第36話 犬よ、犬よ!


 浦野夫妻が与えられていた部屋の外はコンクリートで覆われた長い通路が前後に伸び、巨大な地下道と呼ぶのにふさわしい空間だった。


 ところどころに金属製の扉が設けられている様子は地下格納庫か、一昔前の核シェルターといった趣で、極秘の研究を行うのにうってつけの空間といえた。


「事前にテディから教えられた情報が正しければ、浦野夫妻のいた部屋が「監禁部屋」にあたることになります。そうなると今、我々がいる場所は……ええと」


 金剛が携帯の画面を見ながら唸った。どうも図面を見るのが苦手らしい。


「この通路を右ですね、たぶん。百メートルほど行くと扉があって、その向こうの「地下演習場」という広い空間が、どうやら地上と繋がっているようです」


 地下演習場か。私は緊張で顔が強張るのを意識した。演習場という事はそこに敵が大勢、待ち構えているということだ。私は自分の前後を見た。

 前をゆくのは浦野医師を背負った金剛、私の隣には浦野夫人。そして足元には一匹の犬だ。こんな面子で果たして敵の中をかいくぐって脱出できるのだろうか。


 そんなことを考えていた時だった。ふいに前方の扉の一つが軋み音と共に開き、人影が姿を現した。


「……えっ?」


 現れた人物は、小峰医師だった。だが、何度となく私の間に現れ、恐ろしい手術を施そうとした人物とは見た目が異なっていた。


「う……うう」


 私たちの前に立ちはだかった小峰医師は肩と胸の筋肉が瘤のように肥大し、その中に埋もれるようにして頭部が覗いていた。


「お前……道連れにすれりる」


 小峰医師は剥き出した歯の間から茶褐色の液体を滴らせると、倍ほどの長さに伸びた腕を振り回しながら近づいてきた。


「危ない、浦野さん!」


 小峰医師が襲いかかったのは、浦野夫人だった。私は考えるより早く、小峰医師の身体に横からぶつかっていった。


「……げえっ」


 私の体当たりを受け、小峰医師はあっさりと床に倒れこんだ。


「大丈夫ですか、ボス!」


 私の咄嗟の行動に目を丸くしながら、金剛が駆け寄ってきた。


「ええ、大丈夫よ。無我夢中で……でも大丈夫かしら。死んじゃったりしたら」


 床の上で苦し気にもがいている小峰医師を、私は複雑な気持ちで眺めた。しかしそんな気づかいなど無用であったことを、私はすぐさま思い知った。床に伏していた小峰医師が、びくんと大きく跳ねると、再び立ち上がったのだ。


「ボス、逃げて!」


 金剛が叫び、同時に黒い犬が吠えながら小峰医師に躍りかかった。


「ぐああっ」


 脛を噛まれた小峰医師は大きく呻くと、長い腕で犬を振り払った。不意を衝かれ、黒い犬はか細い声を上げながら床の上を転がった。


「ワンちゃん!」


 私は思わず犬に駆け寄った。ぐったりしている犬を抱き起こしてさすっていると、ふいに背後に気配を感じた。振り返ると、肉に埋もれた顔が私を勝ち誇ったように見下ろしていた。


 ――駄目だ、やられる!


 私が観念しかけた、その時だった。どんという大きな音がしたかとおもうと、目の前から小峰医師の姿が消え失せていた。代わりに私の目の前に現れたのは、金剛だった。


「コンゴ……なにをしたの」


 私が尋ねると、金剛は荒い息を吐きながら「ショートリープです」と言った。


「ショートリープ?」


「ボスの危機を感知した体が、極端に短い移動を行ったのです。結果的に体当たりと同じ効果をもたらし、相手がふっとんだというわけです」


 私は金剛が目で示した方向を見た。小峰医師が離れた床の腕で伸びているのが見えた。


「ボス、奴には悪いが先を急ぎましょう。生きていれば仲間に助けられるでしょう」


 金剛はそう言うと床の上に寝かせておいた浦野医師の元に移動した。


 ――そうだ、ワンちゃんは?


 犬の具合を確かめようと振り返った私は、目の前で起きている現象に言葉を失った。


 犬の身体から体毛が消え、代わりに白い人間の肌が出現していた。そのまま眺めていると骨格も犬のそれから急激に人間の物へと変化し、同時に体全体も大きくなっていった。


「コンゴ、これ……」


「……ボス、ここから先は恥ずかしいものを見ることになります。できれば目をそらしてやってください」


 金剛が意味不明の言葉を吐いた、その直後だった。ほぼ人間に変わった「犬」が、ぶるぶると頭を振った後、四つん這いのまま顔をこちらに向けたのだった。


「……ウルフ!どうして?」


 私の前で心もとなげにうずくまっていたのは、大神だった。私はその姿を見た瞬間、金剛の言った言葉の意味を理解した。大神は全裸だった。


「……ちっくしょう、こんなところで元に戻るなんて。もう最悪だよ」


 大神は身を縮こまらせると、一つくしゃみをした。


「あなたが、あのワンちゃんだったの?」


「……そうですよ。……ちぇっ、せっかくボスを助けて騎士気分を楽しんでたのに」


「ありがとう、ウルフ。あなたのお蔭で何度も命拾いしたわ」


「そう言ってくれるのは嬉しいですが……せめて服を用意しておくんだったなあ」


「まあ、仕方ないさ。少々、荒っぽい調達法だが、こっちの旦那に貸してもらおう」


 金剛はそう言うと、浦野医師の服を脱がし始めた。いくら緊急事態とはいえ、探偵が調査対象の服を脱がすなど前代未聞に違いない。


「ほらっ、着ろよ」


 大神はうずくまったまま手を伸ばすと、金剛が放ったシャツとスラックスを受け取った。


「……ボス。すみませんがあっちを向いていてください」


「あっ、そ、そうね。ごめんなさい」


 私は急いで後ろを向いた。目の前では金剛がボクサーパンツ一丁の浦野医師を再び担ぎ上げるところだった。


「もういいですよ、ボス」


 振り返るとだぶだぶのシャツとスラックス姿の大神が、泣き笑いのような表情で立っていた。私は不安げな浦野夫人の傍らに立つと、そっと手を握った。


「……ボス、テディから連絡が入りました。地下演習場の扉の前で待っているそうです」


「わかったわ。みんなで頑張ってテディのところまでたどり着きましょう」


 私が言うと、金剛が先に立って再び歩き出した。やれやれ、まさか敵ばかりでなく、身内にまで驚かされるとは。私は大神と浦野医師の格好を交互に見た後、金剛の後に続いた。


             〈第三十六回に続く〉

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