永遠の前の日
オヤジは、目に見えてやつれていった。
脚の骨に転移したガンが激しく痛むようで、痛み止めにオピオイド系の鎮痛剤を使うようになった。いわゆるモルヒネだ。
だが、意識に影響は出ない程度の量のはずでも、なにやら幻覚が見えるのか、オヤジは、寝たままで何もない空に突然手を伸ばす、というようなことがたびたび起こった。
話しかけても朦朧とすることもしばしば。
そんな中、最悪な出来事が起きた。オヤジが、MRSAに感染してしまったのだ。
MRSAとは、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌のことで、いわゆる抗生物質が効かない、厄介な進化を遂げた細菌のことである。
院内感染であることは明らかなのだが、そのことに関しては仕方のない部分もあるという。弱った身体には大敵だ。
おかげで、オヤジとはもうまともに話すらできなくなってしまった。それでも……側にいたかった。少しでも長く。
そんなある日。
「…………将吾」
「……オヤジ。話して大丈夫なのか?」
呼吸器をつけたオヤジが話しかけてきたので、びっくりした。
「……ああ、今は、不思議と気分が楽だ」
珍しく、オヤジの言葉がはっきり聞こえる。なぜだろうか。
「……すみれは?」
「今、売店に行ってる。今日の夜は、おふくろが泊まるって」
「……そうか。おまえたちには迷惑かけてばかりだな」
「……そんなこと!」
俺は今まで、オヤジにどれだけ甘えてきたのだろうか……そのくせにオヤジにしてやれることは、何も思い浮かばない。……何度、自分の無力さに腹を立てたか、数え切れないくらいだ。
「オヤジに、さんざん苦労かけさせたのに、何も返せないよ、俺……」
「……そんなことはない。おまえの成長が、俺にとっての喜びだった……俺の大事な家族に、見返り要求するわけないだろう」
「……オヤジ……」
「おまえは……おまえにしか進めない、道を行け……強くなれ」
「………………」
オヤジへのせめてもの恩返しなのだろうか。俺にしか進めない道を行くことが、強くなることが……今の無力さを痛感している俺に、果たしてそんなことができるのか。
「……少し疲れた。俺は休む」
オヤジがそう言い終わった直後に、妹がおふくろと途中で合流したらしく、一緒に戻ってきた。
「わかった。……おふくろもきたし、俺はそろそろ帰るよ。また明日な、オヤジ」
「お母さんきたから、わたしも兄貴と一緒に帰るね。お父さん、また明日来るねー」
「……ああ」
俺と妹が帰宅の挨拶をすると、返事してオヤジが目を閉じる。
これが、オヤジとの最後の会話だった。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
次の日。
早朝に、泊まり込みで看ているおふくろから、連絡が入った。
「……お父さんが急変して危篤なの。すぐ来て」
俺と妹は、制服のまま、急いで病院へ。息を切らして階段を駆け上がり、オヤジの病室へ向かう。
病室へ到着して中に入ってみると、なにやら看護師と医師が必死になっており、病室に置かれている機械がアラームを鳴らしている。あまりに不穏で、恐ろしい光景だった。
おふくろは、目元をおさえながら、オヤジの前で立ち尽くしていた。俺たちはあわててそこに駆け寄る。
「オヤジ!」
「お父さん!」
俺たちが声をかけると、一瞬オヤジがピクリとしたような……気がした。
だが……直後、山や谷のグラフを描いていた機械が、突然一本の線しか描かなくなり、そばにいた担当医が、瞳をライトで照らす。
「十月六日午前八時……ご臨終です」
その言葉を聞いて、おふくろと妹は泣き崩れ、オヤジの身体に顔をうずめた。
「……俺たちがくるまで、待っててくれてたんだな……」
昨日の、『また明日』の約束を律儀に守って、オヤジは逝った。
「……あなた……」
おふくろは声にならない悲しみを。
「お父さん、お父さん、お父さん! ……うわあぁぁぁぁぁ、ぁぁぁぁぁぁ……」
妹はくぐもった声で悲しみを。
「……もし、また会えたら……その時は、酒を酌み交わそうぜ、オヤジ……」
そして俺は、十年ぶりくらいに、涙で、悲しみを……
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