7

 くすくす笑った後、寝台に肘をついて、ヴィオはやっとリェイから身体を離した。解かれた自分の赤毛と、太陽の色をした長い髪が混じり合ったまま、宵闇に溶けていく。

「明日はいよいよ到着だ、リェイ」

「……ああ」

 夫はリェイに下着と夜着を手ずから着せて、それから、ぎゅっと抱き締めてきた。

「クレリアとヴァグールの年初めの祭祀はその六日後だったね?」

「合っている、三月の一日だ」

 口に出すと、いよいよ残された時間があと少しだ、ということに気付く。リェイの身体に回された腕の力が強くなった。

「……まだ、私の帰還が年始になる、と決まっただけだから、詳しい日はわからない」

「ということは、一緒にいられる時間はまだあるのか」

 呟けば、ヴィオの双眸がじっとこちらを見つめてくる。

「君も、寂しいと思ってくれているのかい?」

「どうだろう、でも、寂しがりやのあなたにとっては、よかったね、と思って」

「……否定はしないけれど」

 素直だ、とか、思っていることがすぐ顔に出る、とか、嘘をつくのが下手だ、と言ってきた夫こそ、リェイの言葉一つでころころと表情を変えていて、忙しそうだ。少し拗ねたような顔をほぐすように揉んでやれば、心地良さそうに目が細められる。

「思ったのだけれど、あなたとリュークがいなくなる実感がね、まだ、ない」

「……リェイ?」

「多分、私には、覚悟ができていないのかもしれない」

 わからない、と思うばかりで、向き合っていなかったような気がする。リェイが続けてそう言うと、ヴィオの表情が面白いくらいに変わった。

「あなたはもう、やるべきことをしっかり見据えて、それを実現するつもりでいるのに」

「……やっぱり君を残して行きたくない、離れたくない、リェイ」

 今にも泣き出しそうな顔をして、夫は腕に力を込めてくる。身体で感じたその苦しさは、リェイの心の中から沸き上がってきた真っ白な未来に対する言い表しようのない何かを、そっと包み込んで温めてくれた。

「でもきっと、大丈夫だ、ヴィオ……大丈夫」

「……リェイ」

「大丈夫、あなたがいたから、今の私がいる」

 泣かないで、と、いつか貰った言葉を囁いて、リェイはそっと目を閉じた。


 朝になって、宿屋の窓から眺める景色は、夜明けから降り始めたらしい雨で少し霞んでいた。青空は薄い雲に覆われていて白く、遥か遠くにある大樹の枝の先と空の境界は、ぼんやりと曖昧になっている。

「よう、今日は涼しいな」

 家族三人で手早く準備を整えて宿屋の受付兼食堂に降りて行くと、先に支度を終えて出てきていたハヴィルがそう言った。献上物の箱は壊れたりはせず、中身も全く問題ないらしく、彼は何か含みのある視線をリェイに向けてくるのだ。

「全く悪くなっていはいないぞ、毎日暑いのに」

「新鮮なようでよかったな、ハヴィルの術が完璧だったからだ、きっと」

 うっすら察しているかもしれないが、秘密は秘密のままでいい、術を長持ちさせる符を貼ったことは内緒だ。リェイはそう言って、朝食を注文する為に人を呼んだ。

 環状壁から張り出した足場の根元に近付いていくと、樹下の人を全て集めて乗せてもびくともしない、と思わせるような巨大な円盤が、恩寵の蔓や金属を駆使して大樹の幹に取り付けられているのが見える。その円盤は、大樹の根元から発見された金属を集め、高温の炎を利用して溶かして分厚い板や太い棒に成型したものを組み合わせて加工されているのだ。

 中央広場である。

「おおきい、おおきいねえ!」

「そうだ、大きいぞ、いっぱい屋台が出ているから、遊びに行こう、リューク」

「おおきいねえ、あそぶ! かあさま、おおきい!」

 リュークの目の前に広がっているのは、今まで見たこともないものばかりだろう。目を輝かせて声を張り上げる息子を抱き上げ、リェイは財布の口を緩めながら、ヴィオが付いて来られるようにゆっくりと歩き出した。普段は、買い物をするとしても一番近にある樹下の区画にしか赴かないし、退治人として昼間は魔獣を狩っているリェイの代わりにヴィオが出向くことが殆どで、家族の財布を握っていたのは夫だ。自分で稼いだ金を自分の使いたいように使えるのは珍しいことだった。

「無駄遣いは出来るだけしないようにね、リェイ、私なしで大丈夫かな?」

「また魔獣を沢山狩ればいいさ。あなたも面白そうなものを見つけておいで、ほら」

 窘めたヴィオに向かって幾らか通貨を入れた小さな袋を押し付ければ、彼だってそれを受け取ってから、にやっと笑うのだ。

「……君なら大丈夫か」

 所狭しと屋台が立ち並ぶ広場は、人で溢れかえっていた。目の色、肌の色、髪の色は千差万別だ。耳や尾などに猫やら兎やら狐やらの特徴を持つ者もいて、その中には四つ足で歩行する個体がいたりする。肌に鱗が浮き出ている者も、顔つきが妙に魚めいた者も、そこらを歩いたり、少し広い角を占領して、踊ったり水を噴いたり、花を咲かせたりといった芸を披露している。クレリアの恩寵により新たに生み出された人の種族だ。尤も、人間とは子供を作りにくいようだから、リェイ達のような人間と番いになることはあまりなく、自分達の種族の中だけで番いを見つけることが殆どだ。

 大樹サーディアナールの恩寵を受けず、樹下の森の外縁部となる砂漠の、その更に外側で暮らしている種族もいるらしい。彼らを見た、という話は、リェイはまだ聞いたことがなかった。何でも、耳が尖っていて長寿だとか寿命がないとか、犬の血を濃く受け継いでいるとか、そういうのがいるそうだが、本当のことはわからない。

「かあさま、おさかなさん!」

「あら、本当だ」

 リュークが指し示すのは、巨大な水槽の中にいる魚人だ。おそらく環状壁の隅に造られた住居である池から、水槽まで水道管を引いているのだろう。魚めいた容貌をした頭の両側には、耳の代わりに孔と鰭。肌の色は美しい青で胸は豊かに膨らみ、腕には鰭が生え、切れ長の目は金色だ。脚はなく魚の尾が水中ではためき、長い髪は太く揺蕩い、首の両側には鰓が四本ずつ、傷のように走っている。すぐ傍まで行って、大きな目が瞬きをする度にぬるりと動く瞬膜を親子でじっと見つめていると、それに気付いた魚人の一人が鋭い歯を剥き出して威嚇し、二人をびくっとさせてから、魅力的な笑みを浮かべた。

「可愛い坊やだ、クレリアとセザーニアの祝福がありますように!」

「ありがと、おねえさん、きれい!」

「あら、お上手。いい子には淡水氏一の歌姫、セザンナの鱗を、お守りにあげる!」

 魚人は愉快そうに大きく口を開け、牙を見せて笑った。水と水槽を隔ててもよく響いてくる声だ。その大きな尾鰭で力強く水を蹴り、開けられている蓋のところまで上がってきた魚人は、ばしゃん、と水飛沫を振り撒いて飛んだ。そして水槽の縁に手を掛け、差し出したリュークの手に自らの鱗をぽい、と落とした。

「どうも、ありがと!」

「楽しんできな、何かあったらまたおいで!」

 頭上でくるりと腕を大きく一回転。そのまま、魚人は素晴らしい声量で喉を震わせ、クレリアの創世記伝説を歌い始めた。環状都市で何度か見たことある程度だったが、リェイは彼女達についての話を知っている。

「あそこの水槽は、エルフィマーレン族の、淡水氏の人達だ、リューク……分類としては魚人だけど、魚人って言うとちょっと怒るから、言わない方がいいよ……ちなみに、女の人しかいない」

「ぶんるい? たんすいし? おとこのひとはいないの?」

「魚みたいな人のことだよ、塩の入っていない水で生きる……男の人はいない、女の人だけで子供を産むことができる、凄いだろう」

「すごいねえ、でも、それって、とうさまがいないってこと? さびしくないの? なんでいないの?」

 そんなことを言った息子の頭を、リェイは撫でた。

「どうだろう……クレリアさまの加護が満ち溢れた時から、淡水氏はずっと女の人だけだったみたいだから、寂しくないかもしれないけれど、かあさまにはまだわからないなあ」

「ふうん……とうさま」

 リュークは、自分の掌ほどの大きさがある青く透ける堅い鱗を両の手に持って眺めながら、目を丸くした。

「うろこ、きらきら……はやく、とうさまにもみせたいなあ」

 それから、リェイの肩に顎を乗せて、エルフィマーレン族の水槽が雑踏に紛れて見えなくなるまで、リュークはずっとその方向を見ていた。

 幾つか屋台を回り、串焼きや果物やジュースなどを調達して食べ歩きを済ませた後のことだ。かあさまみたいに首飾りが欲しい、とリュークが言うので、それならば、と、リェイは息子を連れて細工師達の出している一番大きな屋台に立ち寄った。机の上には革紐や鎖、蔓の形の留め具、鐶、宝飾固定用の細工された金具などが沢山並んでいる。

「さっき貰った鱗で、後でかあさまが作ってあげる、どんなのがいい、リューク?」

「かあさま、つくってくれるの? やった! じゃあね、これ!」

 店番をしている男が、お目が高い、と口笛を吹いた。リュークが指差したのは、小さな淡水貝の形をした固定用の金具で、とても硬くて丈夫そうだ。

「そいつには鎖が合うな、同じ素材のがまだある……あ、下げるものの穴開け加工くらいならやるぞ、通すのはやりたいだろう、かあさま」

 軽口が耳に心地好い。リェイは楽しくなって、思わず笑みを漏らした。

「本当か、穴あけをどうしようと思っていたところだ、頼めるならお願いしたい、幾らだ?」

「書いてあるそのままでいい、加工代はおまけだ」

 値札を見ればそんなに高いものではない。それなのに加工までしてくれるというのは有り難い話である。リェイは書いてあるそのままの値段を出した。リュークもその会話を聞いただけで何となく理解したのだろう、両手で大事に持っていた鱗を店番の男に差し出した。

「これ、つけてほしいの!」

「淡水氏の鱗じゃないか、腕が鳴るな! いい形の穴になっているのを期待してくれ!」

「あそこで、うたってた! みずの、きれいなおねえさん!」

「まさか、セザンナか……やるな、色男」

 店番の男が真面目に驚いた顔をしたので、それが面白くて、親子で顔を見合わせて笑った。

「いろおとこって、なあに?」

 リュークがこんなことを訊いてきたのは、加工待ちの文字と店の名前が書かれた札を受け取り、夕方に取りに来てくれ、という男に暇を告げ、広場の奥へ歩き出した後だった。

「いかした男っていう意味だよ、リューク」

「なれるかなあ」

「きっとね……ほら、見えてきた」

 目の前が開けた。大樹サーディアナールの幹まで辿り着いたのだ。

 リェイの背は、独りでに伸びた。リュークが腕から滑り下りて、同じように隣に立つ。自分よりも温かく小さな手が、指を握ってくる。伝わってくる鼓動がとても速い。

「これがサーディアナールの幹だ、リューク……大樹とか、世界樹とか、精霊王クレリアの化身とか、世界の母とか、色んな名前がある……近くで見るのは初めてだろう」

 一体何千年をその年輪に刻んだのだろう、しかし、誰も太い幹を切ったことがないから、それはわからない。滑らかで艶のある樹皮は硬く、歴史も伝説も、命も、全てを内包している。天をつらぬくその巨大なクレリアの御柱は、まるで讃歌を捧げる者の謳う聖句が膨れ上がるかのように無数の枝葉を拡げ、永く久しく時を紡ぎ、生命の営みを見守り続けていた。樹下の森も、その恩寵によって生まれたものだ……獣達も、虫達も、その根を一心不乱に齧る魔獣達でさえも。

 サーディアナールは世界だ。

「くびがたりないねえ」

 見れば、リュークは真上を向いていた。首を伸ばして天辺まで行くつもりなのか、それともその目に全てを映すつもりなのか。リェイは笑った。

「かあさまも足りないよ、リューク」

 そこで暫く、何も言わずに二人で大樹を見上げていると、ハヴィルとヴィオが連れ立ってやってきた。焼いた肉を甘辛いタレに付けて米で作った香ばしいパンに挟んだものを食べながら登場した男二人は、いいなあ、と声を上げたリェイとリュークにも同じものを差し出した。

 四人はすぐそこの長椅子に並んで座り、休憩を取った。

「献上物の査定はどうだった?」

「問題なかった、お前の名前も通ったぞ」

 リェイが質問すると、パンの最後の一欠片を口の中に押し込み、指に付いたタレを舐め取ってから、ハヴィルはにやりと笑って答えた。

「それはよかった……ありがとう、ハヴィル、恩に着る」

「なんの、これで俺はいい肉が食える」

 すぐ脇では即席の柵が作られていて、その内側で祭祀の準備が進められていた。第一段目、と呼ばれているすぐ上の枝――といっても根元からしたら随分高い場所に存在するし、とんでもない太さのものなのだが――からは、手を広げた大人の男を何百人も並べてもまだ端が余りそうなくらい巨大な布が、何本もの太い縄や恩寵の蔓で固定され、一定の間隔で少しずつ下へと繰り下げられている。

「布を編んでいるんだ、幅が七百メトラムはある、最下層の只人や加護人の素晴らしい仕事だ……毎年やっているぞ、もうすぐ仕上げだから焦っているみたいだがな」

 目を丸くしてその光景を見ている家族三人に向かって、ハヴィルが説明をしてくれた。成程確かに、喧騒の中でよく耳を澄ませてみれば、上から物凄い速度で木を打ち付けるような音が聞こえてくる。大急ぎで機織りをしているのだ。

「しかも、今年の図案は、ゴルドのおっさんだ」

「……ゴルドが? 樹上出身なのに?」

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