第35話 依頼者の二つの顔


 意識を取り戻して最初に気づいたのは、ここは手術室ではないということだった。


 白い無地の天井と壁紙、横たえられているのは台ではなく簡素なベッドのようだった。


 私はそっと上体を起こした。どうやら手足は拘束されていないようだ。

 おそるおそる周囲を見回すと、窓はなく殺風景な部屋ではあるが、決して独房ではないことがわかった。私はベッドから降りると、唯一の外界との接点であるドアに歩み寄った。


 ――もし鍵がかかっていなければ、私は捕まってはいないということになる。


 私がそっと取っ手に手をかけようとした、その時だった。向こう側からいきなりドアが開き、見覚えのある女性が顔を出した。


「浦野さん?」


 思いがけない人物の出現に、私は思わず叫んでいた。


「……はい、そうですけど、あなたは?」


 浦野夫人はコップを乗せたトレーを手にしたまま、その場で固まった。


「私をお忘れですか?浦野さん。あなたから依頼を受けて失踪されたご主人を捜索している探偵です」


「……探偵さん?……あの、失礼ですが探偵さんとご縁があったことはないですし、そもそも、主人は失踪してませんけど」


 今度は私が固まる番だった。やはりあの依頼人は、カッツェの変装だったのか。


 そうなると、浦野氏を発見しても身柄を確保する必要はなくなる。それどころか、私たちを危機に陥れるための偽の依頼なのだから、ボスとしては部下を危険にさらす前に即刻、退却を命じる必要がある。


「どうしよう……」


「どうしました?ご気分でも悪いんですか?主人からあなたを丁重に扱うよう、言い渡されているんです」


「……それより、ここはどこなんです?」


「ここは伊丹先生と小峰先生が用意してくれた、長期滞在型のリハビリステーションです」


「リハビリ……なんの?」


「主人からは脳の機能障害を軽くするリハビリだと聞いています」


「ご主人は今、どこに?」


「午後のリハビリに行っています。間もなく戻ってくると思いますが……」


 私を意を決すると、浦野夫人に事実を告げた。


「浦野さん、ここはリハビリ施設じゃありません。人間の脳をあるたんぱく質に乗っ取らせて、別人に改造する施設です」


「嘘……」


「ご主人の性格に、以前と変わったところは見られませんか?」


「変わったところですか。そういえば目つきが鋭くなった気がします」


 私が詳しい事情をどうやって浦野夫人に伝えようか思案していると、突然、隣の部屋から電子音が聞こえてきた。


「あっ、すみません……ちょっと失礼します」


 浦野夫人は私にそう言い置くと、トレーを置いて部屋を出て行った。


 私は少し間を置いた後、ドアを細めにそっと開けて向こうの様子をうかがった。


 隣室は八畳ほどのリビングで、浦野夫人はダイニングテーブルについてPCの画面と向き合っていた。私は顔をドアの隙間から付きだすと、PCの画面を覗きこんだ。


 ――あの人は!


 画面に映っていたのは、小峰医師だった。


「ご主人はどうです?何か大きな変化はありませんか」


「特にありません。……先生、本当にあと少しでリハビリは完了するのでしょうか」


「ご主人次第です。希望をもって辛抱強く支えてあげて下さい……ううっ」


「どうしました、先生?」


 画面の中で、急に小峰医師が苦しみ始めたかと思うと、カメラの前からいなくなった。


「先生、先生?……どうしましょう」


 浦野夫人がPCの前で取り乱し始めた、その直後だった。テーブルの向こう側のドアが開いて、一人の男性が姿を現した。


「あなた……」


 男性は、浦野医師だった。探していた失踪者がついに現れた、と私は思った。


「どうしたんだ、いったい」


「小峰先生が……何だか様子がおかしいの」


「そういうことか。……仕方がない、彼はもう限界だ」


「限界って……どういう事?」


「適合できなかったんだよ、私と違って」


 話を聞いていた私は、思わずドアを開け放った。振り返った夫人と浦野医師の目が同時に見開かれ、私は二人の顔を正面から見据えた。


「……目が覚めたのかい、探偵さん」


 浦野医師が、落ち着き払った声音で言った。


「ええ、おかげさまで。浦野さん、あなたの居場所を探してほしいという、偽の依頼を受けた絶滅探偵社の物です。……失踪されてなかったんですね」


「その通りだ。僕は自分の意志でここに来て、新たな人生を送っている。……そう、古い浦野と、あらゆる能力が開花した新しい浦野とが混じった人生をね」


「新しい……あなたはPー77に支配されているのね」


「支配という表現はどうかな。僕らは一つの存在であり、新しい種なのだから」


「小峰医師の手で「狂戦士」にされたというのも、嘘?」


「それは僕以外の連中だ。適合できなかった者は意志を奪われて「狂戦士」となり、ここで訓練を受けた後、戦場に「輸出」されるのだ。小峰君もどうやらそうなりそうだね」


「じゃあ小峰医師があなたをモルモットにしたわけじゃなくて……」


「逆だよ。伊丹先生から「あれ」を移植された後、僕にはわかったのさ。自分こそが「あれ」と人とを融合させ、新たな種を産みだす先駆者となる存在だとね」


「つまり失踪者なんてどこにもいなかったってこと。……これで調査は終了ね。悪いけど、お暇していいかしら。部下に指示を出さなくちゃいけないの」


 私が一歩前に進み出ようとした、その時だった。浦野医師の手が動いた。私ははっとして身構えた。浦野医師が取りだしたのは、小型の拳銃だった。


「あなたがおとなしくしていれば、丁重におもてなししたうえで「あれ」を移植するはずだった。だが、説得に応じない場合は殺害もやむを得ない……そういうことになっている」


 浦野医師の銃口が私に狙いを定め、私は素早く思考を巡らせた。


 ――駄目元で抵抗してみるか、誰かが助けに来るまで必死で逃げてみるか……


「死ね」


 浦野医師の指が引鉄にかかった、その時だった。


「ワン!」


 開け放たれたドアから黒い影が飛び込んでくると、浦野医師を突き飛ばした。


「……ワンちゃん!」


 現れたのは、見慣れた黒い犬だった。犬は床に倒れこんだ浦野医師の背中を踏み台にすると、テーブルを飛び越えて私の傍らに降り立った。


「助けに来てくれたのね!」


 私が犬の頭を撫でると、テーブルの向こうで浦野医師が立ちあがるのが見えた。


「この……犬ころがっ」


 逆上した浦野医師の拳銃が犬に向けられた瞬間、今度は何もない空間に巨大な人影が出現した。


「ぎゃっ」


 人影は浦野医師の上に落下し、押しつぶした。拳銃が転がり、浦野医師はその場でぐったりとなった。


「……コンゴ!やっぱり来てくれたのね。さすが頼りになるわ」


 もはや見慣れた出現に、私は今さらながら胸が熱くなるのを覚えた。


「……ボス!ここはどこで?」


「施設の地下よ。あなたの下にいるのが、私たちが探していた浦野医師よ」


 私が目で示すと、金剛は「へっ?」と言って大きな身体をずらした。


「ありゃ、そうでしたか。……しかしこれで結果的にミッションが成功したわけですな」


 私は唸った。探していた張本人が黒幕の一人だったということを、何と言って説明すればいいのだろう。


「……浦野さん、ご主人がこんなことになって混乱しているとは思いますが、私たちと一緒にここから逃げてくれませんか」


「えっ、でも……」


「ご主人も、一緒に連れて行きます。このままここにいたら、あなたまでモルモットにされてしまうことは確実です」


「……わかりました」


「コンゴ、ちょっと当初の予定とは違うけど、浦野夫妻を連れて脱出します。……いい?」


「じゃあこの、失踪者の方は俺が背負って行けばいいんですね」


「ごめんなさい。頼める?」


 私が両手を合わせると金剛は頷き、失神した浦野医師の身体をひょいと肩に担ぎ上げた。


「……さあ、そうと決まったら一刻も早く脱出しましょう。うまくテディたちと合流できればいいんだけど……」


「まあそれは出口を探しながら考えましょう。……それにしても鮮やかな手際ですね。さすがはボスです」


 金剛の褒め言葉を聞きながら、果たしてこれは任務成功と言えるのだろうか、と私は考えた。


              〈第三十五回に続く〉

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