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 それを言われたのは、リェイが代理人に任命されてから数えて、十一回目の会合が始まった直後であった。言葉の主はかなり年を取った小柄な男であったと記憶している。純粋に疑問を口にした、というだけではないことは、相手の表情を見ればわかった。顎を少し上げ、片方の口の端を釣り上げていたから、きっとこちらを侮っていたのだろう。

「私に話を持ってきてくれたのはハヴィルという男だったが、それは一年くらい前になるな。そういう話があるということは、忘れてしまったわけではないようだが、ここに来ていないあたり、微塵もやる気はないようだ、と思うが、どうだろう? 少なくとも、来ている時点で私の方が適任だと思うが、如何か?」

 そう返すと、男は面食らったようで、目を白黒させて、口をただぱくぱくと動かすことしか出来なくなってしまったようだった。どうやら、言い返されるとは思っていなかったからしい。

 言葉を覚え、母と一緒がいいと主張し始めたアリエンを連れて、リェイは会合に出かけるようになった。会合に出席する者の中には母子を迷惑そうな目で見る輩も存在したが、子連れで出てくることを称賛してくれる相手もいた。

「子供が泣き出したら会合にならないだろう。そうしたら会議は進まず、おれ達は迷惑を被ることになる。お前は樹上と繋がりがあって重要な立場にいる身だ、施術院に預けることが出来る身で、どうしてそれを利用しない。お前は迷惑だ」

 会合の最初にこう言う者がいれば、次のように返す者がいた。

「お前は子供を育てたことがあるのか。あるのだとすれば、どうしてそういうことが言えるのかどうか、おれはお前の意見を聞きたいと思う。ないのだとすれば、知っておくといい。幼い子供、特にこのアリエンという子ぐらいの年頃というのは、自分の主張を通したい時期に差し掛かっている。何もかも思い通りにいかず、子を育てていて病んでしまう者だって存在するのだ。覚えておくといい……大方、母親と一緒がいい、とでも愚図ったのだろう、リェイ、あなたが気にすることはない」

 それから数回にわたって、会合では色々な意見が出た。皆が誰かに育てられた経験があり、誰かを育てている経験のある者も存在している。次世代を担う子供は宝であり、育てる者も含めて、蔑ろにするわけにはいかない。かといって、子供の相手をしてばかりで、会議を円滑に進めなくていいというわけでもない。会合に集った者達は、子供の同伴に賛成か反対かで真っ二つに割れた。それはありとあらゆる仕事場や家庭にも飛び火して、油の上に放った火のように、あっという間に環から根の方へ拡がっていった。本来は話し合わなくてよかったことを持ち込み、大炎上させ、樹下全体に拡散させた原因として、リェイは大勢から疎まれた。同時に、更に多くの者達から支持された。会合の回数は必然的に増えた。二ヶ月に一回だったものが、徐々に頻度が増え、最終的には三日に一回となった。定期開催では話し合いも行動も追い付かないということに皆が気付いたのだ。

 時を同じくして、リェイは〈烈火の魔女〉としての能力の正体を明かした。開示した符の力は、最初は懸念や不安を示す者が多かったが、一人の退治人が真似をし出すと、それに続く者が数人出現した。描き方と発動方法を教えれば、あっという間に使いこなす者も沢山存在していた。

 中には、自分で描いたものを持ってくる者までいた。

「代理人さん、私も風の矢を描いたのですけれど、これで発動するでしょうか?」

「まず、矢を表すものだから、一番長い線は必ず真っ直ぐ描くように。苦手だったら定規を使っても構わない、その方が寧ろよかったりする。それから、風を表すこの模様は、出来るだけ綺麗な曲線になるように……ここの曲線がとても上手く描けているから、今後はこれをお手本にしてみるといい。あと、曲線の先を巻いて描きすぎると、風が渦巻きすぎて上手く飛ばなくなるから、出来るだけ左右均等になるように」

「成程……左右均等に、真っ直ぐ、ですね。ありがとうございます!」

 腑に落ちた笑顔が眩しい、長い茶髪の女の子だ、まだ十五歳ぐらいだろうか。上手く教えられたかどうかはわからないが、そう言われて、リェイは嬉しかった。

 環状都市には人が増えている。せっかく仕事にありついても、小さな子供が負担になって、短い時間しか働けない者がいる。そういう人々の為に、仕事場に子供を連れてくることが可能になれば、親も子も不安を抱えて過ごさずに済むだろう。それが不可能であれば、安心して子供を預けられるような場所を提供しなければならない。子供の面倒を見る職業が必要だ。子供を預けておく施設が必要だ。環を拡張する人員が必要だ。

 仕事が増えた。仕事を必要とする人々が、仕事に就く機会が生まれた。

 そうして、樹下は徐々に変わり始めた。

 リェイが石碑の文章を写し、それを織り込んだ布が完成したのは、アリエンが二歳になって、嫌だ、という言葉を率先して使いたがる時期に入った頃だった。樹上からの十六回目の襲撃はまだ来ていない。

 娘は、真ん中にエルフィマーレン族淡水氏の姿が織り込まれ、翠に火のような赤い色で紋が入ったその布を、完成した瞬間からとても気に入ってしまったらしく、布の端をぐいぐい引っ張って離さなかった。元々は自分で丈の短い胴着に仕立てようと思って織っていたものだったが、こうなってしまっては仕方がない。リェイは、余っていた端切れを工夫して付けて、小さな身体の為に裾が膝下まである胴着として仕立ててやった。身体の前を覆い、首の後ろで吊るすようにして着ているので、胴着の背中は開いている。

「かーたま、わたし、しゅてきでしょう、みて!」

 アリエンは、両手を一生懸命に伸ばして、みて、みて、と繰り返している。かなり大きくなった身体を抱き上げてやると、はにかんだ娘は、嬉しそうな声を上げた。

「かーたま」

「よく似合っているよ、アリエン」

 幼い笑顔は名の如く花開く。それが可愛くて微笑ましくて、リェイも笑った。もうすぐ完成すると思うと、夜の帳が降りても、時には枝の闇色から光が差し込んでくる朝になっても、機織りをやめることが出来なかったのだ。流石に連日寝不足が続いていて眠気からくる倦怠感が全身を覆っていたが、抱き上げていたアリエンを下ろしてふかふかの椅子に座れば、すぐに膝へ飛び付いてくる。うっかり眠ろうものなら一人でどこかに行ってしまうかもしれない。ここのところ、施術院に子供を預ける部屋が開設されて、ドーサがそこで新しい働き手の指導をすることが増えている。以前のように、自分と娘の二人分の世話をいつも頼めるわけではなくなっていた。

「かーたま、おねむ? ねむねむ?」

 そう言われて、リェイは、知らず知らずのうちに自分がうとうとしていたことに気付いた。慌てて首を振り、窓の外を確認すれば、枝葉の向こうが暗くなり始めている。食事を作らなくてはならない時間だった。

「ううん、大丈夫だよ、アリエン……かあさまがご飯を作ろう」

 そういって立ち上がろうとした時だ。

 壁が大きく揺れた。次いで、左半身に痛みが走った。かーたま、と自分を大声で呼ぶ娘の声が聞こえる。横になっているのか、ということに気付くと同時に、リェイの意識は闇の精霊王ラフィムの領域に飲み込まれていった。


 幼い子供の泣き声が聞こえてくる。

 樹上にいた頃だっただろうか、あんな風に泣いて、両親を困らせたことが一度だけあった。そんな記憶が意識と共に身体の中からふわりと浮いてきて、忘れていると思い込んでいた優しい声が耳の奥に蘇る。休みましょうね、あなたのとうさまは騎士で、騎獣と一緒に飛んで疲れてしまっただけだから、心配しなくていいのよ。これは、優しい母の声だった気がする。腹を痛めて産んだ子を手放すその瞬間、自分の母は、一体どんなことを思っていたのだろう。

 眠気に呑まれるのが恐ろしくて、幻影の中で、かあさま、と呼ぶ。すると母は、なあに、と返してくれた。そして、記憶の中の若いままの姿で、朝よ、だけど無理して起きることはないわ、眠っていてもいいのよ、と言うのだ。

 リェイが目を開けると、そこには渋い顔をしたハヴィルが座っていた。

「……ハヴィル? 何をしに来た?」

「いや、お前が倒れたって聞いて駆け付けたんだ、おれは」

 太くて力強い腕の中に涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしたアリエンを抱え、彼は溜め息をついた。リェイはそこで、自分が寝台の上に寝かされていることに気が付く。

「寝不足だって医者は言っていたぞ、リェイ……子育てに符の開発に代理人だろ、やっぱりどう考えても働き過ぎだ、だから力が出なかっただけだろう」

「……いや、そこまで慌ただしくはなかったと思う。ハヴィル、私は、どれくらい眠っていた?」

「二日だ……忙しくなかったって言うんなら、何があったんだ?」

 リェイは腕を伸ばして、アリエンに着せた自分の織物を撫でる。しゃくりあげている娘はしかし、服だけは死守したらしく、仕立てたばかりの胴着には涙も鼻水も付着してはいなかった。それだけ大事にしたいと思ってくれたのかもしれない。

「私はこれを織っていたんだ……ごめんね、アリエン」

「フェーレス、フェーレス……かーたま、わたし……ふく、よごしてないよ」

 流れる鼻水と涙を必死で拭いながら、アリエンは必死で言葉を紡ぐ。

「……そうか、アリエンは偉いな」

「フェーレス……かーたま、いたくない? ねむねむじゃない?」

「大丈夫だ、一杯寝たからね」

 リェイは寝台の上に起き上がって、差し出されたハヴィルの腕から娘を受け取り、ぎゅっと力を入れて抱き締めた。眩暈は起こらない。身体の左側を床に打ち付けた記憶があったから、アリエンを膝の上に一旦置いて触って確かめてみた。痛みは残っておらず、押しても何ともなかったから、痣は出来ていないようだ。

「もう大丈夫だ、心配を掛けたな、すまない。今後は気を付ける」

「是非とも気を付けて貰いたいがな……お前が倒れてそれっきりになったら、アリエンはどうするんだ……代理人を、おれに代わってくれ」

「……またその話か。代理人になりたくてやる気があるのなら、どうして会合に来ない?」

 リェイが問えば、彼は目を逸らした。

「根の方の情報を集めていた」

「それはゲリック組合長がやっているだろう、報告は一ヶ月に一回、私が受け取っている」

 ハヴィルは押し黙った。今やリェイは立派に代理人の任を務め、会合に出席し、樹下の町を変えるべく動く集団の中心人物となっている。退治人組合の代理人が交代するなどという話はとうに立ち消えになったものと皆は思っている状態だ。その場所に、今更入っていくことが可能であるならばやってみて欲しい、と思うのだ。

「ゲリックさんから、必要であるならば交代してくれ、という要請を受け取った」

「ゲリック組合長は、私の方には定期的な報告を下さるが、そんな話はまだ聞いたことがない。私の方はそういった必要も感じていないが、一体どうなっている?」

 自分の胸の中でぐずっている娘の上でそういう話はしたくなかったが、この件については、必ず誠意を以て立ち向かわねばならないことだ。

「お前には敢えて言わなかったんだ、ゲリックさんは……それに、お前が感じていなくても、その必要は出てきただろう。今がそうだ……お前、ゲリックさんに、何か開発しろって言われているらしいな。それについては報告しているか?」

 リェイが退治人達を巻き込んで符を使い始めてから、一年が経とうとしている。〈烈火の魔女〉の代わりに符が出現し、環に滞在している退治人達は、紙切れとインクで沢山の模様を描き、術の発動に慣れることを目的に日々努力を積み重ねていた。仕事が増え、根から人が流入している今、拡張を続ける環状都市をより堅固で揺るぎないものにする必要がある。その為、様々な技術に応用出来る符の開発が待ち望まれていた。

 ゲリックの報告によると、樹下に存在する根の町は、三ヶ月に一つずつ崩れている。まだ保っている根の町やそこに住んでいる人々を魔獣から守る為に、と退治人達を焚きつけるのもリェイの仕事だった。それは必ず進めなければいけないことだった。

「それは勿論だ。環に残っている退治人達に協力して貰って、まずは私がいつも描いている符を扱えるようになって貰うところから、という風に伝えた。そろそろ皆慣れてきたから、各自で色々と罠や仕掛けなどに応用して欲しい、と通達するつもりだが」

「……符か」

 ハヴィルは渋い顔になった。彼は顎に手を当てて暫く考えるような素振りを見せた後、徐に口を開く。その表情は更に険しくなった。

「それは魔獣を狩る為だよな?」

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