五十日

 オヤジの四十九日の日がやってきた。


 おふくろは、あれこれ忙しそうであった。また倒れないか心配ではあるが……


 寺での法要、納骨、会食がワンセット。

 妹は、会食のお酌に引っ張りだこだった。なんでも、『正夫(まさお)さんの娘さんは、とんでもない美少女らしい』と会社で噂が立っていたと聞いた。……たぶん広めたのはオヤジ本人だろう。


 どうせ大げさな噂だろうと、オヤジの会社関係の人たちは思っていたらしい。

が、葬式の時に見かけたら、想像を遥かに超えたあまりの美少女っぷりに、びっくりしたとかしないとか。

 ……おーおー、いい年したおっさんまでもが、鼻の下のばしてやがる。まったく……


 会食会場の片隅で、瓶ビールの栓を開けて飲み物の準備をしつつひとり憤っていると、妹が小足で駆けてきた。……すごく嫌悪に染まった表情で。


「兄貴……」

「……どうかしたか?」

「…………お尻、触られた」

「なんだと?!」


 ガシャーン。


 怒りのあまり、瓶ビールを倒してしまった。が、誰もこちらを向かないくらい、会場は賑わっていた。会食の参加者は、みんなもうできあがってるかのようだ。


「……誰に触られた?」

「……右から四番目の、あのおじさん」


 どれどれ。……あのおっさんは確か、オヤジの同期で同じ部署の……

 まったく、自分の子供と同じ年頃の相手にセクハラなんかするから、オヤジに出世争いで負けるんだよ。


「……あのおっさんのビールに、デスソース混ぜても許されるよな」

「だめだよ兄貴! そんなことしたら、お父さんが極楽に行けなくなっちゃうってば!」

「ううむ……」


 偲ぶ席だ。オヤジのために徳を積まねばならぬ。だが……セクハラおっさんめ、貴様は舌抜かれてこいこの野郎。

 怒りがおさまらない俺は、右手で拳を握ってしまうが、妹はその拳を手に取り、黒い服に覆われている自分の臀部へ導いた。


「…………代わりに、お祓いして」

「……なんのまねだ」

「ん、だから、気持ち悪い手の感触を清めるため、兄貴の手でお祓い」

「…………」


 臀部に当てたまま、妹は掴んでいる俺の手をぐるぐると撫で回させるかのように動かす。俺はされるがままだった。

 ……妹の臀部で、あのセクハラおっさんみたいな気持ちになるわけにはいかない。心頭滅却諸行無常。無心だ無心。


「……ん。お祓い完了。ありがと兄貴」

「あ、ああ……」


 やっと俺の手は解放された。握っていた拳はいつの間にか開かれていた。心なしか、妹の頬が少し赤く染まっていた気がする。

 そして、妹はきたときと同じように、小足で駆けて戻っていった。お酌の旅に。


 手に残る臀部の感触。こういう表現、なんか変態っぽい、と思いつつじっと手を見る。別に働いても暮らしが楽にならないわけではない。汗ばんではいるけど。


 ……兄妹でこんなことして、オヤジの極楽行きがなくなったりしないよな……?


―・―・―・―・―・―・―


 そして、無事に四十九日の法要がすべて終了した。これでオヤジは仏になった。……たまには帰ってきてくれよ。


 事後処理も終えて、家に戻る。少し休息する時間を費やすと、外は真っ暗になっていた。

 日が短くなったことを実感し、季節は移り変わっていくんだな、としみじみ思う。


「将吾、すみれ、今日はお疲れさま。とりあえずは一段落ね」


 気を張っていたおふくろも、やっとほっとしたような表情を見せた。だが……


「……ほんとにお疲れさまでした。うー、思い出しても腹立つなあ……」


 妹はご立腹だ。まだお尻を触られたことの怒りが収まらないらしい。


「あら、すみれは何を怒ってるの?」


 そういやおふくろには報告してなかった。まあ、それどころではなかったのは確かだが、一応説明だけはしておこう。


「オヤジの会社の同期の人に、お尻触られたんだとさ」

「……えっ?」


 おふくろがきょとんとしている。そりゃそうか。四十九日でセクハラはしゃれにならん。


「ほんとにー。タダで触らせるなんて、もー!!!」

「タダじゃなきゃいいのかよ……」

「五万くらいもらわないと割に合わないー!」

「……それはやめてくれ頼むから。しかも妙にリアリティあふれる金額設定……」


 そんなふうに俺と妹が漫才をしていると、おふくろがまじめな顔で怖いことを言ってきた。


「……すみれ、ちゃんと蹴り飛ばしてお返ししたんでしょうね?」


 今度は兄妹できょとんとする番がやってきた。いや、そんなことしたら……


「……ううん。お父さんが極楽に行けなくなったらイヤだから、我慢したよ」

「何言ってるの! そんなことされて一番怒ってるのは、正夫さんに決まってるでしょ! 倍返しでも足らないわよ!」

「「………………」」

「西野(にしの)のドスケベが……まったく、退職金出ないようにしてやろうかしら……」


 おふくろ怖い。……この様子なら、西野とやらのおっさんのビールにデスソース入れても、意外とほめられてたかも。


「……そういえば、西野の息子って、あなたたちと同じ学校なのよね。たしか、生徒会役員やってたとか自慢してたけど……」

「「えっ」」


 妹と思わずハモった。詳しいなおふくろ。オヤジと出世争いしてたから情報集めてたのか?


 ……しかし。我が校の生徒会は、やはり卒業前にシメなければならないらしい。きっとそれは運命だ。


―・―・―・―・―・―・―


 四十九日の夜も更けた俺の部屋。不意にノック音が三回響く。


「兄貴、ちょっといい?」

「……おう。入って良いぞ」


 恐る恐るドアを開けた妹は、スマホを片手に持っていた。


「ちょっと相談。このあたりでバイト探してて、よさげなところが牛丼屋以外にもいくつかあったんだけど……」


 ああ、そうか。四十九日明けたらバイト活動するって言ってたな。本気だったんだ……って、当たり前か。


「どれどれ。他はどこだ」

「こことここ」


 スマホでバイト探しをしていたらしい。画面を覗きこむと、他には……弁当屋と……ドラッグストア? 


「……ここ、この前行ったところじゃねえか」

「うん。でも、時給高めだし、九時で終わりだし、わりと好条件だよ」

「……TENKAやスキン買う客もたくさん来るかもしれないけどな」


 無言で叩かれた。いたい。


「別にそれはどうでもいいよ! で、兄貴は……どこがいいと思う?」

「……ん? 俺の意見でいいのか?」

「うん、それが聞きたくて」

「……そうだな。うーん…………」


 真剣に悩んでみる。だが、どのような違いがあるのかなんて、俺だってわからない。

 ……うん。それならば、条件はひとつだ。


「……どこでもいいんじゃないか。おまえの好きなところで。ただし……」

「ただし?」

「……セクハラ被害に遭わなそうなとこにしとけ」

「………………」


 どうやら今日のことを思い出したらしく、またまた妹の顔が少し歪む。


「それが、ストレスなく働ける最低条件だろ」

「……うん。でも……」


 頬に手を当て、妹が俺を真正面から見つめてきた。思わず尻込みしてしまう弱い兄。


「……でも、なんだ?」

「もしセクハラに遭ったら、また兄貴にお祓いしてもらうから、平気」

「………………」


 しばらくの沈黙。夜の十二時を知らせる、ピピッという小さな音が時計から聞こえてきて我に返る。

 妹から、歪んだ表情はすでに消えていた。七変化も甚だしい。気を取り直し、俺は会話を続ける。


「おっさんの手も俺の手も変わらんだろうに……」

「全然違うよ! 嫌いな人には、どこ触られてもセクハラだけど、心を許した大事な人なら、それはセクハラじゃなくてスキンシップになるんだよ」

「………………」


 初めて知った。そして、それが乙女心なのか、それともこいつの特殊性癖なのかすらもわからん。妹という生き物は奥が深い。

 ……それにしても。そこは、“兄だから”じゃなくて、“心を許した大事な人”でいいのだろうか。そんな疑問がふと浮かぶ。


 だが。


「……だから、そのときは、またお祓いお願いしたいな?」


 そんなおねだりをされたら、断れるわけがない。俺は久しぶりに考えるのをやめた。


「……わかったよ」


 俺は妹の頭に手を乗せて、撫でまくる。……これも、イヤなやつにやられたらセクハラになるんだな。


 ……まあいいか。


 だってこいつは今、こんなにとびっきりの笑顔でいるんだから。




「お兄ちゃんなら、どこを触られても……わたしはすごく嬉しいよ……」

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