第38話 余裕なき戦い


 ――どうか無事にたどり着けますように。


 わずか百メートル足らずの距離を、私は一心に祈りながら進んでいった。


 やがて正面に、手術室のものとよく似た金属製の扉が見え始めた。私は扉の脇にまるでローカル線の到着を待つようぽつんとにたたずむ人物を見つけ、思わず駆け寄った。


「……テディ!」


「やあボス。良くご無事で」


 まだ敵の懐中にいるにも関わらず、荻原は呑気な口調で私たちを出迎えた。


「テディ、お前さんのよこしたデータ、実はな……」


 会うなり苦言を呈そうとした金剛に、私は人差し指で「しっ」という仕草をして見せた。


 荻原は荻原なりに任務を果たしている。ダミーの部屋に気づかなかったとしても、責められるいわれはない。


「テディ、この先だけど「狂戦士」の演習場よね?」


「そうです。今も恐らく百名前後が訓練中です。ここをくぐり抜けて奥のドアから出られれば、あとは地上に続くエレベーターまで一直線なんですがね」


「テディ、実はここにいる浦野医師が……」


 私は浦野医師がPー77の支配から九十九パーセント脱していること、「狂戦士」たちへの影響力を今もなお維持していることを簡潔に伝えた。


「私が先頭に立って血路を開きます。今ならまだ彼らも私の指示に従うはずです」


 浦野医師が力のこもった口調で言うと、荻原も「そう言うなら任せるぜ」と応じた。


「ただ、急いだ方がいいことには変わりありません。そろそろ伊丹医師が殺されたことが施設の中枢にも伝わっているはずです」


 浦野医師は厳しい口調で言うと、背後を見た。あの向こうには伊丹医師の死体が転がっているはずだった。


「わかった。しんがりは俺がつとめるよ。ドアを開けてくれ」


 浦野医師は荻原の言葉に頷くと、片方の手で夫人の手を強く握った。浦野医師がドアロックのパネル触れ、暗証番号が入力されると金属の扉が重い音を立てて開き始めた。


「……あっ」


 固唾を呑んで見ていた私たちの間に現れたのは、グラウンドほどもある広大なフロアと、思い思いの訓練にいそしんでいる男たちの集団だった。


 浦野医師が最初の一歩を果敢に踏みだすと、フロアにいた男たちの視線が一斉に浦野医師に集中した。


「……諸君、浦野だ。今から施設を訪問し終えた客人たちを外に誘導する。出口までの道を開けてくれないか」


 浦野医師が一声命じると、百名近いと思われる男たちが一斉に左右に分かれた。


「すごい……」


 「狂戦士」の中には銃器を携えた物もいれば、手術室で見た個体のように手足の一部が変形した者もいた。それらが一糸乱れぬ挙動で浦野医師の指示に従っているさまは、あたかも教祖を前にした敬虔な信者たちのようだった。


「さあ、行きましょう」


 フロアの中心に出現した「道」を目で示しながら、浦野医師が強い口調で言った。


 私たちは広いフロアを先頭から浦野夫妻、私、大神、金剛、荻原という順で横断し始めた。私は心の中で「絶対に両側を見てはいけない」と自分に言い聞かせていた。一体何が「狂戦士」たちの刺激となるかわからないからだった。



 フロアの半ばまで進んだ時、浦野医師が「扉を開けてくれ、彼らをエレベーターに誘導する」と言い放った。すると扉の両側にいた「狂戦士」がよく訓練された兵士のように素早い動作でパネルの操作を開始した。


 重々しい響きと共に開いた扉の向こうはやはり長い通路になっており、突き当りに階数表示のある扉が見えた。



 ――あそこまでたどり着けば、無事に地上に出ることができる!


 私はこみ上げる安堵感を飲み下しつつ、前方の眺めに全神経を集中させた。


 フロアの空気が一変したのは、残りの距離があと十メートルほどになった時だった。


 突然、フロア内のスピーカーから流れた緊急放送に、私たちの足も一瞬、止まりかけた。


「施設内のすべての人間に告ぐ。つい先ほど、伊丹署長が外部からの侵入者によって殺害された。手引きをしたのは浦野医師だ。見つけ次第、処分するか拘束せよ」


「……みなさん、走って!」


 浦野医師が叫び、私たちは一斉に扉の向こうに向かって駆け出した。フロア全体から怒りの渦のようなものが風圧となって押し寄せるのが感じられ、あちこちで人の物とは思えない咆哮が上がった。


 辛うじて扉の向こうに飛び込んだ私はその直後、金剛の「テディ!」という叫びに思わず振り返った。視線の先ではまだフロアの中にいる荻原が金剛に目で「行け」という指示を出していた。


「テディ、駄目よ!一緒に来て」


「俺は後から行く。早くエレベータに乗るんだ!」


 肩越しに振り返ったまま走る私の目に、扉の向こうに立ってこちらに背を向けている荻原の姿が見えた。だがその直後、荻原の身体を張った防衛線をすり抜けるようにして、数名の「狂戦士」たちが扉のこちら側になだれ込んでくるのが見えた。


「……ボス、ここは俺が食い止めます」


 大神の後ろを走っていた金剛が突然、足を止めて身体の向きを変えた。


「無理しないで、コンゴ」


 私が叫ぶのとほぼ同時に、目の前の金剛の姿にある異変が現れ始めた。


 こちらに見えている金剛の背中が少しづつぶれ始めたかと思うと、突然、二つに分裂したのだった。あまりの奇妙さに目を奪われた私は、思わずその場で足を止めた。


 そのまま見続けていると、襲いかかってきた敵を左右に分かれた二人の金剛が同じ挙動で迎え撃とうとしていた。しかし次に私が見たものは、二対二の格闘ではなく、片方の金剛を突き抜けて派手に転倒した「狂戦士」と、一体の「狂戦士」を必死で食い止めようとしている金剛の姿だった。


 ――一体どういうこと、これ?


「本物のコンゴは一人です」


 私と金剛の間に立って戦いの成り行きを見ていた大神が言った。


「超高速のショートリープを繰り返すことで、残像が発生するんです」


 残像……私が二人の金剛を交互に眺めていると、一方の金剛の姿が次第に薄れ始め、やがて息を切らした「本物の」金剛一人になった。


「よしコンゴ、後は僕に任せろ!」


 それまで成り行きを静観していた大神が急にそう叫ぶと、いきなりその場に四つん這いになった。


「大丈夫なのか、ワン公」


 かろうじて「狂戦士」を突き飛ばした金剛が荒い息を吐きながら聞いた。


「なんとかなるって。見てな」


 大神は力強く言い放つと、通路の天井に据えられた球形の照明をじっと見つめた。


「ウルフ、無理よ。犬になんかなったって、勝てないわ」


 私が思わずそう口にすると、大神は首をこちらに曲げ、にやりと笑って見せた。


 なおも見続けていると、大神の身体が膨らみ始め、着ているシャツが破れ始めた。


「おい、着替えはもうないぜ」


 金剛がそう声をかけた時にはすでに、大神の全身は長い体毛に覆われ始めていた。


 ――犬じゃない?


 最後にスラックスを脱ぎ棄てた時、そこにいたのは犬ではなく金色の体毛に全身を覆われた狼だった。狼はひとつ遠吠えをすると、こちらを狙っている「狂戦士」たちの行く手を塞いだ。


「……ボス、ここは奴に任せてエレベーターに乗りましょう」


 金剛がふらつきながら私の前まで来ると、目で前方の扉を示した。


「……でも、ウルフが」


 私がその場から動くことをためらっていると、金剛が「大丈夫です、ほんの数分、時間を稼ぐだけです」と言って背中を押した。


 目の前では金色の狼が「狂戦士」たちを先に進ませまいと、牙と爪を駆使した格闘を繰り広げていた。私は意を決して頷くと、身を翻してエレベーターの方に駆け出した。


 私と金剛がエレベーターの箱に飛び込むと、床に倒れこんでいる「狂戦士」の背で唸り声を上げていた大神が顔を上げ、こちらを見た。


「よし、そのくらいにして早く来い!」


 金剛が叫ぶと大神はひときわ大きな声で吠え、こちらに向かって駆け出した。狼はエレベーターに飛び込むと、そのままスイッチが切れたようにぐったりと床に身体を横たえた。


「……ちょうど三分か。危ないところだったな」


 金剛がそう言った途端、狼の身体が縮み始めた。やがて体毛が消え、狼はみるみるうちに元の大神の姿へと戻っていった。


「……せっかく拝借した服がぼろぼろになっちまったが、まあ、緊急事態だし仕方ねえか」


 金剛がそう言って安堵の溜息をついた瞬間、私はふいに重要なことを思い出した。


「そうだ、テディは?……テディ!」


 私は通路の奥に向かって叫んだ。やがて静まり返った通路の奥から、ふらつきながらこちらに向かって歩いてくる人影が見えた。


「……テディ!」


 ずたずたに千切れたシャツのあちこちに血を滲ませ、片方のサスペンダーをぶら下げた荻原は、私たちのいるエレベーターに乗りこむと力尽きたようにがくりと倒れこんだ。


「テディ大丈夫?」


「……ああ。見ての通りさ」


「いったい、どうやってあの人数をやっつけたの?」


「あいつらは皆、脳にGPSを埋め込んでいる。そいつを片っ端からスパークさせてやった。……もっとも自分に近い敵からってわけにもいかなくてね。挙句の果てがこのザマさ」


 ひとしきり報告を済ませると、荻原はエレベーターの壁にもたれかかって目を閉じた。


 浦野医師が壁のボタンを押すと、私たちを乗せた箱は地上に向かって上昇を始めた。


「……ボス。石さんと連絡が取れました」


「本当?」


「エレベーターの到着地点を見つけたようです。我々が上に着いたら合流できそうです」


 私は安心すると同時にあることに気づき、はっとした。


「ねえコンゴ。ヒッキはどうしたの」


「それが……」


 金剛が苦し気に言い澱んだのを見て、私は胸に不穏なざわめきが広がるのを覚えた。


「連絡が途切れているようです。……あるいは敵に捕らえられている可能性もあります」


「敵って……施設はもう脱出しているし、伊丹医師も「狂戦士」ももういないわ」


「あの連中はもう追いかけては来ないでしょう。待ち受けているとすれば……個人的に我々を恨んでいる連中です」


 ――蓬莱翁……トリニティか!


「もしヒッキが捕まっているとして、彼女の能力は使えるの?」


 私は探偵社の屋上で見た、古森の不思議な能力を思い起こした。


「……彼女の置かれている状況によります。彼女は完全な「闇」の中に一定時間置かれると、仮死状態になってしまうのです」


 私は背筋がぞっとするのを覚えた。今、ここにいるのは私と浦野夫妻、それに疲れ果てた金剛と傷ついた荻原、そして全裸の大神しかいない。これでトリニティと戦ったら……生きて戻れないかもしれない。


「大丈夫ですよ、ボス。まだ石さんもいますし、何とかなりますよ」


 私は金剛の言葉に黙って首を振ると、これまでの戦いの中で溜めこんでいた、ある思いを口にした。


「ここまでみんなに守ってもらって、最後まで背中に隠れているわけにはいかないわ。ここからは……私がみんなを、守ります」


             〈第三十九回に続く〉

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