第28話 姿なき妻よ、我を誘え


「ごめんなさい石さん、余計な仕事を増やしちゃって」


 住宅街にほど近い地下鉄駅のホームで、私は石亀に小声で詫びた。


「余計でしょうかね?案外、急がば回れってこともありますよ。探偵のやり方にこれと言った正解はありません」


 私は頷いた。石亀の口調には優しさと厳しさとが半々に含まれている気がした。


「来たみたいですね。……となりの車両に乗って、見えやすい位置を確保しましょう」


 石亀がそう言って目で示した先に、一人の女性がいた。浦野夫人だった。

 やがて地下鉄が緩やかに入線し、浦野夫人が一つ隣の車両に乗りこむのが見えた。


 私と石亀は目の前の車両に乗りこむと、視界の端で夫人の姿を捉えられるよう、連結部に近い一角に立った。


 この日、私と石亀は私の提案で浦野夫人を一日、尾行することにしたのだった。


「もしもだけど……浦野夫人が最初から小峰医師とグルだったとしたら、浦野医師の失踪はまったくの「でっち上げ」ってことになるのかしら」


「その想像が当たっていれば、そういうことになるかもしれませんね」


「じゃあなぜ、失踪してもいない夫の捜索をわざわざ探偵社に依頼したの?」


「ボスはどう、お考えになります?」


「夫を探す必要がないのなら、依頼自体に別の目的があるということね。……依頼をすれば私たちは動かざるを得ない。つまり目的は夫ではなく私たちだったという事になるわ」


「……あり得る話かもしれませんね。すでに伊丹医師の背後に蓬莱翁がいることはわかっています。連中なら、探偵社を潰す目的で依頼をしてきてもおかしくはありません」


「本来なら、依頼主のことを私たちが逆に調べるなんて契約違反よね。もしばれたら、探偵社の信用そのものが失われかねないわけだし」


「そうでしょうね。ただ、ボスの懸念がもし当たっているとしたら、先手を打つに越したことはありません。今日中に決定的な場面を捉えられるかどうか、それで判断しましょう」


 石亀の言葉に、私は頷いた。今日だけだと思いつつ気分がどこか重苦しいのは、この調査が依頼とは関係のない、我々が独断で行っている背信行為だからに他ならなかった。


 浦野夫人が降りた駅は、都心部にほど近いオフィスビルの密集する区域だった。

 夫人は地上に出ると、出口からほど近いオフィスビルのアプローチに足を踏み入れた。


「待ち合わせかしら」


「でしょうな。……でなければさっさと中に入っているはず」


 私たちは隣のビルの入り口前にあるオブジェに身を隠し、夫人の動向を伺った。

 私は夫人が待ち合わせている相手を見極めようと、目を凝らした。もしこの場に小峰医師が現れたら、浦野夫人と小峰医師がグルである可能性が一気に高まる。そう思った。


 浦野夫人の様子に変化が現れたのは、その直後だった。通りをやってきた一人の女性が夫人に手を振りながら近づき、夫人も同様に笑顔で手を振り返したのだった。


「どうやら小峰医師じゃないみたいね」


 私はどこかほっとしたような、それでいて肩透かし食ったような気分で言った。


「とにかく観察を続けましょう」


 石亀の言葉に、私は頷いた。女性は浦野夫人と同年代のように思われた。友人かもしれない。二人は楽し気に言葉を交わした後、連れ立ってビルの中へと入って行った。


「このビルには二階に飲食街があります。恐らくどこかの店に入って昼食でも摂るつもりでしょう。どの店に入ったかを確かめた上で、外から中をうかがえる場所を探しましょう」


 私たちは浦野夫人たちの後を追ってビルに入り、二階に上がった。回廊状になっている通路を気配を殺しながら進んでゆくと、一軒のレストランの店頭で二人が従業員とやりとりをしているのが見えた。


「あの店に入るのだとすれば……そうですね、向かいのビルに入っているパスタ店が監視するのに丁度いいと思います」


 石亀は素早く決断すると、私を伴って階下に引き返した。私はふと、以前、荻原を尾行した時に向かい側の店で拉致されたことを思い出し、背筋が寒くなった。



 ――まあ、今回は石さんも一緒だし、最悪の事態にはならないと思うけど。


 私たちはビルの外に出ると、中小路を挟んで南側にあるオフィスビルへと移動した。


 二階に上がると石亀の言った通り、パスタ店があった。私たちは窓際の席を一つ一つあらため、浦野夫人たちが捉えられる場所に陣取った。


「……見たところ、お友達って感じね。怪しいところはなさそうだわ」


「まあ、単なる友人同士のランチという可能性は充分、ありますね」


 ランチを楽しむ二人に変化が現れたのは、小一時間ほど経った時だった。


 突然、浦野夫人がレシートを持って席を立つと、友人と思しき女性に手を振ってそのまま店を出て行ってしまったのだ。


「どういうこと?食事の後は、別の用事があったってことかしら」


「先にビルを出るのだとしたら、入り口を見ていればわかるはずです」


 石亀はそう言うと、一階が望める位置へと移動した。私も石亀の後に続き、入り口の様子をうかがうことにした。しばらく見続けているとやがて、浦野夫人と思しき人物が出てくるのが見えた。夫人はビルを出ると立ち止まり、歩き出さずにその場に立ってあたりを見回し始めた。


「誰かと待ち合わせているのかしら」 


 私が訝った、その時だった。一人の男性が、夫人の前に歩み寄ってくるのが見えた。


「石さん、あの人……体格から言って小峰医師だと思います」


 私は思わず石亀にそう囁いていた。サングラスに帽子でカムフラージュしているが、私にはそうとしか思えなかった。私たちは足早にビルを出ると、二人の姿を探した。


「あ、いました。……ボス、予定を変更します。あの二人は私が一人で追います。ボスは、オフィスに戻って私からの報告を待ってください」


「一人で帰るってこと?」


「……いえ、コンゴかウルフに迎えに来させます。あそこのバス停でバス待ちの列に紛れて待っていてください。いいですか、くれぐれも人目のない場所には行かないで下さいよ」


 石亀はそう私に言い置くと、一区画ほど先をゆく浦野夫人たちを追い始めた。私は言われた通りバス待ちの列に並ぶと、おとなしく迎えが来るのを待った。不思議と焦る気持ちはなかった。


 ――尾行はここまでだ。私の仕事は、オフィスに戻って連絡を待つことなんだ。


 自分にそう言い聞かせていると、私の後ろに新たな待ち客が現れた。何気なく肩越しに姿を捉えた私は、はっとした。私の後ろにいたのは何と、浦野夫人と昼食を共にしていた「友人」だった。私は何気ない風を装って前を向くと、落ち着けと自分に言い聞かせた。


 やがて、左手からゆっくりとバスの影が近づいてくるのが見えた。

 

――そろそろ、列を抜けなければ。


 そう思って身じろぎをした時だった。ふいに首筋にちくりと痛みのようなものを感じたかと思うと、級に膝から下の力が抜け始めた。立っていることができず、歩道に崩れた私を背後の女性が素早く抱き起こした。


「大丈夫ですか?」


 私がなぜか急にもうろうとし始めた頭で頷くと、女性は「バスに乗らずに休んだ方がいいですよ」と言って私と共に列から抜け出し始めた。


 ――まずい。ひょっとすると、小峰医師と浦野夫人の方がおとりで、石亀はまんまと誘い出されたのかもしれない。


 薄れゆく意識の中で、私は自分がまたしても敵の狡猾さにしてやられたことを知った。


                 ※


 目を覚まして最初に私が思ったのは「この風景には見覚えがある」ということだった。


 頭上には小ぶりの無影灯があり、私の身体は固い台の上に仰向けに横たわっていた。


 ――また手術室か。……いったい、どこの?


 どうやらまたしても私は手足を拘束されているようだった。顔をねじ曲げて台の周囲を見ると、一組の男女がこちらに背中を向けているのが目に入った。


「浦野さん!」


 私が叫ぶと、女性――浦野夫人がこちらを向いた。やがて男性の方も振り向き、私を見た。すでに帽子とサングラスはなく、見覚えのある小峰医師の顔がそこにあった。


「意外に早く気がついたのね、汐田さん」


 浦野夫人は、依頼の時とは打って変わった冷酷な口調で言った。


「浦野さん……まさかあなたが、小峰医師たちとグルだったなんて」


「浦野さん……?」


 私が問い詰めると、浦野夫人は怪訝そうに眉を寄せた。やがて、小峰医師と顔を見合わせると突然、甲高い声で笑い始めた。


「あはは……そうか、あなた私をまだ浦野夫人だと思っているのね」


「なんですって」


 夫人の口から発せられた意外すぎる言葉に私は一瞬、自分の耳を疑った。


「……意外とばれないものねえ。嬉しいわ」


 そう言うと、夫人はいきなり顎の裏を指先で掴み、勢いよく皮膚を引き剥がし始めた。


「えっ……?」


 被膜のような薄い物質が剥ぎ取られた後に出現した顔は、カッツェの物だった。


「……カッツェ」


「そういうこと。わざわざ家から後をつけてきて、ご苦労だったねえ」


「あなたいつから浦野夫人になりすましていたの。うちに依頼に来たのも、あなた?」


「さあ、どうかしらねえ。それより自分の身を心配した方がよくてよ。手術室としては少々、設備不足だけど「あれ」を移植するくらいだったらここで十分だわ」


 カッツェがそう言うと、小峰医師がどこからともなく、円筒形のガラス容器を私の前に運んできた。中身を見た私が悲鳴を上げるのを見て、カッツェは再び笑い声を上げた。


「あなたもよくよく、運がないねえ。これだから探偵をいたぶるのは辞められないのよ」


 カッツェの笑い声がこだまする中、小峰医師が光るメスを手に振り向くのが、見えた。


             〈第二十九回に続く〉

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