本当の意味
気づけば、肌寒い十月も終わろうとしている。
ついこの前まで『夏バテ』などと騒いでいたのが嘘のようだ。
昼の長さが徐々に短くなってきたことを実感しつつ、俺はこの二ヶ月の間に起きた出来事を回想する。
倉橋家は、オヤジが亡くなってから、かなり変わった。
おふくろは、パートから正社員になった。一家の大黒柱の代打だ。
そのため、家にいる時間が少なくなってしまったので、妹が可能な限り家事を手伝うことになった。
そして俺は……大学入試の追い込みをしながら、これでいいのか、と思うようになった。
おふくろも、そして妹も、家族のために、できることをしている。俺だけ、自分のためのことしかしていないのだ。
俺だけが……何も変わっていない。
「兄貴が今やるべき事は、大学に合格することだよ。がんばってね」
そう言って、妹は応援してくれているが。素直にそうするだけですまないと思うのは、男としてのプライドか、それとも傲慢か。
そんな中、おふくろが過労で倒れた。今は念のため検査も兼ねて、病院で点滴を打ってもらっている。
おふくろが倒れるのも無理ない。オヤジの葬式が終わってからも、休みなく動いていたから。
まるで『忙しいほうが、何も考えなくて済む』といわんばかりに。
オヤジに続いておふくろも、だ。俺たちは気が気じゃなかった。深刻な病状じゃなかったのは不幸中の幸いというかなんというか。まったく無茶しやがって……
だが、おふくろがそこまで働かねばならない理由に、経済的なこともあるのは想像に難くない。
葬儀にかかる費用も安くはない上に、まだ住宅ローンも残っている。汚い話だが、オヤジの保険金もあるにせよ、それを食いつぶしてしまうのは心許(こころもと)ない。
その上、俺が進学して、勿論バイトはするにしても、果たして家族に甘えることが良いことなのだろうか。奨学金などは良い噂を聞かないし。
それらの理由もあり、ここにきて、俺の気持ちに、揺らぎが生じ始めた。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
「……誰が、喜ぶの?」
金曜日の夜。妹と二人きりの食卓で、俺は軽く『大学行かずに、就職しようかな』と告げてみたら、そのように返された。
そう言われてしまうと、言葉に詰まる。『自分を犠牲にしすぎると、後悔しか残らない』と、オヤジから忠告されたことは忘れていないから。だが……
「……俺が、そうしたいのなら、オヤジだって喜んでくれると……」
「本当にそう思うの、兄貴は? 顔に迷いが出てるの、丸わかりだし」
「………………」
ああ、そうだよな。薬学部……薬に携わるような仕事をしたい。それは俺の中で、未来の希望として存在している。
だが、薬剤師になるには……薬学部を卒業するまでの六年、さらに費やす羽目になる。あと六年も……甘えないとならないのか。それならば、いっそ就職したほうが……
自分の力の無さを実感しながら、そんな葛藤が続いているのだ。
「兄貴は、そんなこと考えないで、自分の道を進んで。わたしも、兄貴のためにできることなら、いくらでもサポートするよ」
そんな、俺を気遣ってくれた妹の言葉すら、無力さに苛(さいな)まれている俺に突き刺さり、つい熱くなってしまう。
「俺が、おまえやおふくろに対して、同じように思うのは、ダメなのか?!」
「………………」
妹は、何も返してこなかった。ただ、不安そうな顔をするだけで。
お互いに、家族を思いやることを考えてるだけなのに……どうして、うまくいかないんだろうな……オヤジ。
―・―・―・―・―・―・―
ついカッとなってしまい、妹に強い口調で八つ当たりした自分が恥ずかしい。
謝らねばならないとは思いながら、些細な何かが邪魔をして、素直になれなかった。
こんな日はとっとと寝るに限ると、ベッドに横たわるも、目を閉じるといろいろなことが浮かんできて、眠れそうにない。
そんなふうに、寝つく努力が空回りする真夜中。不意にドアのノック音が響いた。
「……どうした?」
ガチャ。
「兄貴……一緒の部屋で、寝ていい?」
スウェット姿の妹がドアを開けて中に入るなり、そう言ってきた。とりあえず部屋の明かりをつける。
「いいなら、布団持ってくるから……お願い」
「……かまわない」
俺の許しを得た妹は、軽く微笑んで、布団を持ちに再度出て行った。
久しぶりに、妹の笑顔を見た気がする。そうだ、こいつは……オヤジが亡くなってから、笑っていなかったのだ。
布団を俺のベッドの隣に敷いて、妹は中にもぐった。顔を隠しながら、ぼそっとつぶやく。
「なんとなく、寂しくなって……来ちゃった」
「……ああ。俺も……」
寂しい、と、直接表現しなかったのは、ちょっとした男のプライドからか。そんなこと、隠しても仕方ないのにな。
「家族がそばにいることが、こんなに安心するってこと、当たり前すぎて忘れてたのかもしれないね」
どうやら、思うことは同じらしい。俺の胸中を、妹が代弁してくれた。
「……さっきは、すまなかったな。自分の無力さについ苛立(いらだ)っちまった」
おかげで、素直に自分の弱さを認めることができた。
「ううん、気にしないで。わたしもそうだから。わたしはなんで大人じゃないんだろう……って、ずっと考えてた」
「…………」
「大人なら、わたしにとってかけがえのない大事な人を、守ってあげられるのに……って」
思うことは……本当に、同じだ。こいつは俺の半身なんじゃないか、と思うくらいに。そうだよな……家族なんだから。
俺は、オヤジが亡くなって、『やりたいことのある子供』でいることに罪悪感みたいなものを感じてしまっていた。
そして、“いっそ薬学部をあきらめ就職して、『やりたいことのない大人』になったほうがいい”と思ってしまうような、俺の中に生じた迷いを消化しきれてなかった。
……でも、『やりたいことのない大人』という定義が、そもそもおかしいのだ。今の俺には、家族を守ることが『やりたいこと』なのだから。
何より優先すべきは、家族を守ることだ。
「……わかる。俺も、同じだよ。家族を、守りたい。守れるような大人になりたい」
だが。そう吹っ切れたつもりの俺が、先ほどの言葉に同意すると、妹は、それを否定するかのように、語りかけてきたのだ。
「うん。でも、だからこそ、不安なんだよ……」
「……なぜだ?」
水を差されたような気がして、理由を尋ねる。すると……
「……もしもの話だよ。わたしたちを守ろうとして、兄貴が進学せずに、就職したとするとね」
「ああ」
「たとえ兄貴が、進学しなかったことをまったく後悔しなかったとしても、わたしたちは、兄貴の人生を変えさせてしまったことを、きっと一生後悔するんだよ」
「…………え?」
「そして、兄貴はわたしたちに後悔させちゃったことで、きっと自分を責めちゃう。……優しすぎるから」
「…………!!」
「結局、誰も幸せになれないの。だから、不安」
脳天に雷が落ちた。
そうか……オヤジがあの時言っていた『自分を犠牲にしすぎると、後悔しか残らない』っていう言葉の、本当の意味がやっとわかった。
後悔するのは自分だけではない。まわりにさせてしまう後悔こそ、取り返しのつかないものなんだ……
「だから兄貴には、自分の進むべき道を簡単に変えないって、約束してほしい……な」
「………………」
妹のその言葉に、俺が反論などできるわけがなかった。自分の視野の狭さが恥ずかしい。
俺は、家族のことを一番に考えてるつもりで、実際には自分のことしか見えてなかったのだ。
『おまえにしか進めない道を行け。強くなれ』
ふと、オヤジの最後の言葉が思い出される。……そうだ。オヤジはこのことも教えてくれていたじゃないか。
安易に道を変えてしまうことは、単なる弱さだ、と。『真の大人』になるために必要なことは、目の前の困難に負けず、自分の道を行く強さなんだ、と。
……そうして初めて、自分も、大事な人も、幸せにできるんだと。
今の自分の無力さを受け入れよう。それでも前に進める、そういう人間に……俺は、なりたい。
「……ああ。そうだな。負けたよ。おまえは俺より大人だ」
改めて、こいつにはかなわないと思い知らされてしまい、心から白旗を掲げる。
「……ううん、そんなことない。わたしは、ただ……」
兄なのに、こいつより浅慮な自分が恥ずかしくて、情けなくて、本当に悔しい。
だから……名誉挽回のため、精一杯足掻いてみるか。『真の大人』に早くなれるように。オヤジの最後の期待を裏切らないように。
そして……こいつが、いつも笑っていられるように。
今こそ、強くなる時だ。そう理解すると、突然睡魔が襲ってきた。やっと眠れそうだ……
「……ただ、楽しそうに薬の話をしていたお兄ちゃんが、忘れられなかっただけなんだよ……」
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