第29話 鼠と猫のゲーム


「カッツェの話では君は一度、「Pー77」を飲み下しかけたそうだね?今回はちゃんと頭部を開いて移植するから、安心して受け入れるといい」


 小峰医師の目に歓喜の色が浮かんだ、その時だった。


 ふいにどこからともなく電子音が聞こえだした。はっとして首をねじ曲げると、小峰医師が携帯電話を耳に押し当てている姿が見えた。


「わたしだ……ああ、そうだ。……異変?施設の方か?……わかった、すぐ行く」


 小峰医師は通話を終えると私の方を向き、忌々し気な表情を浮かべた。


「残念だが、君の処置は後に回さざるを得なくなった。……カッツェ、すまないが彼女の身体を施設の方に回してくれ。処置は向こうでする」


 小峰医師は早口でまくしたてると、どこかへ足早に立ち去っていった。室内には私とカッツェの二人だけになったが、私の拘束が解かれる気配はなかった。


「また命拾いしたわね、あんた。……といっても執行が少しばかり先に延びただけだけど」


 カッツェは注射器を手にすると私にこれ見よがしに突きつけ、ふたたび台に戻した。


「殺すのは大好きだけど、眠らせるのはあまり好きじゃないのよね。……それに、せっかく捕まえた獲物をすぐに手放すのは勿体ないわよねえ。そう思わない?」


 カッツェがそう口にした途端、パチンという音がして、手足が自由になる感覚があった。


「さ、立って。眠ってもらう前に、少し運動しましょ」


 私は恐る恐る体を起こすと、周囲を見回した。どうやらここは以前訪れた「裏クリニック」の出張所――「須弥倉クリニック」の地下らしかった。


 私は手術台から降りると、台を挟んでこちらを見据えているカッツェを睨みつけた。


 カッツェの手には、鞭を思わせる長いロープ状の物体が握られていた。


「さて、ちょっとばかし狭いけど、好きなところに逃げな。探偵の運動神経を試してやろうじゃないか」


 カッツェはそう言うと鞭の先端を床の上に叩きつけた。鞭の先には鉤爪を思わせる尖った金属が三本ほどついていた。


「行くよ、女ボスさん」


 私はカッツェの声を聞き終えないうちに動いていた。耳元で空気の鳴る音がして、カッツェの笑い声がこだました。気が付くと私はほんの数歩で壁際に追いやられていた。


 私はカッツェがわざと狙いを外してるのだと確信した。この狭い空間のどこへ逃げようとも、いずれあの鉤爪の餌食となることは確実だった。


「ほらほらもっと動きなさい」


カッツェの手元で鞭がしなり、いやな音が耳に突き刺さった。私は姿勢を低くすると、でたらめな方向に飛びだした。次の瞬間、首筋のあたりを強く引っ張られるような感覚があり、布地が引き裂かれる音と共に私は床の上に転がった。


「あはは、いい格好よ、ボス」


 私は必死で体を起こすと、敵の姿を探した。顎を引くとブラウスが切り裂かれ、胸元が大きくはだけているのが見えた。


「さあて、あんまり長くいたぶるのも気の毒だから、そろそろ終わりにさせてもらうよ」


 鞭が床の上でぴしゃりと音を立てるのを聞きながら、私はどこに逃げても同じだ、時間の問題だと思った。私がひそかに死を覚悟した、その時だった。どこからともなく、聞き覚えのある旋律が鳴り響いてきた。



 ――これは!


 それは、カントリークラブの広場でゴレムと戦った時に耳にした曲だった。

 音のした方を見ると、開け放たれた扉の前に、葦笛を手にした少女が立っていた。


「キャンディ……」


「まだまだ甘いなあ、お姉さん。こいつらに隙を見せたらこうなるに決まってるじゃない」


「くっ、貴様……」


 カッツェは私から目をそらすと、キャンディに憎悪のこもったまなざしを向けた。


「お久しぶり。お姉さんを返してもらいに来たよ」


「どこまで私の邪魔をすれば気が済むんだい。……今日こそはずたずたになってもらうよ」


「うふふ、そう簡単に行くかしら、おばさん……あ、おじさんかな?」


「ほざけ!」


 カッツェが鞭を持った手を振り被った瞬間、足元でガタンという何かが落下する音がした。はっとして下を見た私は、そこに現れた大量の黒い塊を見て、思わず悲鳴を上げた。


「……うっ!」


 黒い塊は一糸乱れぬ隊列でまっすぐカッツェを目指した。塊は、大きな鼠の群れだった。


「どうかしら、私のお友達は。仲良くしてあげてね」


 黒い集団にあっと言う間に包囲され、カッツェは鞭をいったん収めると、忌々し気に足元の鼠たちを蹴散らし始めた。


「……このっ、このっ」


「あら素敵なステップね。あなたがダンス好きとは知らなかったわ」


「……ちっ、言わせておけば!」


 カッツェはどうにか動けるだけの場所を空けると、ふたたび鞭を構えた。……と、一匹の鼠がカッツェの脚に駆け上がり、手首に噛みついた。


「……痛っ」


 カッツェが思わず鞭を取り落とすと、そこに群がった鼠たちが鞭全体を齧り始めた。


「なっ、なにをするっ!それは特殊カーボン製で食べられるものじゃないんだぞ!」


「どうかしら。ここの鼠達はビルの配電ケーブルなんかも齧ってぼろぼろにしちゃうのよ」


「なんだと……」


 カッツェはあらためて足元を見遣り、信じられないという顔つきになった。最大の武器である鞭が、一瞬でぼろぼろになっていたからだった。


「くそっ、なんてことを……うわっ」


 カッツェが下を向いたまま毒づいた瞬間、突然、巨大な黒い塊がカッツェの頭上に出現し、不意を衝かれたカッツェはそのまま黒い影の下敷きになった。


「……コンゴ!」

「……ボス?」


 カッツェの身体の上で目をきょろきょろさせているのは、金剛だった。私の危機を感じ取って飛んで来たのに違いない。


「ここは?いったいどこです」


 呑気に尋ねかけたとたん、身体の下からカッツェが這い出し、金剛はバランスを崩しひっくり返った。


「痛っ!……なんなんだよ、もう」


 ぶつくさ不平を言いながら頭を振っている金剛を尻目に、私はカッツェが逃げた方向を見やった。驚いたことに、ドアの近くにはカッツェの姿もキャンディの姿もなく、あれだけいたネズミ達すら掻き消すように姿を消し去っていた。


「コンゴ……ありがとう。カッツェと小峰医師にモルモットにされるところだったわ」


「なんですって。……あっ、ちょっと待ってください」


 突然、携帯電話の呼び出し音が鳴り響いた。どうやら金剛にかかってきたらしい。


「うん、俺だ。……ここ?……わかんねえよ、とにかくボスがいるってことはきっと、ピンチだったんだろうさ。……何?いきなり消えるなって?しょうがねえだろう、おまえさんが運転を誤るのとボスの危機を放っとくのとどっちが大事だよ。……ああ、ようするに俺の方が先にボスを迎えに来ちまったってことさ、結論から言うとな」


 金剛が会話しているのは、どうやら大神のようだった。


「コンゴ……さすがに今回ばかりは私も駄目かと思ったわ」


「まあ、気にしなさんな。……それより早くここを出ましょう」


 金剛の言葉に私は頷き、ふらふらとドアの方に移動した。ドアの外は、見覚えのあるボイラー室だった。ぼんやりと金剛が出てくるのを待っていると、ふいに背後から泣き声交じりの金剛のぼやきが聞こえてきた。


「畜生、なんだってここのドアはこんなに小さいんだ。これじゃあ出られやしねえぜ」


 何だか以前にもこんなことがあったな、そう思いながら私は振り返り、ドアから出ている金剛の腕を引っ張り始めた。


                   ※


 翌日から、私の仕事は完全に事務所詰めオンリーになった。


 無理もない、と私は思った。さすがにあれだけ立て続けに襲われては、外の調査に出すわけにはいかないだろう。


 私は人の出はらったオフィスで、古森のパソコンを操作する音と久里子の掃除の音をぼんやり聞いていた。


「……ねえ、ヒッキ」

「……はい?」


 モニターから顔を外さないまま、古森が答えた。


「これで一日中、何の報告もなかったら、それで私の仕事は終わりってこと?」


「……そうなりますね」


 私は愕然とした。これでは仕事をしていないのは私だけではないか。私はいそいそと棚を整理しにかかっている久里子を、ほんの少し恨めし気な目で見た。


「何だい、暇すぎて間が持たないのかい。……どっしり構えているのも、ボスの役目だよ」


 あっさりと諭され、私は閉口した。確かにその通りではあるのだが。


 諦めて過去の調査記録でも探そうか……そう思った時、ふいに机の上の電話が鳴った。


              〈第三十回に続く〉

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