第10話 病院の長い午後
――しまった、油断した……。でもなぜ、私が狙われるの?
カーペットの感触を頬に感じながら、私は思考を巡らせた。と、ふいに頭上から含み笑いのような声が聞こえてきた。
「お粗末なリーダーだな、え?」
聞き覚えのない声に嘲笑われ、私はあらためて恐怖を覚えた。声の主は動けない私の両脚を持ち上げると、そのままカウンターの方へと引きずっていった。
全身がすっぽりとカウンターの内側に収まったところで相手はいったん引きずるのをやめ、私を丸太のようにころがした。顔の見えない恐怖は生まれて初めてのものだった。
「いいものを、やろう」
声の主はそう言うと、いきなり私の口の中に何かを押しこんだ。生ぬるく弾力のあるゼリーのような物体だった。予想外の行為に私は思わず身をよじった。
――なんなの、これは?
私は何とかして口を塞いでいる物体を吐き出そうとした。が、物体はまるで生きているかのように外に出されることを拒み、驚いたことに喉の方へと移動する気配すらあった。
「余計なことに首を突っ込むから、こういうことになるのさ」
声の主は必死の私を再び嘲笑うと、現れた時と同様にふっと気配を消した。
謎の物体は伸び縮みするような動きを見せ、私は恐怖で目の前が暗くなるのを覚えた。
――誰か……石さん、どこへ行ったの?
私が声にならない叫びをあげた、その時だった。カウンターの外側を、誰かが通ってゆく気配があった。
「ボス……どこに行ったんです?」
――ここよ、カウンターの内側。ちょっとでいいからこっちに来て、中を覗いて。
私は石亀が気づいてくれることを期待した。だが必死の願いもむなしく、石亀と思しき足取りは私の傍らを素通りしていった。やがてドアの開閉音が響き、再び周囲が沈黙で満たされた。
――もうだめだ。私の人生はここで終わりなんだ。
苦しさと恐怖の中で私が死を覚悟した、その時だった。ドンという重い落下音とともに、男性の物らしき呻き声がこだました。
「ああ、痛ぇ。……どこなんだ、ここは」
男性はぶつくさ不平をもらすと、どしどしと床を移動し始めた。やがてふらついたのか「おっと」という声が聞こえ、カウンター全体にもたれかかったような衝撃が伝わった。
――この声は……コンゴ!
私が気づくのと同時に、ドアが開け放たれる気配があった。
「今の音は、何だ?……コンゴ、お前どうしてここに?」
入ってきたのは、石亀だった。どうやらドアの近くで私が現れるのを待っていたらしい。
「知らねえよ。なんとなく「来ち」まったのさ」
「そうか、ボスの危機に身体が反応したってわけだな。……コンゴ、周りをよく見るんだ。近くにボスがいるはずだ」
石亀に促され、金剛がみしみしと床を踏み鳴らす音がし始めた。私は辛うじて動く頭を持ち上げると、思い切って床に打ち付けた。
「なんだ?今の音は」
カウンター越しに誰かがこちらを覗きこむのが感じられた。
「――ボス!……石さんボスがいる!この中だ」
「何だって?」
二つの足音が近づく気配に、私は初めて命拾いしたことを実感した。
「あっ、ボス!……なんでまた、こんなことに……」
もはや躊躇している余裕はない。私は石亀の方に顔を向けると、口を開けて見せた。
「これは……まずい。ボス、ちょっと失礼します。少しの間、じっとしていてください」
石亀は私の口に自分の拳をねじ込むと、「物体」の一部を掴んだ。
「くっ……なんて力だ、出て来やしない。……コンゴ、ボスの上体を起こしてくれ」
私の背後に金剛が回りこみ、石亀の指示に従って抱き起こした。石亀の拳はまだ、私の口の中だ。
「どうするつもりだ?石さん」
「いいかコンゴ、合図があったら思い切ってボスの後頭部を、どつけ」
「は?……何だって?」
「どつけといったんだ。……ボス、これからコンゴが頭をどつきますが、こらえてください。いいですね?」
私は石亀の意図が呑み込めないまま、頷いた。
「では心の準備ができ次第、合図してください」
私は顔を上げると、石亀と物体が力比べをしている口で「ああ」と言った。
「よし今だ、コンゴ、やれ!」
石亀の号令とともに、ハンマーかと思うような大きく硬い物体が私の頭をどやしつけた。同時に、それまで私の口と喉を塞いでいた塊が勢いよく外に吐き出された。
「……こいつかっ!」
身体を二つ折りにして咳き込んでいる私の傍らで、石亀が憎々し気に言った。
「……なんですか、これ」
私は咳き込みながら訊ねた。目の前の床に、ぶよぶよした茶褐色の物体が転がっていた。
「さあ……わかりません。一応、持ち帰ってみましょう」
石亀はそう言うと、困惑顔のまま肩をすくめた。
「立てますか、ボス」
金剛が丸太のような手を私に向かって差し伸べた。私はその手にありがたくすがると、ふらふらと立ちあがった。
「どういうことなの、これ。まるで私たちが調査に現れることを知っていたみたい」
「案外、そうかもしれません、ボス。こいつは少々、作戦を練り直す必要がありますな」
石亀はそう言うと、どこからか取りだしたビニール袋に手際よく「物体」を収めた。
――ただの病院の夜逃げだと思っていたのに、こんなことが待っているなんて。
今しがた味わった恐怖があらためて蘇り、私は思わず二の腕を掻き抱いた。
〈第十一話に続く〉
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