第16話 さあ、犠牲者になりなさい


  ぞっとするような声でそう言い放つと、事務員は枯草色のワンピースを脱ぎ始めた。下から現れたのは、目にも鮮やかな深紅のボディスーツだった。


 思わず顔に視線をやると、年配女性のものと思われた風貌が、若々しく中性的なものへと変化していた。


「あなた、何者なの?病院の受付にしては、派手すぎない?」


 事務員を装った「敵」は私の問いには答えず、薄笑いを浮かべ続けた。驚いたことに「病院の受付はね、副業よ。……本業は」そう言うと「敵」は両手の紐をびんと鳴らして見せた。


「……殺し屋」 


 言うが早いか、「敵」の手が動いた。次の瞬間、私は何かに足を取られ、その場に倒されていた。私はコンクリートの床で背をしたたかに打ち、もんどりうった。


 一瞬、呼吸ができなくなり、腹ばいになって喘いでいる私に「敵」は容赦ない哄笑を浴びせた。


「いいざまね、二代目さん。まさかこんなところでキャリアが途絶えるなんて、思わなかったろう?」


 嘲りの言葉と共に足の戒めが解かれ、私は何かから逃れるように床の上を転がった。


「どんなルートでもいいから、逃げてごらん。ここから無事に出られたら、今度会った時に「探偵さん」とさん付けで呼んであげるよ」



 逃げてやる、絶対、と私は恐怖に染まった頭の片隅で思った。


 一旦気持ちを固めた私は、気が付くと森のように入り組んだパイプの間を自分でも驚くような速さで潜り抜けていた。


 元の広いスペースにそっと顔を出すと、恐れていた「敵」の姿が見当たらなかった。私はパイプの隙間から全身を出すと、エレベーターのある部屋の方を見た。走れば十秒もかからずに中に飛び込めるはずだ。


 躊躇なく駆け出した瞬間、私はまたしても軸足の自由を奪われ、床に叩きつけられた。

 胸を強く打ち、荒い息を吐きながら私は首をねじ曲げ、背後を見やった。一体どこに潜んでいたのか、私のくるぶしから伸びている鞭状の物体の先に「敵」の姿があった。


「面白いねえ、あんた。せっかくチャンスを上げたのに、わざわざ私の手のうちに飛び込むなんて――」


 鞭を手繰り寄せながら、吊り気味の目と不気味なほど整った顔を持った「敵」は言った。


「さて、そろそろ新米所長さんの冒険もラストシーンにしないとね」


「敵」が鞭をしならせ、私は本能的に「死」を覚悟した。


 よもやほんの数日、探偵事務所に勤務しただけで、こんな事態になるとは。

 私の脳裏に石さんや金剛、荻原らの顔がよぎった。

 

――神様、もしもう一度チャンスをくださるのなら、もう二度と迂闊な真似はしません。お願い、助けに来て――


 なりふり構わぬ身勝手な願いを私が心の中で叫んだ、その時だった。


「……がはっ!」


 聞き覚えのある呻き声がコンクリートの壁に反響した。私が恐る恐る目を開くと、「敵」と私の間に腕に鞭を巻きつけた巨漢――金剛がいた。


「……着いたとたんにこれかよ、畜生!」


 ひとしきり悪態をついた金剛は、目の前にいる私を認めて目を丸くした。


「……ボス、一体どうしたんです?」


 私は一瞬、返答に窮した。私がどうしたかを答えるより、何もなかったはずの場所になぜ、金剛がいるのかを知りたかった。


「……ひさしぶりだね、木偶でくの坊」


「敵」の憎々し気な声に、金剛の首が動いた。


「きさま、カッツェ!……ということはやはり「あいつ」が裏で糸を引いていたのか」


「――さあ、それはどうだろうね。……それにしても単身、上司を助けに来るなんて泣かせるねえ。あんたならこの子と合わせても、難なく片付けられるよ」


「ふざけるなよ、カッツェ。殺し屋だか何だか知らんがいい機会だ、ぶちのめしてやる」


「気をつけて、コンゴ!」


「ふん、お仲間の中で一番弱いくせして、いきがるんじゃないよ」


 カッツェと呼ばれた「敵」は、残忍な態度を露わにすると、鞭を振り上げた。

 金剛の身体は「敵」の倍近くある。が、私は彼が戦っているところを一度も見たことがない。

 恐らくどちらも無事では済まないに違いない。私が不安におののいた、その時だった。


 突然、フロア全体にけたたましいサイレンの音が鳴り響いた。不意を衝かれた「敵」が動きを止めるのと同時に、どこからか緊急アナウンスの声が聞こえ始めた。


「ビル内にいる皆様に、ご注意申し上げます。先ほど改装工事の現場で、作業中にガス漏れが発生いたしました。しばらくの間、火器の使用はもちろん、火花の出るスイッチ、コンセント等の使用を控えてください。万が一ガスに引火しますと爆発する恐れがあります」


 私が呆然としていると、ドアの開閉音とともにばたばたと複数の足音が聞こえてきた。


「どなたかいますか?いらっしゃったら、作業を中断してビルの外に一時避難して下さい」


 呼びかけと共に姿を現したのは、警備員と思しき数名の男性だった。男性たちは、私たちを見つけると、一様に目を丸くした。それはそうだろう。地下のボイラー室に若い女性と謎の巨漢がたたずんでいるのだ。驚かない方がどうかしている。


「……命拾いしたな、探偵」


 ふいに声が響き、靴が床を蹴る音がした。見ると、カッツェと呼ばれた人物が奥の暗がりに消えようとしていた。警備員の一人が「ちょっと、あんた!」と叫んで追いかけたが、恐らく捕まらないだろうと私は思った。


「この隙に逃げましょう、コンゴ」


 私がそう口にすると、警備員の一人がすっと私の近くにやってきて帽子の鍔を上げた。


「――まったく、どこまで部下の手を煩わせれば気が済むんですかねえ、ボス」


 帽子の下から現れたのは、石亀の顔だった。


「石さん!……ごめんなさい。今回は私が勝手でした」


 私がしおらしく頭を垂れると、石亀が荒っぽく背中をどやしつけた。


「弁解は後でゆっくり聞くとして、とにかく脱出しましょう……コンゴ、引きあげだ」


「あいよ」


 石亀が先に立って歩き出し、私と金剛がその後に続いた。パイプ群の奥に、遠目には見えないほど細い通路があり、その奥に出入り口があった。


「……こんなところに出口があったんだ」


「いったい、どこから入ったんです、ボス」


「エレベーターよ。四階の歯科に秘密のエレベーターが、あったの」


「なるほど、エレベーターか。……ありそうな話だ」


 石亀はそう言うと、ドアの向こう側へと私を誘導した。


「なんだこのドア……小さすぎるぞ」


 背後からふいに金剛の泣き言が聞こえた。振り向くと体をねじ曲げ、曲芸のような仕草で外に出ようと試みている金剛の姿があった。


「通れないのに……どうやって助けに来たの、コンゴ」


 私が呆れて言うと、金剛がちらと石亀の方を見た。石亀は頷くと「そろそろ、教えてあげた方がいいかもしれない」と言った。なんのことだろう。


「……ボス、以前にもコンゴが助けに来たことがあったでしょう。あれは道路を走って来たわけじゃあ、ないんです」


「どういう意味?」


「コンゴはうちでただ一人のテレポーター……瞬間移動能力を持つ超能力者なんです」


             〈第十七回に続く〉

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