探偵以上
五速 梁
第1話 夢見る原石
――こんなのって、詐欺だわ。
狭いコンクリートの階段を慣れないパンプスで上がり、くたびれた歯科と、人気のない理髪店に挟まれた扉の前まで来たところで、私は自分の幻想がガラス細工のように砕けたことを悟った。
私の頭の中では、その扉は鈍い輝きを放つプレートがはまった重厚な木製の扉であるはずだった。だが、目の前にあるそれは、化粧板がささくれて剥がれかけた安っぽい合板にすぎなかった。しかもあろうことか、すりガラスの窓に記された社名は、私が今までに見たどの企業名よりセンスのない、ひどい名だった。
『絶滅探偵社』
ドアの向こう側は先日、死亡とみなされた叔父が長年、営んできたオフィスなのだった。
※
私の名は
この春、大学を出たばかりの平凡な女性だ。
医学系の学部に在籍し、やっと小さなクリニックに就職が決まったのが数か月前。四月から、相談員としてのキャリアが輝かしく始まる……はずだった。
今日は五月の一日。本来なら既に勤務が始まり、先輩職員に気を遣いつつ、初めての連休にわくわくしている時期である。それなのに私は今、さびれた雑居ビルの廊下で、とても正気とは思えない名前の探偵社を訪問しようとしている。いったい、なぜなのか。
実は通勤一日目にして、私はとんでもない不幸に見舞われていたのだった。昔からこれと言った取柄もなく、よほどのことがない限り手堅く人生を終えるに違いないと思っていた私にとって、それは青天の霹靂とも言うべき出来事だった。
はりきって家を出、勤務先のクリニックに辿りついた私が目にしたのは、数か月前、面接の時に見たままの院内を残して、人間だけが綺麗に消え失せた不気味な空き物件だった。
――そんな馬鹿な。
私はパニックに陥り、同じビルに入っている調剤薬局に駆け込んだ。私の訴えを一通り聞いた年配調剤師の言葉は、さらに想像の上をゆくものだった。
――私たちも困ってるんですよ。何も聞いていないし、通院中の患者さんから「どこに入ったら連絡が取れるのか」と詰め寄られて、てんてこ舞いでした。
病院の夜逃げ――しかも医師のみならず事務員など全員が、設備をそっくりのこし、新人職員に一言も告げずに消滅してしまったのだ。
確かに私の内定は消されていない。が、病院が消えてしまっては通勤する場所がない。私は学生時代の友人や先輩、ゼミの教授など、ありとあらゆる医療関係者に情報を求めた。だが、驚いたことに誰一人として、クリニックがいつ無人になり、どういういきさつで廃業したのか知っている者はいなかった。
あまりのことに私はひと月近く実家に引きこもり、何らかの連絡がくるのをひたすら待ち続けた。やがて待つのにも飽きた頃、母が奇妙な書面の存在を私に告げた。それは数か月前、外国で行方不明になり、現地の警察から死亡と見なされた叔父に関する物だった。
書面には叔父の自筆で「もし自分を事故などの不測の事態が見舞った場合、私の経営する探偵社を姪の絵梨にゆだねる」とあり、私はまたしても呆然とせざるを得なかった。
叔父が長年、探偵らしき仕事に就いていたことはうっすらと知っていた。だがどこでどんな仕事をしていたかという知識は一切なく、また興味もなかった。
ただ漠然と格好良い事務所を構えていばっているのだろうな、と勝手な想像をしていたに過ぎない。
――なぜ、わたしに?
生前(まだ死体は見つかっていないが)、叔父に探偵の素質があるなどと言われたことはないし、私自身、探偵に向いていると思ったこともない。
それがたった一枚の書面で、こともあろうに自分の跡を継いで探偵社を経営しろなどと言う謎の厳命を下してきたのだ。
――断るにしたって、一度行ってきたらいいじゃない。これも社会見学よ。
呑気にそうのたまう母に反論するだけの気力もなかった私は、自分でも恥ずかしいとは思いつつ、リクルートスーツにパンプスというあざといいで立ちで、叔父の書面に付記されていた探偵社の所在地へと赴いたのだった。
――だって。もしかしたらシャープなエース職員がバリバリ仕事をこなしている、飛び切り格好いい探偵社だっていう可能性もあるわけじゃない。
我ながら虫のいい想像だと思いつつ、数か月ぶりに他所行きの顔をしていそいそとやってきた私は、早くもドアの前で後悔し始めていた。
だが、ドアを開けた私を待っていたのは、扉を見た時の失望とは比べ物にならないほどの、驚きだったのだ。
〈第二回に続く〉
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