Departure

 明日は、いよいよ俺がC県へ引っ越す日である。まだ四月には少し間があるが、会社からの要請もあり、少し早く働き始めることにした。この家とも、明日で一時お別れである。


 おかげで。

 まだ午後も始まったばかりだというのに、すみれが俺のそばを離れてくれない。

 三月とはいえ、快晴でも少し肌寒い季節だ。梅は咲いたか桜はまだかいな。ああ今年は花見をここでできないな。そんな風情があるのかないのかわからないような思いをはべらせつつ。


「……なあ、すみれ」

「どうかしたの? お兄ちゃん」

「いい加減、左腕離してくれないか?」

「やだ。寒いんだもん」


 俺の左腕に、必死にしがみついてくる妹。サラサラツヤツヤな長い黒髪がさっきから肩にまとわりついてくる。

 寒いか? 窓から春の光は射し込んではきているが、寒いんなら仕方ないな……などと、一瞬納得しそうになった自分が怖い。なんだかんだ言っても、俺も寂しいのかもしれない。


 まあ、荷物の整理も終わったし、必要なものも宅配便で送っているので、あとは俺が移動するだけではあるから、今日は特にすることはないのだ。


 ――――生理現象の処置以外はな。


 俺は無言で立ち上がりトイレに向かって移動するのだが、トイレのドア前まで来ても、妹は左腕を離そうとしない。


「……だから、離せ」

「やだ」

「トイレに入れないだろうが!」

「わたしなら気にしないよ。だからお兄ちゃんも気にせずどうぞ」

「んなわけにいくかバカ野郎!!」


 俺は無理矢理力ずくで妹から離れ、個室のドアを閉めた。どうでもいいけど、ドアを挟んだ向こう側から妹の気配が消える様子はない。――音を聞かれるのがちょっと恥ずかしい、と思ったのは内緒だ。


 ジャー、ゴボゴボ。


 水を流し、手を洗ってからドアを開けてトイレから出るなり、またまた妹が腕を組んできた。


「……手くらい拭かせろ」

「わたしの髪で拭いていいよ、はい」

「はい、じゃねえ!」


 手を洗わなきゃ抱きついてこないんじゃないか、そんなことを考えた自分が甘かった。手を洗わなくても、『妹の業界ではご褒美です』になりかねん。


 俺はあきらめてリビングのソファーに戻った。コバンザメも当然一緒だ。


「……なあ」


 全く生産性のない今日の行動に少しじれた俺は、妹を説得する方向に進むべく、会話を選択する。


「どうかしたの? お兄ちゃん」

「おまえは、そんなに寂しいのか?」

「…………」


 今更そんなことを訊いてくるな、と言われる代わりに、左腕をアームロック気味にめられた。こいつの得意技だ。


「いたい」

「……お兄ちゃんは、寂しくないの?」


 不安そうな声。こいつが妹じゃなかったら、たぶんなぐさめようはいくらでもあるんだろうが、いかんせんこいつと俺は兄妹である。ゆえに、オーソドックスな手法を取るしかなかった。


「んなわけあるか。ひとり暮らしは初めてだしな。でも……」

「…………でも?」

「あの日の誓いを忘れなければ、俺は、たぶんやっていけると思う」

「…………」


 兄妹としての――再始動リローンチをしたあの日。そう、あそこからまた始まって、これからも続いていくのだ。そう思えば、俺にとっては、一年や二年くらいなんてことはない。


 だが、俺の答えが満点ではなかったせいか、妹が下を向いてしまったので、様子を横目で確認しても必然的に震える長い髪しか目に入らない。


 ――――ああ、髪、伸びたな。綺麗だ。


 こいつの不安を消し去る方法を模索するより先にそう思ってしまった俺は、無意識に妹の髪を右手でかきあげてしまった。一瞬ビクッとした妹が、驚いて俺を見上げてくる。


「……どうしたの?」

「ん、いや。髪、伸びたなって、あらためて思った」


 ついつい、綺麗な長い髪を指でいじってしまう。ツヤツヤで、サラサラ。妹はくすぐったそうな声を時折上げるが、されるがままである。


「お兄ちゃんのために、ここまで伸ばしたんだよ」

「……俺のため? なんで俺のためなんだ?」

「お兄ちゃん、長い髪、好きでしょ?」


 手いたずらをやめられない俺に妹が投げかけてきたのは、なんとなく意味深なような、そうでもないような、そんな不思議な感覚に襲われる言葉だった。


「いや、別に」

「えっ……」

「でも、おまえには長い髪が似合う。相変わらず、垂涎モノの髪だな」


 髪を梳いた手を、そのまま妹の頭に乗せて俺は断言した。妹の瞳の中に俺が映っていることが確認できたので、ちょっとドキッとする。


「……お兄ちゃんも、思わずヨダレ出ちゃう?」

「……ああ、そうだな」


 いつか聞いたことのあるような問いかけだが、今回は否定できない。俺は、気づいたら妹の髪を口元に引き寄せ、それにキスをしていた。

 まさか、目の前で自分の長い髪に口づけされるとは思っていなかったのだろう。妹はきょとんとしてから、少し遅れて頬を赤く染めた。


「……キザったらしい……」

「あ、ああ、すまん、つい」


 俺はようやく、ずっといじっていた妹の長い髪を手から離す。そしてお互いに沈黙。無意識とはいえ、とんでもない行為をしてしまったのではなかろうかと後悔するも、時すでに遅し。


「……なんか、普通にキスされるより、すっごい恥ずかしいかも……」


 どうやら妹も考えることは同じだったようだ。お互いに赤みは増す一方である。


「もう、まったく……」


 やっと俺の腕を放したかと思いきや、妹は目を閉じてから、俺がキスした髪の部分を自分の唇に寄せる。

 まるで映画に出てくるようなワンシーンに、不覚にも見とれてしまった。窓から差し込む春の光を受けて輝く長い髪と――――こいつの聖母のような表情。


「自分で自分の髪にキスするなんて、変だね」


 そう言いながら髪の毛をちょこちょこ照れくさそうにいじっている妹が、俺の肩に身を預けてくる。触れあっているところがやたらと熱く感じられて仕方がない。


「……ん。兄エキス、補充した」

「…………」

「わたしの兄エキスが切れる前に、帰ってきてね」

「……そうだな」


 今は、これが精一杯。


 が、悪くはない気分だ。しばらく、穏やかな時間に、ふたりで身をゆだねよう。日が暮れるまで。


―・―・―・―・―・―・―


 そして、いよいよ別離デパーチャーの朝。おふくろは仕事なため、見送りにはきていない。


 最寄り駅が新幹線の停車する駅なため、都会に出るには便利なこの街。平日なせいか、もしくは時間帯のせいか、ホームに人はまばらだ。階段を登り終えた俺と妹が、同時に時計を見る。あと五分で新幹線が到着する。あと五分で――――


 妹は、俺が両手に荷物を持っているためか、腕は組んでこなかった。その代わり、隙間なくぴったりと身を寄せて、複雑な表情のまま無言で語りかけてくる。今更、寂しいだの悲しいだの言っても仕方がないわけで。

 俺も直接脳内に語りかけようと努力するが、もし成功したらそれはそれで『ファ〇チキレベルで扱うな』と妹に怒られるかもしれない。


「……あ」


 妹が、やっと声を上げた。新幹線が遠くから迫ってくるのを確認した時だ。それはじょじょに動くスピードを落としていき、等身大の大きさになったと同時に停まった。

 ドアが開き、降りてくる人がいないことを確認してから、俺は一歩前に進んで振り向く。


「一周忌には、帰ってくる。……じゃあな」


 今生の別れじゃないのだから、この言葉だけで充分。電話もSNSもあるんだ。いつでも連絡は取れる。


 ――――寂しいなんて、ことはない。


 暗い雰囲気のまま、妹が軽く頷いたのを確認し、俺は新幹線に乗り込んだ。ドアの先でまた振り返り、妹のほうを向くと同時に流れるアナウンス。ホームにいる妹とは、もうすぐ無機質なものによって分断されてしまう。


『ドアが閉まります。ご注意ください』


 プシュー。


 音を立ててドアが閉まりかける直前、妹は俺に手を伸ばして、今まで必死にこらえていたのであろう涙をこぼした。


「……やだ」


 全部閉まったドアのガラス越しに、妹の号泣した顔が確認できてしまい、俺も思わず手を伸ばす。もう届かないと知りながら。


「……やだ、やだよ、いやだよ! 寂しいよ、耐えられないよ! お兄ちゃん、そばにいてよ! 寂しいよ、さみしいよおぉぉぉ……」


 ゆっくりと動き出す新幹線を追いかけながら、妹が叫ぶ。


「おはようって言いたいよ、おやすみって言ってほしいよ、一緒に笑いたいよ、離れたくないよ、ずっとそばにいてよ! お兄ちゃん、おにいちゃあぁぁぁぁぁん!!!」


 ドア越しですら聞き取れるくらいの絶叫。だが、やがて新幹線の速度は上がり、妹の声も姿も、消えた。

 いきなりの虚無感に包まれた俺の頬を、なにやらわけのわからない感情が伝う。


 ――――ばかやろう。もうホームシックにさせやがって。妹エキスがエンプティだよ。


 自分で決めた道とはいえ、こんな思いをする羽目になるとは思わなかった。

 俺は果たして耐えられるのだろうか、妹の体温を感じられない生活に。


「……はは、弱気だな」


 自分の弱さを認めよう。俺は自嘲気味につぶやいてから上を向いて、頬を伝う何かを強引に止めた。

 いつか、永遠にたどりつけるように、俺は俺のやるべきことをしなくてはならない。

 顔を三度ほど両手で叩き気合いを入れ直すと、やっと車窓からうつろいゆく景色が見えるようになった。


 負けてられるか。がんばれ、俺。


 ――――たとえ離れていても、独りじゃないんだから。

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