8

 ゴルドは第一段目出身の四十代の男だ。ヴィオと同じように、第一の試練を経て恩寵と呼ばれる大樹サーディアナールの実を喰らい、種を飲んで、身体に宿している。ゴルドは、第二の試練で失敗して両腕を根元から失い、騎獣を得るどころか騎士にすらなれなかった。だが、力強い脚だけは無事で、健康そのものだった。ゴルドは普段、第一段目と中央広場の間にある引き揚げ小屋で、伝説やら子守歌やら卑猥な歌やらを歌いながら、回転式の機械を両足で退屈そうに漕いでいる。樹上と樹下の物資のやり取りを行う昇降機の上げ下げを担っているのだ。

 樹上人は魔獣の火の気と穢れを嫌って絶対に降りてこないが、ゴルド本人は時々首に掛けた袋に小銭を入れて下に降りてくる。何か食べ物を調達したり、中央広場で煙草の煙を吸っていたり、必要もないのに火の魔獣除けを買ったりするのだ。だから、環状都市の人々にとって、ゴルドはよく見知った人間であった。

 リェイは、森へと移住する直前の十六歳の誕生日の前に、ゴルドの私室に招かれた時のことを思い出していた。火の気を持っている自分が上に行っていいのか、と訊いた時、ゴルドは振り返りもせずに、俺がしょっちゅう下に降りているのだから別にいいだろう、と言ったのだ。

 ゴルドは、今のリェイみたいに部屋が一つしかない小さな家に住んでいて、足の指で絵筆を使って、様々な絵を描いていた。絵具の色も思い出せる、鮮やかな赤や黄、橙が、生きた魔獣を色付けているのを。

 そこでリェイは絵姿を描いて貰った。完成したものは見ていないが、ゴルドの部屋の一番綺麗な場所に飾ってあるらしい、ということを人伝に聞いた。

「何でも、樹上と樹下の友好の印、らしいぞ……きっとあれだ、リェイのおかげじゃねえか? お前の服に似ている気がするな」

 リェイがゴルドの家に招かれた話は、第一段目の人々も樹下の人々も知っている。上と下の交流を望む声が樹下のあちこちで上がっていたから、喜んだ者は多かった。リェイは自分の胴着と羽織を見下ろした。リュークがその長い胴着の膝のあたりをきゅっと掴んで、それから、巨大な布を指差した。

「ここ、おんなじ!」

「……本当だ」

 大樹とクレリアを中心に据えた意匠。その周囲を縁取るのは、魔獣の背に刻まれている、おそらく火を表す紋様。樹上でよく見られる花や葉、蜜鳥、森燕、騎獣などが追加されて装飾的ではあったが、魔獣の斑を模してリェイが自ら裾に入れた刺繍に、とてもよく似ていた。

「ゴルドのおっさんはすげえなあ」

 ハヴィルは呑気に感想を述べたが、リェイは、自分がこの祭祀用の布の象徴になってしまったような気がして、落ち着かない気分になった。しかも、ヴィオはこんなことを言うのだ。

「何だか、土の精霊王クレリアの御尊顔も、君に似ているような気がする」

「……流石にそれはやめてくれ、ヴィオ」

 むず痒いのと同時に、何かがリェイの胸を騒めかせた。


 三の月、一日。

 民衆が見守る中、退治人達が自ら生み出した火で以て巨大な布を焼き、木々を大きく育てる礎となる灰に変える、という、火の精霊王ヴァグールを祀る儀式が行われた直後のことだ。

 唐突に樹上から降りてきた黒い竜翼の女によって、ヴィオの樹上への帰還が告げられた。

「我が名はファイスリニーエ、竜の巫女にして、母なる世界サーディアナールの声を聴く者」

 ファイスリニーエと名乗った美しい女は、羽毛や毛皮に包まれた鳥のような獣達を従えている。獣の背中には、鎧兜を身に付けた人間が乗っていた。彼女は巨大な竜翼を畳まずに伸ばしたまま、顎を引く動作のみを挨拶として、三人の前で広場に足を付け、ぴったりと止まったのだ。獣に乗った人間が口々に「御足を下ろしてはなりません」と言ったが、彼女はそれを完全に無視していたから、彼らよりも立場が上なのだろう。長い黒髪は優美に編んで纏められ、乳液のように白い肌が見え隠れする黒の胴着と薄い下穿きを身に付けている。そこには金の糸で様々な意匠の刺繍が施されていた。これまた黄金色に輝く首飾りや腕輪、指輪、足輪が、陽の光を反射していて、眩しい。

 その姿を見てヴィオが小さく息を吞んだのを、リェイは覚えている。

「光を継ぐ語り部の末裔、シャマルライト・シルダの息子、ヴィオライト、並びにその息子、リューク。そなたらに、三の月、十日、第十五段目への帰還を要請する」

「……承知致しました、ファイスリニーエ様」

 夫はその場に膝を折って頭を垂れた。すると、ファイスリニーエは細い瞳孔が縦に開いたその金色の目を細め、口元だけで笑みを作った。

「これは樹上政府の決定であり、サーディアナールの意志である。礎となったと聞いていたが、よくぞ生きていた、ヴィオライト」

「クレリア様の御導きに御座いますれば」

 リュークは驚いて目を丸くしていた。父親のこんな姿を見たことなどなかったものだから、仕方のないことだろう。リェイだってこんな受け答えをするヴィオなど知らなかった。

「樹下の者は知らぬであろうから伝えておかねばなるまい、三日前に、竜の鳴き声が第十六段目を揺らし、クレリアの預言を賜った……人魚の歌姫が伝説の唱和を先導する時、サーディアナールは炎に包まれる、という……樹上政府の見解は一致している、これは何かの前兆である、と……ヴィオライト、第二の試練を受けよ、卵を得て騎士となり、第十五段目の者を率い、大樹を守れ」

「お言葉ですが、今の私は右脚が不自由です、試練は受けられぬかと」

「ならば、第十五段目の語り部となり、尾白を育成し、未来を担う若者を助けよ」

「……仰せのままに」

 リェイには、交わしている言葉が、殆どわからなかった。

 すっかり夜が更けた頃に、ヴィオは、ファイスリニーエという名の竜の巫女と知り合いであることを明かし、自身のことを詳しく話した。第十五段目は大樹サーディアナールの居住地区の中でも最も優美で真っ直ぐな枝で、特権階級のみが住むことを許されていること。彼自身はそこで生まれ育ったということ。第一の試練の時に、第十五段目の端に実るサーディアナールの果実を誰よりも早く手に入れようとしたが、エイデルライトという名の幼馴染に落とされたこと。シャマルライトという名の父と、叔父のトリニエライトという名の男の政治的対立によって、その事件は起きたということ。

「まあ、要するに、優秀だったお前さんは、叔父貴に諮られた、ってことか」

 ハヴィルのわかりやすいまとめのおかげで、リェイも何とか理解することが出来た。それと同時に、自分が誰と番って子を成したのか、ということを思い知った。リェイのことなんて捨てて、樹上で新しい番いを見つけて、家族として結ばれることだって有り得るのだ。そんなことを考えた時、息子は既に寝台の上で幸せそうな夢を見ていた。

 そうしたらリュークはどうなるのだろう、と、その時は考えた。だが、その晩も夫に念入りに抱かれながらリェイは思い直した、この人に、きっと新しい番いは出来ないだろう、と。

 それから九日間はあっという間に過ぎた。

 その間、リェイが繋げて鎖を通してやった首飾りを、息子は大層気に入って、決して手放そうとしなかった。ヴィオが冗談交じりにこんなことを言うくらいだ。

「リュークはいいなあ、とうさまも欲しいなあ」

 夫にとってそれは小さな冗談だったのだろう。だが、そこでリェイは閃いた。環状都市に逗留している間、もう一度セザンナの所へ行って、リェイは自身と夫と息子の事情を洗いざらい打ち明けた。すると、どこか難しい笑顔を見せた歌姫は、既に噂が環状都市だけでなく、根の方まで回っていっているらしい、ということを教えてくれてから、何と鱗を二つも、リェイの手の中に落としてくれたのだ。

「歌姫セザンナは、セザーニアの加護の下に、家族を繋ぐ絆になる……どうぞ、お守りだ」

 三の月、十日。三人の胸元で、透ける蒼い鱗が家族の証として揺れていた。

「かあさま、行ってきます!」

「全ての精霊王の加護がありますように、リューク……ちゃんと、とうさまや、周りの人の言うことに耳を傾けて、気を付けて」

 数日前に、これから樹上で暫く暮らすよ、と息子に伝えたのは、ヴィオだ。騎獣という大きな生き物や、伸びてくる蔓、枝の上を歩いて移動すること、蔓を伝って飛ぶように移動したりも出来ること、枝や葉で出来た広い建物の中で生活をすること。近いうちに母も来ること。リュークはそれを純粋に信じた。

 そう、これは夫と息子の長い旅行なのだ。リェイはそう思う。

「迎えに来る」

 ヴィオはそう言って、右手でリェイの頬を撫で、今にも色々なものが溢れ出してきそうな表情をしながら、何とか微笑んでみせた。その左手を、リュークが大人しく掴んでいる。

「楽しみにしている、全ての精霊王の加護がありますように、ヴィオライト」

 リェイは、口の端を上げることしか出来なかった。上手く笑えたかどうかなんてわからなかった。

 中央広場の真ん中で顔を上げると、腕のないゴルドの脚が回転しているのが、遥か頭上に見えた。大小様々な形の板を組み合わせて形成された巨大な箱が、徐々に降りてくる。樹下からヴィオとリュークを迎える為に、何名もの人がその昇降機には乗り込んでいた。皆、十五本の枝が組み合わさった流麗な紋様が刺繍として施されている白い服を着ている。

 同じ白で、同じ刺繍の入った小さな羽織と大きな羽織が、息子と夫の肩に掛けられた。

 ヴィオが振り返って、泣き笑いのような表情を見せた。そうして二人が昇降機で枝の上へ昇っていくのを、リェイはいつまでも、翠に紛れてわからなくなっても、見送っていた。

 胸元に揺れる首飾りを二つ、握り締めて。


 自分の小屋へどんな気持ちで帰ってきたのかはわからない。ハヴィルと一緒に戻る道中、何かが飛んでいた、何かが樹下の森へ向かって落ちていった、などの噂話を聞いたが、現実味が感じられなかった。

 リェイは、ヴィオに向かって言ったことをぼんやりと思い出した。自分は覚悟ができていなかったのだろう。同時に、懐かしい、という気持ちもあった。ひょっとしたら、四歳の時の自分も、こんなことを考えていたのかもしれない。

 ハヴィルと喧騒から離れて、森に一人で足を踏み入れる。これで十六歳の時の自分に戻って、全てがまた、最初に思っていた通りに動き出す筈だ。そう考えながらリェイは家族で通った森の小路を進んでいった。そういえば、鳥の声が聞こえない、妙に静かで、影も薄いように思える――

 ――小屋の一番近くにあった木が見るも無残に根元から折れている。

 リェイは思わず息を呑んだ。急いで近付いてみれば、小屋の天井に大きな穴が開いている。入り口が破壊され、木片が散っていた。

「誰かいるのか!」

 思わず叫んだ。答えはないが、静かすぎる。リェイは腰の衣嚢から何枚か符を取り出した。

 小屋の周囲をぐるりと回った。何も見当たらない。リェイの足の裏が何度も小枝を踏んだ。普段の狩りの時なら絶対にやってはいけない真似だったが、反応してこないならば、小屋の中には何もいないか、知恵を持った誰かがいるか、死んだふりをした生き物がいるか、だ。

「――火精霊の思し召しの下に」

 聖句を囁いた。小屋などもう一度建てればよい、と割り切った。ハヴィルには悪いが、事情を話せば、牡鹿も諦めてくれるだろう。また狩るだけだ。そう思った時だった。

 唸り声が聞こえてくる。ちょうど、リェイが牡鹿を解体して保管しておいた場所からだ。怒っているようではない、グルル、クルル、と鳴るのは、甘えているような、親を探しているような音。

 意を決し、リェイは小屋の中に入った。穴の開いた天井から光が差し込んで、明るく照らしているのは、両腕で抱えられる程の生き物。全身を覆うのは黒く光る鱗、森の蜥蜴によく似た身体、目は金色に煌き、耳の後ろや額にはまだ鋭くない三対の角があり、背中には翼――ファイスリニーエと名乗った巫女の背にあったのとよく似ている。

 それが、まだ幼い牙で、一心不乱に肉を齧っていた。


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