第6話 午後一時では早すぎる


 大慌てでドアを開けた私が目にしたのは、主のいない無人のオフィスだった。


 はて、今日は振替休日だったろうか。そう勘ぐってしまうほど、異様な眺めだった。


  私としたことが昨夜は緊張で眠れず、目が覚めた時は八時を回っていた。

 メイクもそこそこに家を飛び出し、嫌味の一つも覚悟してきたと言うのに、拍子抜けもいいところだ。


 私は仕方なく、今日から自分の席となる所長席へと移動した。椅子を引こうとした瞬間、天板の下から小さな人影がひょっこりと顔を出した。


「わっ、な、何っ?」


「あら、ごめんなさい。掃除に夢中で気が付かなくて」


 現れたのは、小柄な年配女性だった。女性は頭にバンダナを巻き、小さな丸い目で私を正面から見据えた。


「ひょっとしてあんた、新しい所長さん?」


「は、はい。そうですが……」


「やっぱり。うちの関係者でこんなに早く来る人なんていないものねえ」


 女性は合点がいったとばかりに言うと、民芸品のような顔をほころばせた。


「……だとしたら叡人えいとさんの姪御さんだね?ふうん、なかなかいい感じのお嬢さんだ。私は島津久里子しまずくりこ。掃除なんかの雑務を賄ってる、要するにパートのおばちゃんさ。よろしくね、所長」


 久里子と名乗る女性はそう言うと、私の机を丹念に拭き始めた。叡人というのは叔父の名だった。新たな人物の登場に戸惑いつつ、私はいくばくかの安堵も覚えていた。世代が違うとはいえ、同性は多いに越したことはないからだ。


「あ、はい、よろしくお願いします。……ところで島津さん、この時間でしたら一人や二人、職員が来ていてもいいように思うんですが……なにかわけでもあるんでしょうか」


 私はがらんとした人気のないオフィスを眺め回し、言った。すると久里子はのんびりした笑みを浮かべたまま、顔の前で手を振って見せた。


「ここはいつも、こんなもんだよ。お蔭でゆっくり掃除をしていても文句は言われない」


 私は呆れて言葉を失った。所長が遅れては示しがつかない、そう思って飛んできたというのに――


「そんなんで仕事になるんですか?調査の日数だって限られているのに」


 私が問いを投げかけると、またしても久里子はにやにや笑いを浮かべた。


「そりゃあ、よその探偵さんはそうかもしれないけど、なにせうちの連中は人と足並みをそろえるのが苦手な人たちだからさ。無理をさせるとかえって手際が鈍っちゃうのよ」


「そういうものですか……」


「ところがねえ、依頼された調査はきちんと期限内に解決しちゃうの、不思議なことに」


 久里子の言葉に、私は荻原とかいうアウトロー社員の言葉を思いだした。


 ――うちには、うちのやり方がある。


 確かにそうかもしれないが、これまでのところ、単にルーズな人材を集めただけのようにしか見えない。そんなことを考えている間に、久里子は私のデスクを手際よく拭き終えていた。


「叡人さんがよく言ってたわ。うちの職員は無理をさせると「本来の能力」が出せなくなるって」


「本来の能力……」


 私はふと、石亀の言葉を思い返した。そう言えばここの調査員たちはそれぞれ、特殊な能力を隠し持っているという。そのことを言っているのだろうか。


「私を含めてみんな、叡人さんに拾ってもらうまでは生きるか死ぬかの境をさまよってた者ばかりさ。だからここではせめて、人間らしく扱おうって言うのが暗黙の約束なの」


 久里子の思いがけぬ言葉に、私ははっとした。確かに叔父には、困っている人を見捨てて置けないところがあった。やはりこの探偵社には叔父の方針が浸透しているのだ。


「だから私たちみんな、所長が死んだなんて思ってない。きっと海外で困っている誰かを助けに行って、たまたま何かの事情で帰れなくなっているだけだって、そう思ってるの」


 私は胸が熱くなるのを覚えた。そう言えば、母もよく言っていた。兄は小さいころから、私や弟の面倒をよく見てくれたと。自分のことは二の次、そういう人なのかもしれない。


「だからさ、あんたを跡継ぎに指名したのも、そういう確信があったんじゃないかしら。この子はきっと、たくさんの人を救う。そういう人になるって」


「人を救う?私が?……無理です。私なんて、自分のことすらおぼつかないのに。そんな余裕、ひとかけらもないです」


 私が勢いよく頭を振った、その時だった。ドアが開け放たれ、石亀を先頭に四人の職員が次々と姿を現した。


「……おや、これはお早いご出勤で、ボス」


 私は呼ばれ慣れぬ呼称に戸惑いながら、懸命に引き締まった表情をこしらえた。


「普通の会社なら、これが当たり前だと思います。……それより、また荻原さんがいないのは、どういうわけ?ひょっとしてまたサボり?」


 私が所長らしく檄を飛ばすと、金剛の背後からすっと影のように現れた大神が、おずおずと口を開いた。


「荻原さんは、昼過ぎにならないと来ないんじゃないかなあ。……ファックスかなんか来てませんか?」


 私は大神から視線を外すと、周囲を見回した。するとフロアの隅でなにやらごそごそ動いていた古森が、一枚の紙を手に近づいてきた。手渡された紙を見ると、途切れ途切れの荒っぽい線で何やら連絡文が記されていた。


『作晩、なかなかいい仕事をしたので、今日は一時過ぎに出社する予定 オギワラ』


 ファックス用紙の端を見ると、時刻がAM3:30となっていた。いったい、何の仕事をしていたのだろう。訝る私に大神が、ぼそぼそと補足を加えた。


「たぶん、来るのは三時くらいだと思いますよ。開店サービスのパチンコ店が一軒と、あと今日は確か午前のレースがあったはずですから。あの人のサイクルに合わせようなんて思わない方がいいです」


 私は盛大にため息をつくと、ファックス用紙を丸めてくずかごに放りこんだ。すると傍で掃除道具を片付けていた久里子が、感心したような口調で私にささやいた。


「やっぱりできる男はどっか、違うわねえ」


               〈第七話に続く〉

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