宵の種火は新芽を抱きて
久遠マリ
プロローグ
宵闇
「どういうことだ、エイデルライト」
彼の目の前で、友が苦しそうに囁いた。
揺らめく昼間の砂漠のような色をした長い髪が、後頭部の崩れた結い目からはらりと解けて、風に靡く。森林蛾の繭から紡いだ糸で仕立てられた美しい胴着を身に付けているが、それを貫通して付けられているのは数多の傷。どれも致命傷には至らない、しかし、流れる血の量は決して少ないわけではなく、成人をもう間もなく迎えようとするしなやかな身体をよろめかせる程だ。衣服の裾や胸元に施されているのは、幅広の翼を拡げた嘴黒鳥の刺繍、白い糸で模られたその翼は、紅に染め上げられていた。太陽が夕の刻を穿つ紅と金の光の中において、足元は覚束無い。
細い枝の上で、大樹サーディアナールの恩寵を宿した実が、恋に目覚めた若者の頬のように色付いている。それは、成人の試練の果てに、人間よりも大きな嘴黒鳥の祈りを抱く青年に啄まれるのを待っていた。堅牢な骨を成形して拵えた槍を手にしているエイデルライトは、その場で羽ばたいて浮いている自分の足元にあるそれの存在を知っていたし、相対する者が一番に大樹の恩寵を手に入れて、次代の樹上政府の中核を担う人物となるであろうことも知っていた。
そして、全てを止められるのは自身しかいないことにも気付いていた。
「理解していないのか、ヴィオライト」
彼が名を呼べば、ヴィオライトの秀麗な顔は歪み、眉間には皺が刻まれた。何かを言いたげに開かれた形のいい唇はしかし、言葉を紡ぐ代わりに、堪え切れない痛みに呻き声を漏らす。
そうだな、と、彼は独り言のように呟いた。
「君はここで大樹の礎となるのだし、これで最後だから、教えてやろう」
「……エイデルライト、貴様、このようなことをして、ただで済むと思うな」
揺れる枝の上で今にも落ちそうになっていた筈のヴィオライトが、腰の鞘から引き抜いた短剣を構えて、徐々に此方へにじり寄ってくる。執念の為せる技なのだろうか、しかし、あのままでは枝に髪が引っ掛かった弾みで落ちてしまうかもしれない、エイデルライトはそう思った。そして、自らが手を掛けようとしているにも拘らず、相手に向かってそのような想いを抱いていることに気付いて、彼は、自分の羽ばたきの音と怨嗟の声が枝を揺らす風と共に散っていくのを聞きながら、淡く微笑むのだ。
騎獣に乗る大人達から危険だと言い聞かされていた場所があった。小さくて細かい若葉が生い茂る大樹の東の末端、英雄しか行けぬと言われている大樹の天辺に程近い針葉の領域、西の不思議な形の枝と巨大な葉の上。大人の目を掻い潜って、ヴィオライトと共に駆けた木漏れ日の中の記憶が、鮮やかに蘇り、瞼の裏で花開く。自身がやらなければいけないことだった。共に樹上を飛んで回った愛しい従兄弟であろうと、そこに情を抱くものではないことも彼にはわかっていた。
「ヴィオ、私は君が好きだったよ」
「……この期に及んで、どの口が何をほざいている、その翼をもいでやろうか」
どす黒いものに塗れた声にそう言われて、エイデルライトは溜め息をついて、考える……今しがた口にした自分の想いは伝わらなくても良い。それはあくまでも自身の勝手な想いに過ぎない。感情に振り回されがちな竜の巫女の世話に明け暮れる日々を送る彼は、巫女と共に昼を過ごすうちに、己の気持ちを諦め、手放すことに慣れきっていた。
「その前に君は大樹の根元へ吸い込まれておしまいだ、シャマルライトと同じように」
夜明けに震える西の空のようなヴィオライトの双眸が、驚愕に見開かれた。
「……父上と?」
「そう、シャマルもそんなものを持っていた、僕にも見覚えがある」
エイデルライトは短剣を指差した。囁き声は風に乗って、二人の全身だけでなく、肉体に内包された見えないものも擽っていく。
「……エイデル、父上が、大樹の礎となられたというのは、本当なのか」
「シャマルは政府を裏切っていた、樹下の火使いを恒常的に樹上へ誘おうとした罪だ、火使いはその存在だけでサーディアナールを脅かす……そのような危険を樹上に持って上がってきてはいけない」
「証拠は」
「その剣だ、ヴィオ」
信じられない、という表情で、ヴィオライトが剣を見つめた。エイデルライトにもその手の中にあるものがはっきり見える。優美な形をした柄に埋め込まれているのは陽光にきらりと光る赤い石、鋼は何度も火にくべて鍛えられ、独特の紋は、火影が踊るように浮いた複雑な銀色。
「樹下の火使いは優秀だと聞くけれどね、だけど、こっちでは歓迎されるかどうか……そんなもの、何処で必要とするのか訊いてもいいかな、それに、君のいつも持っていた竜骨の剣はどうした?」
「……これは、試練に赴くのなら役に立つだろうから持っていけと、トリニエライト叔父様が下さったのだ……竜骨の剣は、置いてきた、家に」
「……憐れだな」
エイデルライトは首を振った。顎の下で切り揃えた髪が頬を叩く。彼は槍を構え直し、鋭く成形された堅い骨の切っ先をヴィオライトに向ける。
「トリニエがシャマルを謀った、その剣は奴がシャマルから証拠品として取り上げたものだ……運が悪かったな、ヴィオ、色々な可能性に目を向ける頭くらいはあっただろう、君」
血の滴る白い穂先の向こうで若者が下唇を噛み締めた。骨とて油断してはならない、鋼の短剣に勝るとも劣らぬ威力を発揮するのが、成形され、磨き上げられた一物である。エイデルライトが手にしているのは、その昔、大樹の天辺で竜の卵を得た英雄が愛用していたものであった。そして、エイデルライト自身は出生の時より、騎獣や竜などを必要とせぬ身体であった。
背には純白の翼が一対。
枝の上に下り立つ。足の幅の太さしかないそれはしかし、狭い枝の間を掻い潜って自由に飛ぶことを生業とした彼の体重をしなやかに受け止め、大きくたわんだ。
「嵌められたのだよ、シャマルと一緒に、君は」
小さく悲鳴が上がった。ヴィオライトが一瞬で身体を滑らせ、短剣を持った右腕のみで枝を抱き込むのを、彼は両翼を羽ばたかせながら見る。上下に揺れる中で伸ばされた左手の革手袋を、枝から飛び出た棘がやすやすと貫いて、血が滴り落ちた。
「貴様にも嵌められたということか」
「……僕はただ、トリニエの言う通りに動いているだけだ」
「くそ、この、伝書……伝書しか出来ぬ尾白鳥野郎」
ヴィオライトの声に怒りが炎となって渦巻いたのがわかった。
小さな身体、白黒の羽毛を持つ可愛らしい鳥の姿が、エイデルライトの脳裏を羽ばたきながら過っていった。握り潰せる程度の存在に喩えられた己の立場にほんの一瞬恨みを覚えたが、そんなものはすぐに、心の底から湧いてくる憐みに呑まれて消えた。
「口には気を付けたまえ、と言いたいところだけれど、僕は君を許そう」
エイデルライトは、劫火に化けた相手の怒りを、呑まれたい程に愛しいと思った。最早残り火にも満たぬ程に弱ったヴィオライトの命は、細枝の上で風に吹かれて今にも消えようとしている。しかし、信頼していた者にどれだけ傷付けられても尚、腹の底から湧いてくる己の力を信じて、彼の友は向かってくるのだ。そうして感傷に浸りながら自分の足下まで迫ってくる姿を見つめていたから、気付くのに遅れた。
火によって鍛えられた鋼が一閃。
ふわりと浮くのは、愛も恋も一緒くたにしたような分別のつかぬ色。サーディアナールの恩寵と呼ばれる果実が、戻ってきた腕に当たり、飛んで、その瞬間に枝を大きく揺らすのは、自らの身体を空に差し出すことを選んだ、友。
「ヴィオ!」
解けた長い髪が陽光の中に広がって踊る。何をしようとしているか、はっきりとわかった。
大樹の実が目の前で短剣に刺さる。花弁のように麗しい唇があっという間に汁を啜り、槍を構えて飛び出したエイデルライトの目の前で、親指の爪に満たない大きさのものを、ヴィオライトは驚くべき速さで掻き出した。
綺羅星の如き、しかし小さな大樹サーディアナールの種。歯を立てられたのが見えたと思った時、それは呑み込まれる。白い喉が動くのはごくりと一度。
直後、放たれるのは、夕日よりも眩い光。
それはヴィオライトの身体を包み、大樹の実を身体に宿して恩寵を得ることのなかったエイデルライトの視界を、あっという間に奪った。
だが、鍛えた翼と腕は裏切らない。彼は決して忘れることはなかった、今、自身が為すべきことを。
繰り出した槍から伝わってくるのは、友の腹の肉を穿つ、確かな手応え。聞こえてくるのは呻き声、薄く目を開けた彼の視界に映るのは、落ちてゆくその姿。
それに向かって、大樹サーディアナールの恩寵が蔓となって伸びてゆく。それに向かって手を伸ばす友は、確かに果実の中心に秘められた種を呑み込み、大樹の加護を得ていた。しかし、それを断ち切ることは可能だ。エイデルライトは、落下する者を助けんとする蔓が何本も伸ばされるのを、手にした槍で次々と断ち切った。切断された蔓があっという間に萎びて、一本、二本と落ちていく。
これが彼の、夕刻の仕事だった。
その遥か下、夜の帳よりも暗い、暗い樹下の森へと、ヴィオライトの身体が吸い込まれていく。その顔に浮かんでいたのは、怒りではなく、笑みだった、まるで嘲るような。
「貴様は所詮、尾白だ」
幻聴だったかもしれない。けれど彼には、はっきりと聞こえたのだ。
とびきりの場所だと自負してやまなかった、樹上の開けた場所に存在する広い枝の上。そこに複雑な模様を描くかのように生え、茂り、翠に染まった夕暮れの陽光を散らす枝葉をつけた大きな空間が、彼の居心地の良い住処となっている。だが、それさえも今のエイデルライトの気を晴らしてくれはしない。彼は帰ってそのまま寝台に倒れて眠ってしまいたかった。
だが、彼を慕う人々や彼が世話をしている人々は、それを許してくれない。翼のついた背が重かった。三層に分けられた彼の家の一階には、様々な人が集ってくる。自身が仕え、人々に崇められている竜の巫女とて例外ではない。帰宅した彼を出迎えたのは、竜翼をその背に抱くその少女だった。
「戻ったのね、エイデル」
別の所を向いていたらしい少女は、身体を横に向けたまま首だけ振り返ってそう言うと、全てを見透かすような黒い双眸で微笑んだ。隙間が空いているだけの何も嵌め込んでいない窓から入ってくる濃い紅の光が、二つに分けて結ばれた髪や、大きく拡がる皮膜の翼の黒さ、彫りの深い顔立ちに白い肌を、一層際立たせている。尊い存在であるから尚のこと、と、自らも有り難がられてきたエイデルライトは、躍起になって少女に飛翔を仕込んだ。その甲斐あって、巫女はどこへでも元気に飛び出していく厄介な存在になってしまったが、静謐を内に抱いているかのような黒を纏う姿は、いつ見ても神秘的であった。
「……どうしてここにいらっしゃるのです、ファイスリニーエ様」
「予感がしたの」
エイデルライトが十歳の時に世話を任されてから、ファイスリニーエは不思議なことを言う少女であった。それから六年、少女は美しい十四歳へと成長を遂げ、ここに佇んでいる。
「どのような予感ですか?」
「血の……私、お腹が痛くて、貴方ならどうすればいいか知っているでしょう」
少女は相も変わらず微笑みながら、困ったように言った。
「腹が?」
そう訊いた瞬間、少女が流血していることに彼は気付いて、次いで、思わず息を呑んだ。脚を伝う液体の色が、自身の持つ槍に乾いてこびり付いた友のそれの色と、よく似ていたのだ。
「ファイスリニーエ様……女人を呼んで参ります、私では不都合でしょう」
「貴方なら知っているでしょう」
少女ではなくなってしまった。彼女はエイデルライトのやること為すこと全てを正しいと思ってはいないが、他の誰かの手は借りようとしない。自分でやるように言い聞かせてきたのは他ならぬ彼自身であったし、上手くいかないことは彼が手伝ったりもしたが、彼女はやがて自己と他者の境を知り、分別を身に付けた。
偉大なる生命の揺り籠である大樹サーディアナールが出現する以前の、遥か昔、数多の命を徒に奪う、という罪を犯した人々の代わりに、地の底に吸い込まれてしまったと言われている土の精霊王。クレリアという名を抱いたその存在のように崇められる竜の巫女は、身の回りのことは殆ど全てを自身の手で為すようになった。
「……お召しものを準備して参ります、奥で湯浴みをなさって下さいませ」
「わかったわ」
微笑んでから去っていくファイスリニーエが真の女となる日は近いように思えた。竜の巫女でなくとも、彼女はやがて美しく成長するだろう。そして、誰かと番うとしたら、おそらくエイデルライト自身だ……同じ、空を飛ぶことの出来る翼を持つ者として。彼は政府の意向によって定められるであろう己の未来が輝かしいものであることを大樹に祈った。
己の意志はそこにない。
「そうだ、所詮、尾白だ」
エイデルライト。貴様は所詮、尾白だ。
誰もいなくなった部屋の隅、陰になった場所に放り出した槍が、消えゆく火のような友の声をにおわせて、立ち上る煙のように、空虚に向かってからりと啼いた。
そうやって、エイデルライトが自慢の友を手に掛けたのは四年程前のことだ。
いつも立てて持っている竜骨の槍には竜を模した装飾がある。エイデルライトは、槍を両手で抱え、まるで拝謁するかの如く、勇壮で美しい生き物を見上げるのが好きだった。
気付けば、その竜の目と対等に語り合えるようになっていたのだ。
今朝、視線を合わせた時に気が付いて、己の成長に驚いた。大樹サーディアナールの枝を切って持っていこうとする飛行型の魔獣の退治に騎獣部隊と赴く回数が増えたことにより、長く飛行をする機会が多くなったような気がするが、きっとそのせいだろう。友の命への嘆きを糧に己を研鑽することを怠らず、そのおかげか体力も背もぐんぐんと伸び、若者は四年間で三回も鎧を仕立て直していた。
自らの力とばかり向き合っていて、エイデルライトは、他者どころか自分の外見すら、その時まで歯牙にもかけていなかったのだ。そうやって何も見ようとしなかったから、普通なら気付けた筈の兆候も、何一つ拾っていなかった。
「ヴィオが見つかったそうよ! 今までずっと樹下にいたのですって、息子もいるみたい」
だから、竜の巫女としてのつとめを終えて家にやってきたファイスリニーエが、開口一番にそう言った時、彼は耳を疑った。
「何だって?」
「ヴィオは試験の日に落下して大樹の礎になった、って、皆が言っていたけれど。サーディアナールの恩寵はちゃんと宿っているそうよ、取調べをした人が言っていたわ。よかったわね、エイデル、あなた、あの日からずっと元気がなかったから」
生きていたのだ。死んで礎とならず、命を繋ぎ、子まで為して。
エイデルライトの心の中を、喜びと恐怖が竜巻となって荒れ狂い、暴れまわった。ヴィオライトが大樹の種を呑み込んでサーディアナールの恩寵を手にしたのは彼も見た。そして、今なお鋭く全てを穿つ英雄の槍を手に、落ちていく友を救おうとした大樹の蔓を断ち切ったのは、他ならぬ彼自身のこの手である。
ライトという名を抱くシルダの一族は、樹上政府の根幹に関わるが故に、感情を露にすることを是としない。それに則って彼も様々な想いの発露を押し込める日々を過ごしていたが、寒くもない真昼、燦々と降り注ぐ陽光の中、出る声は囁きとなって震えた。いつもより視界が上下に広い。
「……生きていたのか」
「知らなかったの、エイデル? 皆、何日も前から噂していたわよ……ただ、片翼が火使いだから、上には来られないって」
ヴィオライト本人のことどころか家族らしき者の詳しい噂まで流れていたのに、それに全く耳を傾けなかった自分を、エイデルライトは恥じた。友に向かって刃を向けたあの時の方が様々なことに敏感だったな、などと思いながら、彼は首を傾げ、問う。
「まさか、火使いと番った、と?」
「うん、子供は男の子だけれど、土使いらしいわ……その子だけは、近いうちに連れてくるそうよ」
ファイスリニーエはそう言って淡く微笑んだ。彼女の黒髪は十五の成人の折からずっと、編み込みの入った複雑な結いである。あの頃のように風を捉えて靡きはしない。美しく育った十八歳の瑞々しい笑顔は、友の生存を知らされた二十歳のエイデルライトの心を、更に掻き乱した。
成ると思われた二人の婚姻は、未だ行われていない。腕力だけを鍛えてその他を怠っていた己が未熟のせいだろうと彼は考えている。
「……そのような詳しい話を、どこから聴いたのですか、ファイスリニーエ様」
「今朝、トリニエが言っていたわよ」
「トリニエが」
その人が言ったのであれば真実だろう、と彼は思った。
トリニエライト・シルダ。他ならぬ、エイデルライトの父だ。終始穏やかで、兄であるシャマルライトを尊敬してやまない人物であったが、同時に抱えきれない何かも心の内に存在していたらしい、兄よりも先に番いを見つけて婚姻を成した。その一年後、エイデルライトが背に純白の翼を一対抱いて生まれた頃から、少しずつ、彼の父はサーディアナールという大きな存在に傾倒し始めた……というのは、彼の母の言葉である。決定的だったのはファイスリニーエの誕生の際で、トリニエライトは竜翼を抱く子の出現に感極まって大声で泣き喚き、樹上政府の者が集う大会堂で身を伏しながら、クレリアへの祝詞を口から溢れさせたのだ。出生からずっと実の親からも崇められて生きてきたエイデルライトも、父とは呼んだこともないその姿を間近で見ていた。
だが、父は正気である。自身の血を分けた兄であるシャマルライトとその息子のヴィオライトを葬ることを企て、試練の日を狙って謀ったのも、他ならぬトリニエライト本人だからだ。樹上のあちこちで枝や葉の枯れが確認される中、樹下との結びつきに目を付けたシャマルライトは、樹上と樹下の統一を計画し、一定の支持を集めていたが、樹上の民の不安を煽ることもあった。その人の生存の報はまだ知らされていないし、生きているという噂も聞いたことがないから、既にサーディアナールの礎となったのだろう。
しかし、ヴィオライトは生きていた。しかも、樹下の者と番って。
「トリニエが言っていたのですね、ならば、信用してもよいでしょう」
樹下は、暗い、暗い森だ。
罪を犯した者が送られ、火使いがそれを統べ、大樹の根を齧る魔獣が蔓延る地だ。決して近付いてはならないと大人達は口を揃えて言った。三歳の頃に枝の上から見下ろした森の暗さに対して抱いた底の知れぬ恐怖のせいで、エイデルライトもその言いつけだけは頑なに守っていた。
まだ斜陽には程遠い時刻、空を覆う雲に翳る陽の光。ヴィオライトが帰ってくる。瞳を閉じた、己を苛むものは樹下の森よりも暗き瞼の裏の闇。しっかりと根を張っていた筈の心を獣が牙を剥いて食い荒らしていく光景が、脈打つ黒一色の中で幻となって見えた。
妄想の中で咄嗟に繰り出した槍の一撃を避けて、樹上には存在しない四つ足の獣が、尾白、と友の声で吠え、飛び掛かってくる。
彼は目を開けた。心配そうな表情が目に飛び込んでくる、その顔はファイスリニーエ。
「エイデル、具合でも悪いの?」
「……いいえ、元気ですよ。少し、昔のことを思い出していました」
エイデルライトは微笑んだ、いつもの何でもない顔を、繕って。
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