第9話 何かが廊下をやって来る
「別の病院、ですか?……ええ、何人かの方に紹介しましたよ」
私の問いに若い薬剤師はしばし瞑目した後、そう答えた。
「それって、この近くの病院ですか?」
「ええ、まあ……
「いえ、警察の者ではありません。探偵社の調査員です。「須弥倉クリニック」に通院されていた患者さんがある日通院後、そのまま消息を絶ってしまったのです」
私は開示すべき情報を頭の中でより分けつつ、言った。これまでの人生で聞きこみなど、もちろんしたことはない。探偵がどんな手順で調査しているかなど、未知の世界だった。
「はあ、なるほどね……あいにくですが、患者さんのお名前とか、そう言ったことは存じていてもお教えするわけにはいかないんですよ、探偵さん」
「そうでしょうね。……ではもうひとつだけ、伺ってもよろしいですか」
「なんです?」
「裏クリニックという言葉を、聞いたことはないですか」
「裏クリニック、ねえ」
若い薬剤師は首を傾げると「ありませんね」と短く返した。私は石亀に聞きこみの終了を目顔で告げると、調剤薬局を辞した。
「……どう?何か隠しているように見えた?」
私はエレベーターの前まで移動すると、石亀に尋ねた。
「薬剤師がですか?いえ、そいつはないと思いますね」
「そう。石さんがそう言うなら、きっとそうなんでしょうね」
私は石亀の見立てを素直に受け止めた。およそ人を疑うという経験のない私にとって、聞きこみの相手が口にしたことはすべて真実に聞こえるのだった。
「でも、調査中はどんな人間の言う事も疑ってかかるべきです。悪い連中の中には、私らの裏をかこうとする奴らがごろごろいますからね」
「あー、やっぱそういうのと向き合わなくちゃいけない仕事なんだ、探偵ってのは。私にはハードル高すぎだわ」
やってきたケージに乗りこみながら、私は溜息をついた。
「そんなことはないでしょう。ボスにもいずれ備わって来ますよ「探偵力」って奴がね」
石亀はそう言うと、私を見てにやりと笑った。
「探偵力って、どんな力……あ、この階だわ」
あれこれ考えかけた時、エレベーターが止まった。かつて「須弥倉クリニック」が入っていたフロアのある階だった。
私と石亀はケージを降りると、人気のない廊下を歩き始めた。テナント数の少ない階で、つきあたりに札が掲げられたガラス戸が見えた。
ガラス戸の向こうは薄暗く、札には一言「閉院」とだけ記されていた。私はドアの前まで来ると、おそるおそる取っ手を握った。
淡い期待を込めて力を込めても、予想通り取っ手はびくともしなかった。就職先に改めて拒絶されたような切なさが、私の胸をチクリと刺した。
私はガラス戸に顔を寄せ、中の様子を透かし見た。灯りの消えた待合室は私が見学に来た時と全く同じレイアウトのまま、人間だけが幽霊船のように消え失せていた。
「駄目ね。覗くだけで精いっぱい。ここからじゃ何もわからないし、無駄足だったわ」
私が音を上げると、突然、それまで沈黙を保っていた石亀が口を開いた。
「……ボス、ちょっと下がっていてください。それから、しばらく向こうを向いててくれませんか」
石亀はそう言うと、私と入れ替わる形でドアの前に立った。私は訝りながらも、黙って言う通りの行動を取った。何もない廊下を漠然と眺めていると、ふいに背後でカチャカチャと何かを弄り回すような音が聞こえた。まさか。
「石さん、一体何を……」
こらえきれず振り向いた私の目に、恐れていた通りの光景が飛び込んできた。錐のような物を手にした石亀が、施錠されているドアと格闘していたのだった。
「ちょっと、駄目じゃない。警察じゃないのよ、私たちは。勝手に中に入ったりしたら不法侵入で逮捕されちゃうわ」
私は石亀を必死で説得した。仮にこの行為が石亀の独断だとしても、上司は私だ。つまり私の犯罪ということになる。
「ほら、もう開きました。思っていたより手ごたえがないですね」
石亀は涼しい顔でそういうと、錐のような道具をポケットにしまいこんだ。
「ちょ、ちょっと、本気で侵入するつもり?」
「もちろんです。……ボスはここで待っていてください。こういうのは私の仕事ですから」
石亀はそう言い置くと、私の制止など無視するかのようにドアの内側へと侵入していった。
――そうか、荻原さんの言う「俺たちのやり方」の中には、こういう物も含まれてるってわけね。
私がもやもやした思いを持て余していると、ふいにドアの向こうからパタンという何かが倒れるような音が聞こえてきた。
「……石さん?」
何かを倒したのだろうか。私は思わずドアを開け、中へと足を踏み入れた。
さすがにカーペットを土足で歩くのは憚られたので、一応、パンプスを脱いでストッキングで上がることにした。
暗闇に目が慣れてくると右手に受付カウンター、左手に長椅子というレイアウトがすぐさま思いだされた。
とりあえず見える範囲に石亀の姿はなく、私はカウンターの描く曲線にそってそろそろと歩を進めていった。カウンターが途切れた位置から奥に向かって細い廊下が伸びており、その先に診察室の扉が二つほど並んでいるはずだった。
――診察室で、何か探し物でもしてるのかしら。
私が足を止め、訝ったその時だった。背後に何かが降り立つ気配があり、次の瞬間、人間の腕のようなものが私の身体を羽交い絞めにした。
「うっ……」
思わずもがいた私の首筋に冷たい指先のようなものが押し当てられ、次の瞬間、すべての力を奪われた私は、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちていた。
〈第十回に続く〉
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