第14話 歯科医の中心で闇に沈んだ小娘


 診察室は思いのほか広く、奥に向かって治療用の椅子が三つほど並んでいた。

 小奇麗なだけに、従業員が一人もいないという光景は逆に不気味な感じを抱かせた。


 私は奥に向かって慎重に歩を進めていった。「須弥倉クリニック」に忍び込んだ時も、周囲に人の気配などなかったのに不意を突かれたのだ。用心するに越したことはない。


 フロアのどん詰まりは壁で、扉のような物は見当たらなかった。私は立ち止まって宙を睨み、思案し始めた。


 ――やはりここではなかったのか?


 出たとこ勝負で尾行などせず、石さんともう一度「須弥倉クリニック」を調べた方が確実だったのではないか?……だが、と私は思った。ここには何かある。


 ここと「須弥倉クリニック」との間の空間に、必ず何かがあるはずなのだ。


 私はその場で視線だけをめぐらせ、周囲を今一度あらためた。向かって右側の壁面にはオフィス街が見える大きなはめ殺しの窓と、排煙ダクトがあった。

 入り口近くには受付カウンターがあり、奥にカルテなどをしまうキャビネットの一部が見えた。


 ――なんのことはない。ごく普通の歯科クリニックだ。


 私は肩の力を抜くと、二、三度深呼吸をした。他に何か、他所へ通じる扉のような物はないか――


 そう思いながらあたりを見回した、その時だった。私の目がフロアのある一角に吸い寄せられた。それは、放射性物質のマークが描かれた金属製の扉だった。


 レントゲン室だ。私は「関係者以外立ち入り禁止」と記されたプレートが掲げられた扉に近づくと、取っ手に手をかけた。どうせ、施錠されているに決まっている――そう思いながら手前に引くと、案に相違して扉は重い手ごたえと共にゆっくりと開いた。


 ――嘘でしょ。


 私は目の前で起きたことが信じられないまま、現れた狭い空間に足を踏み入れた。


 部屋の中央に撮影用の椅子が付いた太い柱があり、すぐ傍の天井近くにカメラがあった。


 レイアウトは私が見知っている歯科のレントゲン室と相違なかった。要するに、椅子に座ってカメラが降りてくるのを待つ形なのだろう。


 だが、と私は思った。どこかに普通のレントゲン室とは異なる箇所があるはずだ。


 私は装置類に目を近づけると、知識がないにもかかわらず、丹念に見て行った。やがて私の目が、柱のある一点に吸い寄せられた。それは、小さなダイヤルだった。


 ダイヤルには「X」の文字が刻まれており、その下にはカメラを現すらしい絵があった。


 ダイヤルには刻みが入っており、左右の表示を選ぶようになっていた。右側には「R」の文字が、左側には「E」の文字が描かれ、現在は「R」に刻みが合わせられていた。


 ――これっていったい、どういう意味?


 私は少し考えた。「X」と「R」を続けて読むと「XR」だから、X線のことと考えられる。つまりレントゲンの装置を使用するときは、右に回すということになのだろう。


 では「E」は何か。続けて読むと「EX」。単純に考えると「それ以外」という意味になる。


 私は思い切ってダイヤルに手を伸ばすと左に百八十度、回転させた。すると部屋のどこかでカチリと音がして、足元からモーターの駆動音に似た振動が伝わってきた。何だろう、そう思っているとダイヤルの下のカメラの絵がくるりと回り、下向きの矢印と「EV」という小さな文字とが現れた。


 私は矢印に導かれるように、柱を背にして撮影用の椅子に座った。本来ならここで鉛の入ったエプロンをつけて、降りてきたカメラに顔を寄せるところだった。……が、カメラは降りて来ず、代わりに私の座っている椅子がゆっくりと床の下に沈み始めたのだった。

 

 ――何これ!


 私は思わず身じろぎをした。……が、立ちあがることはもちろん、前に身体を傾ける動作さえできそうになかった。そうこうしているうちに私の周囲はコンクリートのシャフトで塗りつぶされ、椅子は容赦なくぐんぐん下降していった。


 四~五階ほど降りただろうか。突然、灰色の風景が消え失せ、目の前に別の空間が出現した。空間はレントゲン室とほぼ同じ大きさの部屋で、椅子はゆっくりと床に接地すると、動きを止めた。


 私はそれまで堪えていた息の塊を一気に吐き出すと、周囲を見回した。灰色の壁のあちこちに配電盤のような金属のパネルがあり、その近くには建物の内部が表示されたディスプレイがあった。どうやら電力などを管理する小部屋のようだ。


 私は椅子から立ちあがり、出口を探した。あれだけ降りたのだから、恐らく地下に違いない。私はぞっとした。ビルの内部に正規のものではない、私用のエレベーターを勝手に設置できるとしたら、この部屋の主はビルのオーナーか、それと同様の力を持っているということになる。


 私はほどなく、唯一の出口を思われる金属製の扉を見つけ出し、取っ手を掴んだ。


 この向こうには一体、何が待つのだろう。もし我々と敵対する存在が待ち構えていたなら、一人の味方も付けずにやってきた私など、簡単に闇に葬られてしまうに違いない。


 私は改めて己の迂闊さを恥じると同時に、なぜかその真逆の好奇心にも駆られていた。


 私は緊張と恐怖で胃が締め付けられるのを感じながら、思い切ってドアの取っ手を引いた。


              〈第十五回に続く〉

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