モノクローム・シスター

 ついに明日がセンター試験の日である。いろいろすっ飛ばしすぎだ。


「兄貴。……いよいよだね」

「おう。まあ、特に不安はないがな」


 夕食後のリビングにて、余裕の会話が繰り広げられている。もうここまできたら今さらじたばたしてもしょうがない。


「デキる人間の風格がにじみ出ている……ッッッ! 風格の……無駄遣いッッッ!」


 そういいつつ、家の中だというのに帽子をかぶった頭を両手で押さえ、なんてこったのポーズをとる妹。


 クリスマスにプレゼントしたロシアン帽は、いたく妹のお気に入りらしい。家にいるときや学校に行くときももちろん、教室にいるときすら外さなかったので、先生に注意されたという話は噂で聞いた。

 自分の意志で選んだわけではないのだが、これだけ気に入ってもらえていると、プレゼントしてよかった、としみじみ思う。


「おまえも二年後には他人事じゃなくなるんだぞ」

「うー、でもわたしはたぶん、ギリギリまであがいちゃうと思うな。性格的に」

「ご利用は計画的に」

「今からがんばらないとかぁ……わかんないところあったら教えてね」

「俺が、教えられるような距離にいるときはな」

「………………」


 まだ先、もう少し先、それらを経てもうこんな季節。きっと、俺がこの家からいなくなるのもすぐだろう。そんな思いがこもったような、妹の沈黙である。


「まあ、がんばれ。俺も明日はがんばる」

「…………うん」


 ちょっと居心地が悪くなるような雰囲気を壊そうと、無難な着地点に会話を持って行く。これ以上は如何(いかん)ともしがたい。

 俺が両手で膝を叩き、立ち上がってリビングを出ようとすると、妹は、思い出したかのように、右手のにぎりこぶしで左の手のひらを叩いた。


「あ、そうだ。兄貴、明日のための御守り、買ってきたんだよ。持っていってね」

「……おお、それはそれは」


 妹の言葉から察するに、学業成就の御守りを近くの神社から購入してきた、というところか。神頼みはアテにしないほうだが……せっかくの好意を拒否するような非道なことをするつもりもない。


「うん。わたしも念をこめておいたから……きっと兄貴を助けてくれるよ」


 俺は礼の代わりに、妹の頭をロシアン帽の上から優しく撫でる。家族間での、些細な思いやり。それこそが打算のない、貴重な善意だ。


 今日は早く寝よう。俺の人生にとって、一つの選択肢でしかないセンター試験だとしても、やるからには全力で。


―・―・―・―・―・―・―


 夜が明けて、センター試験の日の朝。

 肌寒いが、澄んだ空気と冬晴れのおかげか気持ちよい目覚めだ。体調もすこぶるよい。今日なら化学は満点取れそうに思える。

 前の日に準備していた筆記用具をチェックし、足りない物がないことを確かめたあと、カバンに入れて、階段を降りる。


 朝食はトーストとハムエッグ。胃もたれしないように、という配慮からか、軽めだ。家族三人で食した後、おふくろが一足先に、職場へと向かうため玄関先に立った。


「まあ、凡ミスには気をつけなさい。じゃあね」

「ああ。いってらっしゃい」


 この前の話のおかげか、俺にとっての『センター試験というもの』に対する意味を理解しているおふくろは、かける言葉も最低限なものであった。気負う必要はない。おふくろなりのエールであろう。

 おふくろが閉めた玄関のドアの音を聞いてから、俺も身支度にとりかかる。いつもの制服に着替えた俺は、ネクタイだけを、クリスマスプレゼントで妹からもらったものに差し替えた。


 俺にとっては、このネクタイが御守りみたいなものである。そんなふうに考える自分に対して、『開き直ったな』と改めて思い、苦笑いしてごまかして。


 ――――よし。戦闘準備完了。では、行くか。


「あっ……えへ、そのネクタイ……」


 妹が気づいて、相変わらずかぶっているロシアン帽を両手で深く下げた。

 ごまかすことなく、俺は「御守り代わりだ」と言い切り、玄関先で靴を履く。――兄と妹、などと今までずっと悩んでいたことは、とりあえず棚に上げて。


「いってらっしゃい! がんばってね!」

「おう」


 それでも若干の照れくささは隠せない。俺は声をかけられた後ろを振り向かず、右手を軽く上げてそのまま玄関を出た。


 バタン。


 だが……カッコつけて家を出たはいいものの、俺は家の門から歩道へ出て数歩歩き、あることを思い出した。


「本物の御守り、受け取るの忘れていたわ……ネクタイに気を取られすぎた」


 そうひとりごとを言ってから振り返ると。


 どうやらヤツも気づいたらしい。俺の視界には、『兄貴ー!』という呼び声とともに、御守りを掲げて玄関を駆け出してくる妹の姿と――――スマホ片手に、歩道を猛スピードで進んでくる自転車が同時に入ってきた。


「危ない!!」


 俺はとっさに叫んだが……自転車に乗っている男は、イヤホンをしていたせいか声が聞こえなかったらしく、家の門からいきなり飛び出してきた妹を視認してから、ブレーキを片手で引いた。


 ――――だめだ、間に合わない。


 自転車とぶつかり、地面に叩きつけられる妹が俺の目に映ると同時に、体の芯まで響く鈍い音があたりに広がって。


 その後――――モノクロのような、色を失った世界が、そこにはあった。妹は、倒れたままピクリとも動かない。

 俺はその場でしばし硬直してしまい、身動きどころか、声すら出すことができなかった。


「……………………」


 俺が確認できた、モノクロの世界でひとつだけついていた色は――――赤い、血の色。それが、俺を現実世界に引き戻す。



「……すみれ!? すみれェェェェーーーーッッッッ!!」



 俺の悲痛な叫び声に、道行く人々が足を止め、近寄って体を揺すろうとする俺を、見知らぬ中年男性が制止する。


「だめだ、頭を打っているから下手に動かさない方がいい。救急車が来るまで待つんだ」


 いつもの冷静さなど消え失せてしまった俺は、制止された体をじたばた動かしながら、地面に横たわったまま動かない妹に、届かない手を伸ばした。


 まさか、まさか――――こいつも、俺の前からいなくなってしまうのか――――


―・―・―・―・―・―・―


 誰かが呼んでくれたふたつの救急車。そのうちの一台に、妹と一緒に乗り込んだ。

 俺は、救急車の中で意識もなく横たわる妹を眺めながら、自責の念にかられるばかりである。


「俺が……俺が、御守りを忘れたりしなければ……」


 両手の指を組みながら、ただただ妹の無事を願う。今の俺にできることはそれだけ。

 もしもこいつがオヤジみたいに――そんな気の狂いそうな不安に襲われていた俺は、妹の閉じられていたまぶたが薄く開かれた瞬間を見逃した。


「…………う、あ…………?」

「……すみれ!!!」


 声を確認して、ハッとして妹の顔をのぞきこむ。視点が定まらないのか、瞳はうつろだ。


「…………おに、い、ちゃん…………?」

「よかった、意識が戻った……よかった……」


 妹がモノクロの世界から帰還した。ただそれだけで、こんなにも救われた気持ちになるとは。信じていないはずの神に感謝しつつ、どうしようもなく目頭が熱くなるのを感じる。


 これは――泣いてしまうかもしれない。俺はそう覚悟したのだが。そんな俺より先に妹が、突然感極まったように涙を流し始めたのだ。


「………うっ、うっ……あぁぁぁぁぁぁ……」

「どうした!? どこか痛いのか!?」

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」


 俺の問いには答えず、救急受け入れ先の病院に到着するまで、妹はただただ泣くばかりだった。


―・―・―・―・―・―・―


 妹の怪我は、結構な重傷だ。


 肋骨骨折、右手のトウ骨と右足のヒ骨にもヒビが入っていた。あと裂傷数カ所。口からの出血は、内臓からではなく、口周りの裂傷のせいらしい。腕からの出血もかなりのものだった。打撲は説明するのも面倒だ。


 ただ、不幸中の幸いというか、強打した頭部には、頭蓋骨骨折も脳内出血もなかった。脳しんとうだけらしい。

 打ちどころが悪くなかったのもあるだろうが、かぶっていた厚手のロシアン帽が、衝撃を吸収してくれたみたいだ。


『この帽子が、わたしを守ってくれそうな気がするよ!』


 妹の言葉が思い出される。俺が御守りを忘れなければ、こんな目に遭うこともなかったのだが……あの雑貨屋の店員には感謝しかない。もう意地悪はしないと決めた。


 あとは、妹に後遺症や傷が残らないよう願うのみ、などと考えていると、無機質な建物の中に響く、駆け足の靴音がこちらに近づいてくる。


「将吾! すみれは!?」


 仕事を早退したおふくろが、病院へとやってきた。顔色が悪い。思い出したのだろうか、オヤジのことを。


「今、処置してる。命に別状はないってさ」

「ほんと? よかった……」

「ごめん、俺のせいだ」


 おふくろはとりあえず安心したようで。俺が謝罪すると、背中を軽く叩いてきた。


「生きてるんだから、自分ばかり責めるんじゃないわよ。……センター試験、始まっちゃったわね」

「あ」


 すっかり忘れていた。今更、行く気にもならない。正直なところ、もうどうでもいい。妹(すみれ)が生きているのだから。


 そう、妹の存在より、大事なものなんて――――ないんだ。


―・―・―・―・―・―・―


 妹はしばし入院することになった。薬のせいか休んでいる妹が目を覚ますまで、そばで俺は待ち続ける。


「…………ん、んん…………」


 どうやら気づいたようだ。俺が傍らにいると理解した妹は、首はそのままに、大きく見開いた目を俺に向けてきた。


「目覚めたか。どうだ、気分は」

「………………最高」


 気持ち悪かったりしないか、という意味で聞いたつもりなんだが、そこで『最高』って返してくるこいつもこいつだ。脳は大丈夫なんだろうな、と、ちょっと心配になったので、理由を聞いてみる。


「そんな状態で、なんで最高の気分なんだよ」

「…………だって、お兄ちゃんに会えるんだよ? ずっと、これからも」


 なんと返せばいいのかわからず黙っていると、間を置いて妹はたどたどしく言葉を続けてきた。


「あのね、自転車にぶつかって、地面に頭を打って……火花とともに、意識が暗闇に飲まれていくときにね」

「……ああ」

「もうお兄ちゃんに会えないのかな、そんなの嫌だな……って、そんなことを、考えちゃったんだ、わたし」

「…………」

「だから、救急車の中で、お兄ちゃんが目の前にいたとき……ああ、またお兄ちゃんに会うことができた、大好きなお兄ちゃんにこれからも会えるんだ、って……そう思ったら、嬉しくて…………嬉しくて、涙が止まらなかったよ」

「…………」

「目から火花が出る、って、上手い表現だよね、ほんと。でも、こうしてわたしが生きているのは、帽子をくれたお兄ちゃんが、わたしを守ってくれたからなんだよね」

「それは……」


 違う、その帽子は俺が選んだものじゃないんだ。おまえを守ったのは俺じゃないんだ。それどころか、俺はおまえをこんな目に――――


 そんな否定を、言葉に出せない俺。ボキャブラリーは、貧弱どころか完全に消滅してしまった。


「……でも、わたしはお兄ちゃんに迷惑かけてばっかりで……今日だって、大事な日だったのに……お兄ちゃんの人生、大きく変えちゃったのに……」

「…………」

「それなのに……お兄ちゃんに会える嬉しさのほうが強いなんて……こんなわがままなわたし、お兄ちゃんの妹でいる資格なんて、ないよ……」


 妹が、またすすり泣く。日はあっという間に沈み、病室は薄暗くなっていたが、明かりをつける気にはならない。

 救急車のときの涙が嬉し涙だったのならば――――今の涙は、全く違う意味だろうから。


 こいつが泣いてるところを……見たくは、ない。


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