父の言葉

 病院に着いた。が、オヤジがどこにいるのかすらわからない。受付を探すのにも右往左往する始末。こんな時こそ落ち着かねばならない、と頭ではわかってはいても……


 オヤジは第二手術室の中だった。『手術中』のランプが、信じたくない現状を語るかのように点灯している。


「おふくろ!」


 第二手術室の外にある椅子に座っているおふくろを発見し、早足で近寄ると、おふくろが滅多に見せない不安そうな顔を、俺たちに向けてきた。


「オヤジは、いったいどうしたの?」

「……私もわからないわ。腹痛とともに動けなくなったってしか聞いてなくて……緊急手術が必要だと言われて……」

「…………お父さん…………」


 三人とも、何を話してよいかわからない時間が続いた。静寂を打ち破ったのは、手術室の扉が開く音だった。


 その後、俺たちは、オヤジの容態について説明を受けた。どうやら、胆道が閉塞してどうたらこうたらで倒れたらしいが、その原因については、他臓器の異常の可能性が極めて高いらしく、深刻そうな様子で即入院を勧められた。従うしかない。


 オヤジは絶対安静ということで、俺たちは検査結果を待つしかない状況だ。だが……


 こんな状態で、他のことが手につくわけねえだろ!


ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー


 オヤジが倒れて十日後。俺たち家族は、医師から絶望的な宣告を受けた。


 オヤジが膵臓ガンであること。

 足の骨などにも転移が見られるので、ステージⅣとなること。

 根治が望める状態でもなく、余命は半年あるかどうか、ということ。


 宣告を受けた時、おふくろと妹は泣き崩れ、俺は呼吸することすらしばし忘れてしまった。


 三人とも思考力を失った状態で医師と今後の話をし、とにかく苦しまないような治療を望む方向で決定した。オヤジの苦しむところは見たくない、というおふくろの希望だった。

 その後、少し落ち着いたオヤジの病室へ向かう。告知をするべきかしないほうがいいか。そんな悩みを抱えたままオヤジと会ってしまえば、病状を告げずとも感づかれるのは当たり前だ。


「……これも運命か……」


 隠し事をできない俺たちに、無念そうにそうつぶやいたオヤジの姿を、俺は一生忘れないだろう。


 オヤジのために俺ができることは……何も思い浮かばない。


ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー


 気づけば、九月も下旬にさしかかろうとしていた。


 俺は、日課のように、学校帰りにオヤジの病室を毎日訪ねている。

 今日は、俺の授業が早く終わったため、妹は一緒に来ていない。


 オヤジと、盛り上がらない会話をしながら、それでも共に過ごす時間は、限られたものだと。……そう思いたくもないのに、信じたくもないのに、それでも向かい合わなければならない現実がここにある。

 俺のボキャブラリーでは到底説明不可能な、この複雑な気持ちは、告知を受けてから常に晴れることはなかった。


「……なあ、将吾。おまえは……」


 ふと、オヤジが語りかけてきた。父親としての、威厳のある、それでいてあたたかい口調で。


「……おまえは、自分を大人だと思うか? それとも、まだまだ子供だと思うか?」


 予想すらしていなかった突然の質問に、俺は戸惑いを隠せなかった。言葉に詰まる。


「………………わからない。大人っていう定義の意味も、わからない」


 素直にそう返すと、オヤジは少し笑った。


「……あくまで俺の意見だが、自分のことで手一杯なのが子供、自分以外の大事な人のために生きることができるのが大人、だと、俺は思う」

「………………」

「おそらくおまえは、俺のせいで近いうちに大人になることを強いられるだろう。でもな、そう強いられても、自分を犠牲にしすぎてはだめだ。それは後悔しか残らない」

「………………」

「だから、おまえが薬学部に進学したいと真剣に言ってくれたことは、本当によかったと思っている。よくぞやりたいことを見つけてくれたな」

「………………」


 何も言えなかった。オヤジは、自分を犠牲にしすぎたのだろうか、俺たちのために。……そう思ってしまったから。

 例え、その言葉の真の意味が、俺の未来に対して向けたものとわかっていても。


「自分を犠牲にすることなく、大事な人を幸せにするのが真の大人だ。おまえならそれができると、俺は信じているぞ。……自慢の息子だからな」


 まるで遺言みたいな言葉だ。思わず激高してしまう。


「なんでそんなこと言うんだよ、オヤジ! 治ってくれよ、治してくれよ。またあの家で、みんなで楽しくメシを食いたいよ……頼むよ……オヤジ……」


 もう半狂乱でたたみかける俺の言葉に、オヤジは困ったように苦笑いした。


「……すまんな、ふがいない父親で」

「………………」

「俺が最後までできなかったことを、おまえにやってほしいと願うのは……ずるいかな」

「オヤジ……」


 俺は、オヤジの言葉に、何も返せなかった。当たり前だ、そんな覚悟は……まだ、ないから。


「……おまえとは、一度でいいから一緒に酒を飲みたかったな。すみれの花嫁姿も見てみたかった。会社を定年になったあと、徳子と旅行もしたかった……」


 無念そうにそうつぶやくオヤジのために、俺ができることは……何も思い浮かばない。




「……死にたく、ねえなあ……」

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