜いてくる。

「このものに力を与えたまえ」

 符が、燃え上がった。熱は感じない。しなやかな四本脚が跳ねて茂みへと身を躍らせる刹那、矢の形へと変化した土と風の符を、リェイは自ら生み出した炎ごと掴み――

「風精霊の思し召しの下に疾くゆけ」

 ――憐れな獲物が、炎の矢を頸に受けて、下草の上へ、どう、と倒れ伏した。腕を反すなり、リェイは衣嚢を探って纏めた符の束に触れ、染みたインクの跡をなぞり、水の精霊王セザーニアの模様が描かれている一枚を探り当てた。

 「水精霊の思し召しの下にこのものに力を与えたまえ」

 もう、声が響いても構わない。素早く唱えると、その符に描かれた優美な曲線の重なる模様から水が放たれ、毛と皮に広がりかけた炎があっという間に消えた。大量の水蒸気が立ち上り、ものの焼ける匂いが辺りに充満する。逃れようとした沢山の虫達が落ち、ひっくり返ってじたばたともがいた。掌大の黒くて大きな一匹を摘み上げれば、脚を動かして抵抗する。立派な角を額につけた夜行性の角虫の雄だ。すぐ傍の樹木に大きな洞がある、あそこから蒸されて出てきたのだろう。

「ごめんね、苦しかったね」

 リェイは摘んだ角虫に洞のある木の幹を掴ませた。それは暫くその場で足踏みをしてから、くるりと方向転換をして、光のない洞の奥へ尻をもぞもぞ動かしながら潜っていった。

 あたりを見回した。リェイは、落ちている虫達を摘んでは枝や幹の上に置いて、彼らのねぐらへ帰す。魔獣の気配は他にはなく、静謐の中では、リェイ自身が下草や折れた枝を踏む音と、時折思い出したように鳴く鳥の声とが、決して近付くことのない拍子を刻んでいる。

 牡鹿の魔獣は、リェイの掌よりも僅かに大きい範囲を焼いただけの痕を頸に残し、息絶えていた。胴には禍々しくも美しい炎のような紋が渦巻いているが、これは魔獣達に火の精霊の気がある証拠だ――それ故に大樹の下では狩られるべき存在となっている。

 火の気を持った魔獣の毛や皮は、よく燃えた。魔獣を斃すには火が便利だった。しかし、樹下の森に育つ木々の幹は水分を含んで豊かだが、どうしてか乾きやすい。木々の枝葉も魔獣と同じようによく燃えた。その炎が拡がって大樹に被害が及び、自分達のみならず樹上の人々の生活にも支障が出ることを考えると、必要ない火はすぐ消すべきである。故に、炎で奪った命には、すぐに水をかけるのが退治人の掟であった。

「ごめんね」

 立派な角を持った鹿ではあるが、魔獣だ。リェイは溜め息をついて腰から解体用の短刀を抜いた。これはこのまま持ち帰って祭祀の為に献上することの叶わぬ獲物だった。 大樹サーディアナールの守護と豊穣のである精霊王クレリアの祭祀だ、大樹の根を齧るような魔獣は捧げられない。

 だが、元より田畑に出来る土地が乏しく、森を切り開いてもすぐに生命力の強い緑に呑まれてしまうような樹下において、動物達の肉は勿論、角虫や蛾、蜂などの幼虫は貴重な栄養源だ。例え、その身体に浮き出る模様が炎の精霊王ヴァグールを表す文字のような紋が渦巻いていようとも。

 リェイは衣嚢の中から縄を取り出して近くの枝に素早く牡鹿を吊るし――重労働であったがこの程度は慣れっこだ――その身体に温もりがまだあることを確認してから、改めて頸の血管を裂いた。

 水場が欲しかったが、周囲にないことは知っている。リェイはその場で待つことにした。火の気配を感じ取った森の生き物達は暫くこの場所には来ないだろう。衣嚢を探り、何も描いていないシンター紙の符の束と、闇の気を孕む黒褐色の茎と葉を持つハルスメリから抽出して調合したインク、動物達の毛を集めて作った筆を取り出す。

 リェイは土と風の模様を組み合わせ、シンター紙の中央に矢のような形を描いた。何も考えず、何かを気にすることなく、どんな場所でも綺麗な線を描ける。今は膝の上で、可能な限り丁寧に、素早く、鋭く、優雅に、美しく。

 リェイの狩りは、魔獣にしっかりと致命傷は与えられるが、熱で頸動脈についた傷口が接合してしまうので、早急に血抜きをする必要がいつも生じる。火を使わなければよかったのだが、符だけでは威力が心もとない。それに、リェイは小柄だ。火の他にも武器が欲しかった。武器を増やす方法を見付けたのは、魔獣の退治人となって三年程経った十四の頃だ。リェイや樹下の魔獣退治人達と同じ、火の精霊王ヴァグールの気を孕む魔獣と相対したことがきっかけである。

 時間を掛けてようやっと倒した大きな豹の身体の模様は、弾ける火の粉と、種火に似た斑を描いていた。その模様が気に入って、何の気なしに外套の裾に縫い付けて使っていたのだが、以前とは違って外套が驚く程に水を弾き、濡れてもすぐ乾くのである。その年から雨季を快適に過ごせるようになったリェイは、その模様を沢山描いて、何度も何度も実験をしたのだ。リェイ自身も火を操ることの出来る身であったが、様々なものに沢山模様を描くようになってから、自分の力を使わずとも火の力を扱えるようになった。それから、自分の見るものがどんな形をしているのか、前よりも目を凝らして見るようになった。

 葉脈の形、花弁の斑点、昆虫達の翅に浮き出る模様、羽毛が描く複雑な色彩。

 魔獣達の身体には火の粉と種火が必ず宿っている。水の通り道は流麗に、しかし僅かずつ大地を削る。風の通り道で摘んだ葉をばら撒いて、舞い上がる軌跡を何度も何度も見ていた。拾った種を開き、遠い大樹の木漏れ日を眺め、宵には伸びる影を追って。

 符をまともに使えるようになるまで、二年掛かった。

 リェイが興味を覚えたものは全て、樹下の森に点在する様々な場所で手に入れられる。リェイはやがて、大樹サーディアナールの幹をぐるりと取り囲むように鉄と板で組み上げられた環状都市の居住区から離れ、森に入ってすぐの開けた場所に、独りで小さな木の家を建てた。

 そこで、色々な模様を見つけて、沢山の模様を描いた。そうして、出来上がったものを退治人の任務の時に使うようになった。それはやがて小さく、簡単に扱える符の形となった。空いた時間は独りになって、何枚も同じ符を作っておくようになった。紙は風の気を孕んだシンター、インクは闇の黒と水の蒼が混じるハルスメリ、どちらも土の精霊王クレリアの祝福を余すところなく受ける大地より目覚めたもの。

 だが、もう間もなく二十一歳になるリェイは、十七歳のある日まで、それを誰にも言わなかった。

 代わりに、ついた渾名が一つ。それを言われたのは十六歳の時だ。風に靡く炎のような色の長い髪を結い、男にも引けを取らぬ堂々とした佇まいに、得体の知れない不思議な紙の道具。全てを呑み込むような炎だけでなく他の力も何故か操り、ひとたび討伐に赴けば、魔獣を次々と屠っていく。

 〈烈火の魔女〉と。


 血抜きは済んだ。ここで解体してしまってもよかったが、リェイは出来るだけそれをしたくなかった。間違いなく自分の糧食となるものに土埃をかけたくない。

 ここはひとつ、運搬の為に符を新しく描いてもよかったが、しかし、考えているだけで試したことがない。知っていることを組み合わせるのは簡単だが、使えるようになるまで時間をそれなりに要するのだ。深い森であっても、リェイが今いる所は開けた格好の待ち伏せ場所で、人がよく通る。時々罠が設置されているのも見る。狩りに慣れるまでは仕掛けられた罠から憐れな獣をこっそりくすねていたリェイだが、符を描くようになってからはその必要もなくなった。

 だが、符を描くところを誰かに見られたくない。リェイはあたりを見回した、遠くから微かに話し声が聞こえる。こっちに向かって来るかもしれない気配だ。

 きっと樹下の退治人全てがその方法を知ったら、もっと魔獣を効率的に狩ることが出来るようになって喜ぶだろう。そうすれば魔獣は減り、時間を持て余した皆は別のものに興味を抱き始めて、そのうち誰かが、もっと暮らしが豊かになるような発明をするかもしれない。リェイだって思うのだ、大樹サーディアナールを取り囲む壁のような樹下の街の増築にも、樹上政府との水や物資のやり取りにも、武器や生活必需品の生産にも、自分の描いた符が役に立つかもしれないということを。

 そうしたら、きっと皆が幸せになるだろう。

 だが、どうしてか、リェイは誰かに符の描き方を教えたいとは思えなかった。

 首を振って溜め息をついた瞬間、下草を踏み荒らす音が聞こえてくる。獣のものではない、無遠慮でがさつな二足歩行の歩き方だとリェイが顔を上げて思った時、後ろから声が掛けられた。

「ここにいたか、リェイ」

 よく知った男の声だ。

「ハヴィル」

 振り向いて名を呼べば、褐色の髪を短く刈り込んだ男が、にやりと親しげに笑いかけてきた。図体も態度もでかいハヴィルは同い年の同僚の退治人で、リェイが小さな時から何かと気に掛けてくれる。幼馴染は既に小柄な雌鹿を一頭背負っていた。強膜が白い、森を駆ける普通の獣だ。

「献上出来る獣は狩れたか?」

「いや、駄目だ……大物を仕留めてしまって身動きが取れなくなった」

 リェイが木に吊るし上げた牡鹿を指差すと、ハヴィルは、おお、と感嘆の溜め息を漏らす。

「これはまた立派な、献上しても一月は持ちそうだな」

「身体と目を見ろ」

「ありゃ、魔獣か」

「献上は無理だ……私が引き取るしかない」

 編んで纏めた髪が解けないように、リェイは額の生え際を掻く。

「身体が後二つ欲しいな」

 腰に手を当ててまた溜め息をつくと、右側からハヴィルのにやりとした表情がぬっと突き出すのだ。

「そういう時のおれだ、運ぶくらいなら造作もないぜ」

「……いや、流石に、獣を背負った同僚に手伝わせる趣味はない、一人でどうにか出来る、これを吊るしたのは私だし……戻るのなら、先に行っていてくれ」

 リェイは首を振った。自分の手を使わない運搬方法を編み出すには沢山の実験を経なければいけないが、シンター紙さえあれば風の模様を描くことが可能なので、簡単な浮遊の符による運搬の補助くらいは可能だ。付き合いの長いハヴィルは、リェイがそうやって即興で描いた符を使うことは知っている。ただ、紙切れから蔓が生えたり炎が上がったり変形したりするのを見る時、彼は自覚のないまま、いつも戸惑いと恐れが混じった微妙な表情をする。自分のことはどう見られても構わないが、そのような顔を見たいとは、リェイは思わない……恐ろしいことをやっているような気分になるのだ。

 ハヴィルがリェイに向かって符の描き方を教えてくれと乞うたことは一度もない。

「ああ、でも、困った時はお互い様だ、って言っただろ」

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