8
「そうだが、それがどうかしたか? 何か不味いことでもあるのか」
「ある。退治人の誰かが、お前やシシルスを守る為に、お前の教えた技術を使って、樹上の騎士どもを片付けるなんてことになったら――」
それがどうかしたのか、と一瞬だけリェイは思った。しかし、ハヴィルが一度目に代理人の交代を提案してきた時の言葉が不意に蘇る――樹上のやつらはこっちに良い感情を持っていない……シシルスがいるとなると余計に、だ――得体の知れない紙切れで彼らの命を奪っていく事態に、もしも発展してしまうのなら。自然と、出る声は大きくなった。
「何だそれ、樹上の騎士を片付ける、って……騎獣もか? そんなことの為に、私は符を開発しているわけじゃない」
「お前がそういうつもりじゃなくても、他の奴らは違うかもしれないぞ」
リェイは溜め息をついた。憤りを隠すのはまだ上手くはないが、ただ怒りを放出するよりも解決の道を探るという方向で思考を組み立てることだって、最近は出来るようになってきた。慣れもあるだろうが、環で暮らし始めたというのが大きいのかもしれない。知り合いも増えた。よく話す者だっている。お前は敵だ、と言外に主張しているような顔と正面からやり合うこともあるが、協力を惜しまない者と議論を交わすことも頻繁にあった。
「……退治人全員に通達をしなければならないな」
「そこはおれも協力する、絶対にだ」
ちらりと窺ったハヴィルの眼光は強かった。頷きはしっかりしているし、力仕事であっても根回しであってもそつなくやり遂げる彼は、事実、とても頼れる人だ。
だが、とリェイは思う。気が付いたら、思ったことが口から飛び出していた。
「どうして、人を手に掛けてはいけない、という決まりなのだろうな」
息を呑んだハヴィルの表情に剣呑さが宿り、声はまるで鋭い風の音のように届く。
「一体どうした、お前」
「ふと思ったんだ……魔獣を倒すのは退治人の掟の為だった。じゃあ、何故人を倒してはいけないんだろう、考えたことはないか、ハヴィル」
「決まっているじゃないか、大樹を守る為だろう。そして仲間を殺すのは罪深いことだ。当たり前のことなのに、一体何の疑問があるんだ」
ハヴィルを見れば、まるで、お前は狂ってしまった、とでも言いたげな顔をしている。確かに自分達は退治人で、火の気を使って魔獣を倒すのが課された使命であり、当たり前のことに疑問を持つ方がおかしいのだ。けれど、リェイは思い出す。
「シシルスはもともと大樹に棲んでいた筈だけれど、私が魔獣を倒すのを嫌がっていたみたいだった……魔獣の肉を差し出しても嫌がって食べなかったし、私が狩りをしていると悲しそうな声を出したし、寧ろ、魔獣に声を掛けて、近寄っていこうとした……」
竜の、親愛と知性を宿した美しい金色の双眸。あの雄竜の行動が間違っているとは思えないのだ。
「……私は、倒した。焼いた。ごめんね、って、いつも謝っていた」
アリエンが身じろいで滑った。リェイは娘を抱え直す。
「……どうして、どうして私達は魔獣を狩っているのか、わからない」
暫く沈黙が流れた。娘が洟を一生懸命にすすり上げる音だけが大きく響いている部屋の中に、夕刻の紅を帯び始めた光が柔らかく差し込んでくる。宵はすぐそこに迫っていた。リェイはアリエンの髪を撫でる。柔らかくて癖のない、子供らしい毛束は、二つに結った場所からつるりと光沢を帯びて、シシルスの頭にある角のように、うなじのあたりから左右に飛び出している。
ややあって、ハヴィルが頷いた。
「シシルスが間違っているとは思えないわけだな、お前は」
しかし、次いで紡がれる言葉は、欲しいものとは全く異なっていた。
「だが、大樹が崩れるとおれ達はやっていけない。魔獣は大樹を傷付けていて、そのせいで根の町は次々と崩れていっているんだろう? ゲリックさんの報告を退治人の皆に回したのはお前じゃないか、リェイ……大樹は樹上のやつらだけのもんじゃねえ、おれ達だってそこに住んでいるんだ。それを守る為に、おれ達も、樹上の騎士のやつらも、魔獣を狩っているわけだろう」
その通りだ。彼はいつも正論を用意している。リェイは何も言えなくなった。その沈黙を己の言葉への肯定と取ったのだろうか、ハヴィルは更に続ける。
「根の方の町が復活したっていう報告はないし、それどころか、次々と環に人が避難してきている状態だ。魔獣の数も増えている、おれだって、お前の家の近くで、鹿の形の魔獣が群れになっているのを見たんだ……前までは単独行動だったのに、あの数はありえない。おれ達が狩ろうとすると、あいつら、どうすると思う? 数で攪乱してくるんだぜ? 自分の生み出す火の術だけじゃ追い付かねえ、一人で狩りに行くのはもう無理だ」
「……私の家の近くで?」
「ああ、見た」
問い返せば、苦い表情で彼は頷いた。部屋の中が僅かに赤みを帯びながら徐々に暗くなっていく。闇の精霊王ラフィムが空を支配する刻がやってきたのだ。
眠そうに目を瞬かせているアリエンを膝から下ろして寝台の上にそっと寝かせ、小さな身体の上に布をかけてやった。それから、ゆっくりと動いて、寝台の横にあるランプに〈火の精霊の思し召しの下に、この物に力を与え給え〉と聖句を唱え、灯りをつける。とても空腹だった。
揺れる炎がハヴィルの堀の深い顔に濃い陰影を作る。リェイがそのまま炊事場へ向かえば、手伝うぞ、という一言をそっと椅子の上に置いて立ち上がり、彼もついてきた。
麺炒めに入れる予定の野菜をリェイが手渡せば、それを受け取ってすぐに皮を器用に剥きながら、ハヴィルはこう語るのだ。
「この異常には、おれ達も数で対抗するしかねえんだ。リェイ、ゲリックさんから受けた符の開発に注力した方がいいんじゃねえのか? おれはそう思う……あと、お前は働きすぎだとも思う。何回も言うけれどな、樹上に家族がいて、シシルスと一緒にいて、それで退治人組合長代理なんて、危険すぎる」
「……どうしてもそう思うか」
リェイは魔獣の筋と骨を煮込んだ出汁を火から下ろした。香辛料の入った箱を探り、薫り高いレヴァンダや一粒でぴりりと辛いペリトゥムの実、樹下の岩石地帯で採掘されている岩塩、口に含むと苦みを感じるカラクマなどを取り出す。ハヴィルの視線がそれを目で追っているのがわかった。
「おれだってわかっているさ、お前が強い、ってことは。どっちかというと非力だったお前がどうして〈烈火の魔女〉なんて呼ばれるのか不思議だったけどな、お前だけが知っている符の力があったからなんだな、って、今更思うんだ……お前自身が特別頑丈だっていうわけじゃない、そこはわかっておいた方がいい。現に、寝不足で倒れただろ、リェイ」
「……大丈夫だろうと思った」
「大丈夫なわけがあるか、食べることと同じくらい寝ることは大事に決まっているだろ」
剥いた芋の皮を短剣でかき集め、肥料用の箱の中に慣れた手つきで放り投げながら、ハヴィルは大きな溜め息をついた。
「……でも、お前は凄いよ。どこでどういう風に考えついたのか知らねえけど、模様を描いた紙きれだけで誰でもあんなに強くなれるって考えたら、魔獣だって一掃出来る、と俺は思う。お前は森へ行って正解だったんだ、おれなんかと番いにならなくてよかった」
それまでは間違いだと考えていたのか、間違いでなくても納得がいかなかったのか、と思ったが、リェイは言わなかった。ハヴィルはまだ喋り続けている。以前に会った時よりもよく口が回るものだ、と感じたが、それも言わなかった。料理に集中したいというのもあったが、何よりも、目の前の相手が、彼なりに考えて言っているのだ、と思っていたかった。離れていたけれど、彼は幼馴染だった。
「お前の描いたものが退治人の手で改良されたら、多分、環のやつらはもっと強くなって、竜の力に頼らなくても、樹上と対等に渡り合えるようになるだろう。十段目以上に住んでいる奴らから、おれ達だけじゃなくて、おれ達の子供とか孫が嫌な感じの目で見られることもなくなるかもしれない。お前とかシシルスが嫌だって言うなら、魔獣を殺さないようにして、大樹から遠ざけるような符を考えるってのはどうだ……考えるのは得意じゃないけれどな、おれに出来ることがあったら、絶対にお前の力になる、絶対に、だ……いざという時にお前やヴィオの所へ駆け付けられて、すぐに色々なものを動かせて、力になれるような場所にいたい、上と下を繋ぐ希望の為にも、お前達の為にも」
だから、俺と代わってくれ。ハヴィルは畳みかけるように言った。
「……もう少し待ってくれ。あなたが今言ったことを通したいから……符の扱いを一番知っている私が、会合に出ているうちがいいから」
「今言ったこと……大樹から遠ざけるような符か?」
リェイは、綺麗に剥かれた野菜を切る為に手に取った短剣を置いて、頷いた。
魔獣をただ大樹から遠ざけるだけの符、という思い付きは非常に魅力的だったが、それを実際に開発するという段階に来てみると、非常に難しいものだということがわかった。だからこそ挑戦のし甲斐があるというものだ、とも言えるが、そのようなことを言っている間はまだ甘い。
魔獣は大樹サーディアナールの根を齧る。おそらくその香りに惹かれてきているのだろう、とリェイは考えたが、香りを閉じ込める、或いは消滅させるには一体何が必要であるのか、というところで、まずは躓いた。
「香り……香り、ですか。そういえば、すっごく臭い花があるんですけれど、リェイさんは知っていますか? どうしてあんなに臭いんだろうって不思議に思ったことがあります……その花が咲いているところ、近くに絶対水場があるんですよ」
ハヴィルと最後にじっくり話し合ってから四ヶ月程が過ぎていた。アリエンの二回目の誕生日を迎えて数日後、以前符を描いて持ってきたイーレという名の女の子に向かって話してみれば、そんな答えが返ってきた。会合が終わって、符の改良を行う為に貸し出された部屋へ、何が気に入らないのか、いやだ、いやだと主張し続ける娘を無理矢理抱いて向かう途中で、彼女と行き合ったのだ。
イーレも、リェイと同じように樹上出身らしく、四歳の時に下へ降りてきたようだ。だが、少女は火の気をその身に宿していることに誇りを持っており、その力で根や環の人々を魔獣の脅威から守るということに使命感を抱く、背筋のぴんと伸びた気持ちの良い娘なのだ。今日は後で誰かと環の商業地区にでも出掛けるのだろうか、長い茶色の髪を綺麗に編み込んで後頭部で纏めており、大ぶりの花が可愛らしい胴着に薄手の短い羽織という装いだ。若者らしい格好に、姿勢のよさも相俟って、凛とした印象を受ける。
アリエンは、少女の纏め髪に差し込まれている大ぶりの赤い花飾りが気になるようで、リェイの腕の中から手を伸ばした。
「おはな、おはな」
「あら、これが気になるの?」
「おはな、わたしもする!」
イーレは目を細めてくすくす笑っている。リェイは上半身を揺らして花を欲しがる娘をしっかり抱き直し、落ちないように腕の力を強めた。
「こら、アリエン、それはこのねえさまのものだから、よしなさい。今度かあさまが作ってあげるから」
「いやだ! あかいの! おなじの! おはな! あかいのつける! きれいなの!」
「……そうだな、綺麗だな、かあさまも赤いのは好きだ」
「おなじの!」
珍しく聞き分けのない娘が腕の中で暴れ出す。リュークもよく暴れて虫を取りたがっていたことを懐かしいと思えど、腕や胸に勢いよく当たる小さな腕が痛いことに変わりはない。リェイの口からは、我儘に同調するような言葉しか出てこなかった。
すると、イーレはいいことを思いついた、とでも言いたげな表情で、アリエンの顔を覗き込むのだ。気付けば、少女は後ろ手に何かを持っていて――
「可愛いお花ちゃん、これが欲しいの? 実はね、もう一つあるのよ。あなたにあげる」
つけてあげるね、と一言、イーレは大ぶりの赤い花をどこからか取り出し、少女自身の胴着の胸元に差し込み、アリエンの少ない髪を耳からさっと浚って二つに結ってあるのを解いた。きつくなり過ぎないように引っ張ってあっという間に編み込みを完成させ、解いた紐を使って後頭部できゅっと纏め上げる。そして、胴着を飾っていた赤い花を捩じった結び目に差し込んだ。最後に小さな手鏡をベルトに付けた衣嚢から取り出して、小さな淑女の前に差し出す。
「はい、可愛い、可愛い」
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