6

 冷静に考えたら、目の前の男が退治人組合長の代理人に相応しいのだろう。リェイにだって、彼の並べ立てる理由が納得のいく理由であることはわかっている。アリエンと共に過ごす時間がもっと欲しいと思っていたし、機織りも毎日ほんの少しずつしか出来ていない。やらない日だってある。シシルスのいる場所の石碑だってしっかり読み込んでみたいのだ。ゲリックが託していった符の開発も進めなければならない。為すべきことは多かった。

 そんなことを考えて黙り込んだリェイに向かって、ハヴィルは言い放つのだ。

「おれ達は穢れだ」

 リェイの腹の底から炎が吹き上がった。

「私はそう思ったことはない!」

 気が付いたら、娘をきつく抱いて、立ち上がっていた。そうして初めて、ずっと我慢していたのだ、と気付いた。自分の出した声が白い壁に跳ね返って反響する。ここは、自分で建てて馴れ親しんだ自分の小屋ではない。相対するのは、施術院の壁の色によく合う、冷静な声。

「お前がそう思っていなくても、上のやつらにとってはそうなんだ、リェイ」

 窓の外が翳り、腕の中ではアリエンがむずがり始めた。リェイは拳を握り締める……自分の戦う場所ではないのかもしれない、という不安を消してしまいたかった。

 難しい顔をしたハヴィルはその先を続ける。

「樹上のやつらはこっちに良い感情を持っていない……シシルスがいるとなると余計に、だ。襲われたっていう話を聞いた時は焦ったぞ、だから急いで会いに来た」

 彼は、様々な感情がどろどろに溶けて混ざったような表情をしていた。こんな話をするつもりでここに来たのだとしたら、もう二度と顔も見たくない……リェイは怒り狂いたいと思った……身体の中で炎が渦巻いているのを感じる。自身が穢れであるら、この身体を抱いた夫も、息子も穢れていることになる。上にいようと下にいようと顔かたちは同じだし、リェイ自身も上で生まれ、四年程過ごしていたのに。

「皆、上から攻めてくる騎士とかいうやつらが気に入らない。攻めてくるやつらを幾ら消してやっても、いい気にはならないだろう」

 ハヴィルの言葉が、次々に浮かんでくる「どうして」という疑問にとどめを刺していく。それは、符から放たれる風の矢よりも鋭く、水よりも冷たく、炎のように吹き上がる憤りを冷ましていった。そうだ、仕方ないのだ。犯罪者や火使いが樹上から樹下に追放されそこで共同体を築いて生活するようになった、というのは、樹下に〈登れぬ壺〉という名の牢が誕生する前、もっと遥か昔から受け継がれてきた言い伝えだ。上から追われた者の中には、本当に悪いことをした者もいただろう。しかし、謀に巻き込まれ、謂れのない罪を引き受けた者がいなかった、などという話が伝わっているわけではない。火使いに関しては、サーディアナールを焼いてしまうかもしれないという懸念があった以上、仕方がないと感じる部分もあるだろうが、もっと他に方法があったのではないかと思えた……想像せずにはおられないのだ、彼らの怒りたるや。

 その子孫が抱いた願いが、理屈に殺されようとしている。

 ハヴィルは、樹上と樹下が互いに対して何千年も抱いてきた感情を刺激しないように、と考えているらしかった。リェイもそれは理解できるのだ。しかし、それは唾棄すべきもののように思えるのだ……例え、変わることで人々がどれだけ苦しんだとしても。

「多分、上もこっちを危険だと思っているだろう。元々樹上にいたらしい生き物とはいえ、樹下にきたら穢れだ、とみなされるなら……そいつが、手練れの騎士を何人も殺しているんだ。おれは、お前と付き合いが長いから、そうじゃない、ってわかっているけれどな、お前がシシルスを従えているように見えるんだ、他人には」

 リェイは首を振った。

「……従えてなんか、いない」

「わかっているさ、お前がシシルスに命令したところなんか、一回も見たことがない」

 彼は机に肘をついて手を組んでいる。それを見ていると、自分が冷静さを欠いて、感情に任せるがまま叫んでしまった、という事実を突きつけられている気分になった。それは、自分にとって一番避けたいと願っていることだった。一番恥ずかしいことでもあった。

「……そんなに私を辞めさせたいのか?」

「このままだと拓きかけた交易路が消えちまうかもしれん。今言ったようにな、お前が退治人代理だと不味いことも色々あるんだ、わかってくれるか」

 ハヴィルは席を立って、また来る、と言い残し、返事も待たずに部屋から出ていった。困っていない時に来ないで欲しい、と思ったのは初めてだ。

 泣き出したアリエンを抱えて立ち上がったままのリェイは、ふと考えるのだ、いっそ、何もかも燃やしてしまえるような符を作りたい、と。


 夜半、なかなか泣き止まない娘を連れて、リェイは階段を降りていく。

 付き人は誰もいない。環は完全なる暗闇には包まれておらず、都市の壁に等間隔に並んでいる透かし彫りのランプの灯りが、足元を照らしている。見上げれば、黒々と影を落としているのは幹。その枝葉が消えるまで目で追っていっても、人の数を超す翠の葉が眠るその先の夜空に星を探して見付けることは出来なかった。サーディアナールのすぐ下で空を拝むのはとても難しい。見えたとしても薄い青がちらりと覗く程度だ。

 アリエンが夜泣きをするのは珍しい。リェイは子守歌を口遊んだ。

「枝に抱かれ眠る我が大樹のいとけなし子、あなたはその内に小さな炎を秘めて夢に遊び、やがて荒れた大地を滅びの御手から救うでしょう――」

 幾度も通って慣れた道だ。シシルスは自分が生んだわけではなかったし、一緒に居た時間もまだ長いとは言えないけれど、それでも、愛しさを抱いていることに変わりはない。アリエンに対して思うのと同じように。

「――つよくおなりなさい」

 強くなりたかった。

 樹上と樹下が互いに抱いている面倒なものなど全て燃やし尽くしてしまえるような強さが欲しかった。力が欲しかった。もしも、森に住んでいるまま、何も持っていないままなら、ただ己の火の気を鍛えることや符を開発することに、ありったけの力を注げただろう。

 だけど、リェイは傷付いた者を放っておけなかった。それが樹下の退治人の掟だからだ。

 そうして、ヴィオという男を知ってしまった。僅かな恋心が愛ある番いに変わったことも、人を生む痛みも、竜だろうと虫だろうと人だろうと植物だろうと全てのものに触れる時に感じる生命の感触も、その為に人生を費やしたいと願うことも。そしてそれは幸せだった。守りたいものだった。

 一度ぽろりと零れた涙が、次々と溢れてくる。もっと強くなりたかった。あっという間に視界が滲んで、階段に蹴躓きそうになって、慌てて下まで降りた。

 見張り交代の途中で人を呼びに行っているからだろうか、控えの間には誰もいない。

「炎の精霊王ヴァグールの思し召しの下に、土の精霊王クレリアの御代に力を与えたまえ」

 シシルスは身体を丸めて寝そべっていた。しかし、金の双眸は薄く開いていて、リェイが一歩踏み出せば、穏やかな唸り声と共に首を傾げてくる。どうしたの、とでも言いたげだ。長い首が伸ばされて、その鼻先が頬にそっと当たった。いつの間にかアリエンは泣き止んでいて、竜の巨大な顔を一生懸命に見つめて、笑い声をあげている。

 その後ろには石碑が佇んでいる。これを符にしたらどうなるのか、と思った。模様は全て、既にシンター紙に写し取っている。符に描き出すだけでなく、織物にしたらさぞかし美しいだろう。刻まれている模様――否、文字だ――の意味が分かれば、色を変えてみるのもいいかもしれない。少なくとも、気晴らしにはなると思えた。

「こんばんは」

 と、突然、歌うような美しい女の声が響き渡った。

「――誰だ?」

「あーあ、もしかして、忘れてしまったか」

 周囲を見回しても、他の誰かの姿はない。くすくすという笑い声を聞いて、リェイは風に波立つ樹上の貯水池を思い出す。実体のない何かが訴えかけているのだろうか――例えば精霊王クレリアのような、と疑問に思った時だ。

「あなたの左の、もう少し高いところを御覧なさいな、〈烈火の魔女〉さん」

 言われて探した自分の左側、壁と一体化した柱の上の方に、穴が開いていた。そこから、エルフィマーレン族淡水氏の女の上半身が飛び出して、こちらに向かって手を振っている。

「セザンナ!」

「覚えていてくれたみたいで嬉しいよ。こんな夜更けに、珍しいじゃないか、リェイ。それに、また可愛い子を連れている……二人目か? セザーニアの祝福がありますように」

 思わぬ再会だった。顔をもっと近くで見て話したかったので、リェイは柱の方に向かう。シシルスが起き上がって歩き出した気配を背後に感じながら、目を丸くしている娘を抱き直した。そういえば、アリエンが淡水氏を見るのは初めてだ。

「ありがとう、セザンナ。この子はアリエン、娘だ」

「〈花弁〉か、リェイそっくりだ。私を見ても動じないのは珍しいな」

 そう言って、セザンナはにっこりした。 歌姫は相変わらず美しかった。自分のような人間とは大きく異なり、人らしさを幾分か失ったいささか恐ろしげな容貌ではあるが、上がった唇の端は綺麗な笑みを形作っている。首筋にある鰓の切れ込みが、一定の速度で開いたり閉じたりしていた。

「でも、気付かなかった、こんなところがあるなんて……どうやってここまで来るんだ?」

「ここは古から存在する水路だ、私達が上と下を自由に行き来出来るようになっている。私は、割と結構な頻度でここに来る。その子だって焦っていない、顔見知りだから」

 指差した先には、警戒する素振りも見せぬ、落ち着いた様子の竜の姿。

「シシルスとは会っていたのか?」

「ふうん、この子は〈種〉という名前なのか……同じ眷属の仲間より大きいのに。何度も会ったよ。上にいる竜の眷属達は、私達エルフィマーレン族淡水氏の存在を知っている。でも、最初、この子は私みたいな見た目の生き物を知らなくて、教えるのにちょっと時間が掛かった」

 リェイは思わず声を上げた。

「上にいる竜の眷属、って……セザンナは、上と下を行き来しているのか? 一体、どこをどう通って、ここに来ることが出来るんだ?」

「ここは、淡水氏の間に語り継がれている導きの場所だ」

「……導きの場所?」

 石碑の間にやり取りが響いている。誰も入ってこない。

「遥か昔から……ヴァグールの言伝をクレリアが受け取ってセザーニアがそれを感じた時、私達は人をここに導く役目があるらしい。それを先導するのが歌姫だ、と、先代から教えられた」

 その時、リェイの頭の中に何かが閃いた。この石碑はもしかしたら何か関係があるのかもしれない、今セザンナが言ったことも、もしかしたら刻まれているのではないか、と。


 炎、風、水など、術を使う生き物に生まれつき備わっている気質の名しか解読することが出来なかった石碑の文章。それを、気質の名を表しているであろう模様が出てくるごとに区切って、それぞれ色を変えて、布の端に細かく織り込んでいく。それ以外の文章は、前半と後半で分けて、布の上と下に配置した。

 それは一ヶ月や二ヶ月では決して終わらない、時間の掛かる作業だった。それどころか、毎日二刻頑張っているにも拘らず、半年経っても図案の四分の一しか進まない、というような有様だ。様々な色の糸をふんだんに使う複雑極まりない構図にしようと思った過去の自分を恨んだが、リェイは決してこの挑戦が嫌いなわけではなかった。

 その間も、二ヶ月に一回の頻度で、シシルスの命を奪おうとする騎士達が樹上からやってきた。成長の限度を知らぬシシルスは手加減が出来ない。樹上の勇猛果敢な騎士達は、自分達の相棒である騎獣と共に、全てが大樹の礎となった。

 それが九回を数え、ヴィオとリュークの手紙が五通くるまでに、アリエンは寝返りを覚え、母に向かって「あーたま」と言葉を紡ぎ、リェイがシシルスと石碑に会いに行っている時にはドーサの前で掴まり立ちを披露し、柔らかな赤毛を伸ばして耳の下で二つに括るようになり、それから、日課になっている湯浴みをさせようと追いかけてくるドーサから逃げるのが楽しいらしく、施術院じゅうを誰よりも元気に駆け回るようになった。

 転んだ時の合言葉はこれだ。

「フェーレス、フェーレス、痛いのを持って行ってあげてください」

 その合間を縫って、二日に一度くらいの頻度で、リェイはシシルスに会いに行った。以前のように、姿を見る度に大きくなっているというわけではなくなってきたが、それでもこの竜はまだ成長しているらしい。聖句を唱えて開く巨大な扉に彫られているクレリアの、差し伸べる手くらいの大きさにはなっている。前脚の指にある一番短い鉤爪でさえ、リェイの腕一本分程の長さだ。

 機織り、子育て、退治人組合の代理人としての仕事、符の開発。常にリェイが忙しかったというのもあって、ハヴィルが再び接触してくることはなかった。自分が言ったことが一体何であったのかを理解しているからこそ顔を合わせなかったのかもしれない、と思えたが、真偽の程はわからない。

 その話は色々な所に拡散していたらしかった。

「退治人組合の代理が男と交代するという話を聞かされたのだが、いつになるのかね?」

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