名も知らぬ救世主

 夏休み中の夏期講習は、7月中続く。だが、妹と顔を合わせないようにするには、むしろ好都合ではある。


 兄を全うするとか言っておきながら。

 妹に、またあのようなドキドキの感情を抱いてしまうのではないだろうか。そんな恐怖が頭から離れない。自己嫌悪も甚だしい。

 結局、集中などできないまま、今日の夏期講習は終了した。


「よっ、なんか今日は難しい顔してたな。妹と喧嘩でもしたのか?」

「なんだそれは!」


 講習が終わってから、クラスメイトに話しかけられた。図星ではないが近いところを突かれて、つい返事が荒っぽくなってしまった。こんな奴無視だ無視。


 そういや、こいつの名前は…なんだっけ。まあ、どうでもいいか。


「おー、怖い怖い。でも、美少女な妹いて幸せだよなお前は。俺にあんな妹いたら、毎日ドキドキしっぱなしだわ」

「……………………妹にドキドキなんかしねえだろよ、普通は」

「そうか? お子ちゃま妹ならともかく、あんな可愛くて歳の近い妹なら、ドキッとすることの二つや三つあるのが普通だろ」

「…………」


 普通? …………普通って何だろうな。


「いくら妹でも、異性に違いはないわけだからな。逆に全然ドキドキしなかったら、男としておかしいんじゃないかね」

「……そうなのか」

「大抵の奴はそうじゃないのか? …もちろん、ドキッとするシチュエーションとかも必要とは思うけどな」

「…………」

「いつもドキドキしてるわけじゃあるまいし。ふだん近くにいて何も感じなくても、一緒に生活してたら不意打ち食らうこともあるだろ?」

「…………そうかもな」


 なるほど。こいつの言うことも一理ある。


 近くにいるだけでドキドキするなら恋だ。

 だが、ふだん近くにいて何も感じなくても、シチュエーションなどで不意にドキッとさせられることは別におかしくないわけか。俺も思春期男子だからして。


「ま、その中でもお前の妹は別格だろ。あんな超絶美少女だもんな」

「…………それ関係あるのか?」

「大ありだろ。美少女は何やっても決まるもんなんだから」

「屁ェこいたりゲロ吐いたりしてもか」

「ちょ、おま、そんなとこ見たことあるんかよ!……あるか。一緒に暮らしてるんだもんな」


 いや、ないぞ。それよりお前は勘違いしてるぞ。あいつの可愛さは中身にあるんだからな。


「ま、お前が妹と仲がいいのはうらやましいよ。俺の妹なんか、俺より絶対先に風呂に入りやがるからな…」


 名前も知らないこいつが涙を流す幻覚を見た。かわいそうに。

 だが、実際に妹がいるこいつの言葉だ。世間一般の共通認識として受け入れてよいのだろう。


「……ありがとな。ところで……」

「どうかしたか?」

「お前の名前、なんていうんだっけ」


 悩める俺に助言してくれた、名も知らぬクラスメイトが盛大にずっこけた。無視だ無視、とか思ってすまん。今度は名前を調べておくからな。


―・―・―・―・―・―・―


 夏期講習が終わって帰宅する俺の足取りは、行く前とはうってかわって軽かった。


 つまり、たまたまお風呂で、たまたま水着の妹が、たまたまドキドキさせることをやってきたから、俺はドキドキしてしまっただけなんだ。

 たとえ妹であっても、異性には違いないんだから、そういうことも稀によくあるんだ。

 妹相手に年中ドキドキしてるわけじゃないんだから、別におかしくないんだ。

 うん、きっとそうだ。俺は、たまにあいつにドキドキしたっていいんだ。


 ……あいつが妹じゃなかったら、なんて、考えなくていいんだ……


 今まで割り切れなかった自分の情けなさに腹が立つ。

 俺は、ひょっとすると常識とか倫理とかに弱いのかもしれない。だが、背徳感を否定する事実さえ揃えば、今度は完全に割り切れそうな気がするのがなんともバカだよな。

 俺の気持ちは、他人に助けられ、俺が決めた。


「ただいま」


 家に到着し、まずリビングを覗いたが、妹はいなかった。部屋にいるのかな。


「……ふむ」


 さて、先ほどのまとめから行くと、あとは俺が、年中妹にドキドキしてないことを確認すればいいわけだな。

 そうすれば、俺は世間一般で言う普通の兄だ。


 よし、妹に会ってみよう。

 俺はとりあえず妹の部屋に押しかけることにした。

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